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思悼世子(サドセジャ)の側室 肅嬪 林氏・景嬪 朴氏・守則 李氏の生涯

サドセジャの側室たち 2 李氏朝鮮の妃・側室

思悼世子は第21代朝鮮国王 英祖の息子。

王位継承者でしたが。1762年に英祖の命令で米びつに入れられて死亡します。

衝撃的な人生のため何度もドラマ化されています。

思悼世子には正室の恵嬪(恵慶宮)がいたことは良く知られています。でも側室はあまり知られていないのではないでしょうか。思悼世子も王位継承権をもつ王子ですから側室はいます。

思悼世子本人が悲劇的な最期をとげたとこともあり、側室たちも不運な人生をおくった人ばかりです。

思悼世子の側室はどのような人物だったのか紹介します。

 

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思悼世子の側室

思悼世子の側室で存在が知られているのは3人。

  • 肅嬪 林氏 (林兪惠:イム・ユヘ)
  • 景嬪 朴氏 (朴氷愛:パク・ピンエ)
  • 守則 李氏

です。

この当時の女性には珍しく名前がわかっている人もいます。側室の名前が分かるのは惠慶宮の書いた「恨中録」に書かれているからです。

思悼世子は素行が悪く、周囲の女性にも暴力をふるうことがあったようです。思悼世子の死後は側室たちは皆、宮中を出て暮らしました。

思悼世子は側室たちも皆苦労しました。

 

肅嬪 林氏:子孫から哲宗が誕生

肅嬪 林氏(スクピン イムシ)は宮女出身の側室。

恩彦君と恩信君の二人の王子を産んでいます。二人の王子は後の朝鮮王朝にとっても重要な人物です。

 

姓:林(イム)
名:兪惠(ユヘ)
称号:肅嬪(スクピン)
生年:不明
没年:1773年

子供:

  • 恩彦君 李裀
  • 恩信君 李禛

 

おいたち

肅嬪 林氏の生年は不明。

出身は京畿道金浦といいますが、彼女の出自についてはあまり知られていません。

父は林昌周。母は金海金氏。

惠慶宮の書いた「恨中録」によると名前は「兪惠(ユヘ)

時期は不明ながら彼女は宮女として入宮しました。

思悼世子の側室になる

1752年(英祖28年)ごろに思悼世子の目に留まり側室になりました。

やがて懐妊。従二品の良娣(世子の側室)になりました。

1754年。恩彦君 李裀を出産。

1755年には二人目の恩信君 李禛を出産。

思悼世子の死亡で宮殿を追い出される

1762年(英祖38年)。思悼世子が米櫃に閉じ込められて死亡。

すると良娣林氏は称号を剥奪され宮殿を追い出されました。

1767年。英祖の命令で彼女が住む家が用意され、漢城に自宅を与えられて暮らしました。この家は後に「良娣宮」と呼ばれます。

1773年。死亡。
第一子を出産したのが20歳くらいだとすると、40歳くらいで亡くなったことになります。

結局、生きている間は世子の側室としての称号が復活しませんでした。

死後、地位が復活

1776年。英祖が死去。正祖が即位。正祖の命令で「良娣」の称号が復活しました。

1899年(高宗36年)。高宗の命令で内命婦正一品「嬪」として追贈され「肅嬪」の称号が与えられました。

子孫から哲宗が誕生

彼女は思悼世子との間に二人の息子をもうけました。恩彦君恩信君です。実はこの二人は後の朝鮮王朝にとっても重要な人物です。

息子の恩彦君恩信君 は思悼世子の死後も、王族として暮らしていました。金亀柱と洪鳳漢の政争の犠牲になって江華島に流罪になり、1771年に恩信君は死亡してしまいます。

恩彦君は流刑先を移転しながらも島で生き続けました。

島で暮らしていた恩彦君の子孫から哲宗が誕生。

朝鮮哲宗

朝鮮哲宗(復元)

 

そのため肅嬪 林氏は哲宗の曾祖母になります。

 

恩信君は高宗の系譜上の祖先

恩信君は高宗が即位したときの系譜上の曾祖父になります。

実際には高宗は恩信君の子孫ではありません。仁祖の三男 麟坪大君の子孫です

孝宗(仁祖の次男)から続く英祖や正祖の系譜とは違います。

正祖の血筋が途絶えたとき最も血筋が近いのが正祖の異母弟 恩彦君の子孫でした。そのため林氏の子孫から国王が誕生したのです。しかし恩彦君の血筋も途絶えてしまいます。

でも即位するために恩信君の後継にしました。

英祖や正祖に王朝の始祖を意味する「」の字がついているのも、高宗が恩信君の後継となり英祖の系譜の一員になったからです。

 

