李适(イ・グァル)は朝鮮王朝の仁祖の時代に起きた反乱「イ・グァルの乱」を引き起こした人物です。
ドラマ『華政(ファジョン)』にも登場。やはり劇中でも反乱を起こした李适(イ・グァル)という人物が気になった方もいるのではないでしょうか。
でもドラマではその一部が描かれていますが、「実際の李适はどんな人物だったのだろう?」「反乱はなぜ起きたのだろう?」と、さらに深く知りたいと思われたかもしれませんね。
この記事ではドラマ「華政」にも登場する李适(イ・グァル)の史実に基づいた生涯をたどり、なぜ彼が「イ・グァルの乱」を起こしたのか紹介します。
李适とは?ドラマ「華政」で注目の武将
李适(イグァル)とは?
項目 | 内容 |
名前 |
李适(イ・グァル)
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字 |
白圭(ペッキュ)
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本貫 | 固城 |
生年月日 | 1587年 |
没年月日 | 1624年2月14日 |
享年 | 38歳 |
身分/職業 |
朝鮮中期の武臣、軍人、政治家
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出身地 |
京畿道 驪州郡 驪州邑(現在の韓国 京畿道 驪州市)
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李适(イグァル)の家族
続柄 | 名前(漢字 / 日本語読み) | 補足 |
父 | 李磾(イ・ジェ) | |
母 | 東萊鄭氏(トンネチョンシ) |
鄭淳蝦(チョン・スナ)の娘
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兄 | 李胤(イ・ユン) | |
兄 | 李胄(イ・ジュ) | |
弟 | 李遯(イ・ドン) | |
妻 | 廣州李氏(クァンジュイシ) |
李邦佐(イ・バンジョ)の娘
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息子 | 李栴(イ・チョン) |
李适(イグァル)の生涯
李适の生涯と始まり
李适(イ・グァル)は1587年生まれ。京畿道驪州の出身です。古い歴史を持つ固城李氏の家系です。燕山君時代の戊午士禍で兄が罪に問われたため、慶尚北道清道に逃げ延びて暮らしていました。
彼は武官として活動しましたが、武芸だけでなく文章や書道も得意だったと言われます。
19歳で武科に合格。官職に就きました。宣伝官などを務め、その後は明川県監などを歴任します。辺境の情勢に詳しいと評価されていました。
ただ、若い頃は「年若い武官として度を越した行いを多く行った」と弾劾され一時官職を辞めさせられたこともあります。
光海君時代と仁祖反正
光海君(クァンヘグン)の時代も官職を務めます。高霊郡守、永興府使などを経て、1616年からは済州牧使を3年間務めました。
済州牧使時代には許可なく軍糧や武器を集めて弾劾されますが、王が収めました。任務のためなら強引な手も使う人物で、王もその能力をある程度認めていたのでしょう。
その後、捕盗大将を経て1622年には咸鏡北道兵馬節度使に任命されます。
この赴任直前、李适は金鎏(キム・リュ)や李貴(イ・グィ)から、光海君を廃位する反正(パンジョン)の計画を知らされます。最初は断りましたが申景裕(シン・ギョンユ)の強い勧めを受けて参加を決意。
反乱には彼の武官としての能力が必要だったのですね。
仁祖反正での功績
1623年4月11日。西人派たちは光海君に対してクーデターを起こしました。仁祖反正(インジョパンジョン)と呼ばれる事件です。
反正軍の大将を務めることになっていた金瑬(キム・リュ)は、情報が漏洩したという知らせを聞くと挙兵場所に現れず、自分が無関係なふりをしていました。李适が代わりに大将を務めて軍を動かすと、金瑬はそれからようやく遅れて現場に現れ、反乱軍に合流しました。
彼は兵を率いて漢城(当時のソウル)を捜索し光海君を逮捕するなど、反正成功に主導的な役割を果たしました。李适の決断がなければ成功しなかったと言われるほどです。
仁祖反正での功績と募る不満
1623年4月11日、仁祖反正(インジョパンジョン)が決行されます。本来指揮するはずだった金自點(キム・ジャジョム)が来ない中、李适が代わって指揮を執り、光海君を逮捕するなど、反正成功に決定的な役割を果たしました。彼の決断なくして成功はなかったと言われるほどです。
李适は仁祖反正の最大の功労者の一人、李适は靖社功臣となりました。ところが論功行賞で彼は金鎏より低い2等功臣とされました。李貴が「反正の日、李适の功績が多かった」と李适の功績を主張しましたが、金鎏は認めませんでした。
漢城判尹に任命されましたが、すぐに平安道地方に女真族の侵入が予想されるという理由で平安兵使兼副元帥に決まって異動になりました。
この決定は李适の高いプライドを傷つけました。公正な評価を得られなかった不満が反乱へと傾く大きな原因の一つとなります。
また若すぎる成功や官歴不足が影響した可能性もあります。年上の重臣たちとの軋轢も不満を深めました。