 

テレビドラマ

大王の道 1998年、MBC 演:コ・ホギョン 役名:粛嬪イム氏

 

 

景嬪 朴氏:思悼世子に撲殺された側室

景嬪 朴氏(キョンビンパクシ)も宮女出身の側室。恩全君と清根県主を産みました。朴氷愛(パク・ピンエ)の名で知られます。

思悼世子に愛された側室だったはずですが、思悼世子を怒らせ撲殺されてしまいます。

 

姓:朴(パク)
名:氷愛(ピンエ)
称号:景嬪
生年:不明
没年:1761年1月

景嬪 朴氏はもとは仁元大妃(肅宗の3人目の王妃)に使える宮女でした。

恨中録によると彼女の名前は朴氷愛(パク・ピンエ)

仁元大妃の死後。1757年(英祖33年)に思悼世子が朴氷愛に手を出して自分の妾にしました。

朝鮮の法律では目上の人に仕える宮女を自分のものにするには許可が必要。でも思悼世子は無許可で自分の妾にして和緩翁主の部屋に匿いました。

それを知った英祖は激怒したものの、結局は朴氷愛が思悼世子の妾になるのは認めました。

位は従六品守則だったので側室ではなく尚宮(五品)より下の宮女のままです。

その後、朴氷愛は恩全君 李禶清根県主(後の清根翁主)を出産。

 

思悼世子に撲殺される

思悼世子は日頃から素行がよくない王子でした。そのため朴氷愛は思悼世子の行いを指摘することがよくあったと言います。そのため思悼世子から怒られることがありました。

そして1761年1月。朴氷愛が思悼世子の着替えを手伝っていたところ。思悼世子が急に怒り出して朴氷愛を殴り殺してしまいます。

日頃の行いを朴氷愛から指摘されて癇癪を起こしたようです。このへんが思悼世子の思慮のなさです。

それを知った英祖は「愛していたなずなのに、なぜ殺したのだ」と怒りました。

思悼世子は「自分の行いに対して諫言したからだ」と答えましたが、後に「頭がおかしかったのだ」と言い直します。

こうした行いが積み重なって1年後に思悼世子も命を落とすことになります。

1899年。高宗の時代。朴氷愛には「景嬪」の称号が与えられました。

子供:

  • 恩全君 李禶
  • 清根県主(清根翁主)

 

恩全君 李禶は後に政争に巻き込まれて賜死になってしまいます。

 

テレビドラマ

秘密の扉 2014年、SBS 演:キム・ユジョン、ユン・ソヒ

 

パク・ピンエの名前はドラマ「秘密の扉」でイ・ソンと知り合ったソ・ジダムが名乗っています。

 

守則 李氏

守則 李氏も宮女出身の側室。

思悼世子と一緒だった期間は短く、正式には側室とは認められていなかったようです。

 

姓:李(イ)
名:不明
称号:貞烈
生年:1746年
没年:不明。

生没年や家族は不明。

1755年。10歳のときに入宮。宮女になりました。

1760年。思悼世子の寵愛を受けました。でも側室としての位は与えられませんでした。

1762年に思悼世子が死亡すると宮殿を出て実家に帰ります。思悼世子に仕えはじめてわずか2年でした。

やがて李氏の生活は苦しくなったようです。

1791年(正祖15年)。李氏が生活に困っているという話を聞いた正祖は李氏に「守則(従六位)」の位と「貞烈」の号を与え、新しい住居と生活に必要なものを与えました。

それ以降は記録がないのでどうなったのかはわかりません。

思悼世子の他の側室、林氏と朴氏は高宗時代に「嬪」になりました。でも李氏は子供がいなかったせいか、高宗時代にも追号は受けていません。宮女としての扱いのままです。

まとめ:苦難を味わった思悼世子の側室たち

この記事では、思悼世子の側室たちについて紹介しました。
 
彼の正室 恵嬪(恵慶宮)はよく知られていますが、側室たちもまた興味深い運命を辿っていましたね。
 
肅嬪林氏は子孫から哲宗が出たので後世でその存在が重要視されました。でも生前は苦難の生活を強いられました。
景嬪朴氏は思悼世子の暴力により命を落とすという悲劇的な最期を迎えました。
守則李氏は思悼世子と過ごした期間は短いですが、思悼世子に関わったばかりに苦労しました。
 
彼女たちの人生は思悼世子の悲劇的な結末と無縁ではいられません。
 
あまりドラマにはならない人たちですが、それぞれが苦労をしていたのです。
 
思悼世子の正室
恵慶宮洪氏の生涯。

 

 

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