国境守備の現実
論功行賞での不満や孤立を受け李适は平安道兵馬節度使兼副元帥として、国境の寧辺(ヨンビョン)へ赴任しました。
これは中央からの追放に近い意味合いがあったかもしれません。平安道は当時、後金(のちの清)との国境争いが頻繁にある緊迫した最前線でした。
李适は赴任後は後金に備えて城を築くなど国境守備に尽力しました。彼は有能な武将ですから、任務はこなしました。
でも政治的な思惑で送られたことには不満が残ります。
さらに最前線で厳しい現実を見た彼にとって、派閥争いに明け暮れている中央の権力者の姿がますます腹立たしいように思えたでしょう。
イ・グァルの乱の経過
孤立と誣告、そして反乱へ
論功行賞への不満に加え、当時の朝廷を握る西人派内の派閥争いに巻き込まれ李适は孤立していきます。
中央の権力者たちは彼を牽制し排除しようとしました。彼を逆謀に陥れようとする動きもあり、文熙(ムン・ヒ)や李友(イ・ウ)といった人物が、李适の息子李栴(イ・チョン)が反乱を企てていると仁祖に告発したのです。
李适の息子 李栴(イ・チョン)は功臣たちの横暴を批判していたようですが、それが罪に問われたのでした。
1624年1月、息子逮捕のため金府都事(クムブトサ)らが李适が守る寧辺(ヨンビョン)に到着。朝廷からの弾劾も続きました。息子が不当な罪で捕らえられそうになったことと、長年の不満が爆発した李适は、ついに挙兵を決意します。
彼は金府都事らを殺害、部隊を使って息子や元義兵長の韓明璉(ハン・ミョンリョン)らを救出しました。
破竹の進撃と首都占領
こうして始まった李适の乱は、驚くべき速さで勢力を拡大しました。もともと国境を守るために編成された李适率いる軍は強くて各地で官軍を撃破しながら南下。朝廷は有効な対応ができず混乱しました。
反乱軍は進撃を続け、ついに首都漢城(ハンソン)に迫ります。反乱軍を止められないと思った仁祖王と重臣たちは首都を捨てて南方の公州(コンジュ)へ避難します。
挙兵からわずか19日後、李适の反乱軍は漢城を占領。首都を制圧した李适は宣祖(ソンジョ)の庶子、興安君(フンアングン)を新たな王として擁立。
短期間ながら新政権を樹立しました。仁祖反正から1年も経たない出来事でした。
しかし、この裏で悲劇も起きました。漢城に残された李适の妻や舅李邦佐(イ・バンジョ)、弟李遯(イ・ドン)ら家族が朝廷側によって処刑されたのです。凌遅処斬(りょうちしょざん)という残酷な方法でした。
李适の最期
進撃していた李适の軍でしたが、運命は変わります。安嶺(アンリョン)で都元帥 張晩率いる討伐軍と激突し、決定的な敗北を喫しました。李适は残兵を率いて利川(イチョン)へ退却します。
しかし、形勢逆転を悟った部下たちは李适を見限りました。部下の李壽白(イ・スベク)や奇益獻(キ・イクホン)らによって、李适はその場で殺害されたのです。自らの反乱で、部下に裏切られ最期を迎えるという悲劇的な結末でした。
李适の遺体は重罪のため凌遅処斬に処され全国に送られたと言われます。首は仁祖が避難していた公州に送られてさらし首になりました。
李适の乱はこうして短期間で終わったのです。参加者も厳しく処罰されました。
「イ・グァルの乱」が歴史に残したもの
朝鮮王朝への影響
イ・グァルの乱は短期間で鎮圧されましたが朝鮮王朝にダメージを与えました。
- 首都が反乱軍に占領され、王が逃げたので王室の権威を失墜させました。
- 鎮圧に軍事力が消耗され、国内も疲弊しました。
- 反乱の原因が西人派内の対立にあったので、鎮圧後も西人政権内の対立は深まり基盤が不安定化。鎮圧の功績を巡る新たな論功行賞もさらなる政治対立の火種になりました。
後金(清)との関係悪化
影響は国内だけではありません。後金(のちの清)との関係も悪化させました。李适は後金戦に備え平安道にいましたが、反乱で北方の守備兵力が弱体化しました。
反乱後に後金に降伏したり協力を求めたりした残党もいました。後金側はこの混乱を利用して朝鮮への圧力を強めました。
乱による弱体化は、数年後の「丁卯の役(ていぼうのえき)」といった後金の侵攻を招く原因の一つになりました。このとき後金は李适の元部下たちの救援要請に応えるという形に朝鮮に軍を派遣したのです。
まとめ
ドラマ「華政」にも描かれた李适(イ・グァル)と「イ・グァルの乱」を解説しました。
李适は仁祖反正で功績を挙げた武将ですが、論功行賞への不満や権力争い息子への誣告で追い詰められ反乱を起こします。
乱は短期間で首都漢城を占領したものの鎮圧され、李适は部下に裏切られ悲劇的な最期を迎えました。この反乱は朝鮮に混乱をもたらし、後の後金(清)侵攻の一因となりました。
せっかく仁祖を王にして大手柄を立てたのに、その後は報われない。自分は国境を守り、後金に備えているのに中央では重臣たちが権力争いをしている。それを批判した息子が謀反人扱いされる。それでは李适も起こしたくなるでしょう。
結果的に反逆者にされてしまった李适ですが、彼の生涯は単純な善悪では測れない複雑さです。
歴史を知るとドラマももっと深く楽しめると思います。
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