趙泰耉(チョ・テグ)は李氏朝鮮の重臣です。
19代粛宗~20代景宗の時代に活躍し臣下としては最高位の領議政になりました。
少論派に所属して景宗を支持して老論と対立しました。しかし極端な処分をもとめる少論の強硬派とは違う意見の持ち主でした。
史実の趙泰耉(チョ・テグ)はどんな人物だったのか紹介します。
趙泰耉(チョ・テグ)の史実
いつの時代の人?
生年月日:1660年
没年月日:1723年
名前:趙泰耉(チョ・テグ)
雅号:素軒、霞谷
父:趙師錫
母:安東権氏
妻:
彼が生きたのは朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に19代粛宗~20代景宗の時代です。
日本では江戸時代の人になります。
おいたち
1660年に生まれました。
父は左議政をつとめた趙師錫。
趙師錫は仁祖の継妃だった荘烈王后趙氏の従兄弟です。
1683年(粛宗9)。
1686年(粛宗12)。別試に合格して下級役人になりました。
1691年。芸文館検閲(正九品)。父・趙師錫が粛宗の怒りをかって失脚。その影響で職を失いました。
しかしその後復帰。
司憲府地平(正五品)、承旨、平安道監察使、都承旨などを務めました。
その後出世して、吏曹参判、漢城府判尹などを務めました。
1710年には清に使者として向かいました。しかし清からの帰りに書類を入れた箱を無くした罪で罷免されます。
その後復帰して漢城府判尹、礼曹判書、吏曹判書、工曹判書、戸曹判書、兵曹判書、工曹判書などを歴任しました。
1720年。粛宗が死去。景宗が即位しました。
景宗時代
1720年。趙泰耉(チョ・テグ)は右議政になりました。
このろこには趙泰耉は少論のリーダーになっていました。
景宗の即位直後は老論が強い勢力をもっていました。
しかし少論は支持していた景宗が即位したので老論に反撃しようとします。少論の趙重偶が禧嬪張氏に称号を与えるように上訴。しかし老論の反対にあって趙重偶が処刑されました。
勢いに乗った老論は延礽君(ヨニングン)を世弟にするよう要求。それに対して少論の柳鳳輝が老論を批判しました。老論は猛反発。趙泰耉は柳鳳輝を庇いましたが、力及ばず柳鳳輝は流刑になりました。趙泰耉も柳鳳輝をかばった罪で謹慎処分になってしまいます。
代理聴政に反対して命がけの直訴
その後、代理聴政も要求しましたが少論は反対しました。趙泰耉は謹慎中だったので動けませんが、李光佐たちが中心になって反対していました。
李光佐(イ・グァンジャ)は謹慎中の趙泰耉に景宗に直訴するように進言しました。しかし謹慎中は王に直訴できない決まりでした。死罪になる可能性すらあります。しかし趙泰耉は直訴を決意します。
趙泰耉は景宗のもとに向かいました。しかし案の定、係の役人に取次を断られてしまいます。ところが景宗が許可したので会うことができました。
趙泰耉が景宗に会いに行ったという話を聞いた老論の大臣たちは、あわてて景宗のもとにやってきました。
趙泰耉は李光佐や老論の大臣たちとともに景宗に会って代理聴政をやめるように説得しました。
趙泰耉は
「それがしは弾劾された身で、さきほどまで謹慎しておりました。しかし代理聴政のご命令を大臣らが撤回させないまま帰ったと聞き、いてもたってもいられず、慌てて参内したしだいです。この国は殿下一人のものではございません。王位すら王の意のままにはできないのです。それがしが殿下をおひきとめできなければ、殿下だけでなく、粛宗大王をも裏切ることになってしまうでしょう。それがしは死を覚悟して殿下に撤回をお願いするしかありません」
と、泣きながら訴えました。
景宗は趙泰耉の命がけの説得をうけて代理聴政を撤回しました。老論も認めるしかありません。
延礽君の代理聴政はなくなりました。
勢いづく少論
こうして勢いづいたのが少論派です。
1721年11月。趙泰耉(チョ・テグ)は領議政になりました。
勢いに乗る強硬派の金一鏡(キム・イルギョン)たちが老論を弾劾。老論大臣の死刑を要求しました。
趙泰耉は死刑には反対しました。しかし強硬派の勢いを止められません。
老論四大臣、金昌集(キム・ジャンチプ)、李頤命(イ・イギョム)、趙泰采(チョ・テチュ)、李健命(イ・ゴンミョン)らが死刑。他にも老論の多くが投獄、処刑されました。
派閥は違いますが趙泰采(チョ・テチュ)は趙泰耉(チョ・テグ)の親戚でした。
趙泰耉は少論の過激派を抑えることができず彼らの死刑を認めるしかありませんでした。
老論を失脚させた少論の天下になりました。
その後も、趙泰耉は領議政にありつづけましたが少論の強硬派を止めることができません。
1723年6月。少論と老論の対立が続くなか。在職中に死亡しました。
テレビドラマ
ヘチ 2019 SBS 演:ソン・ビョンホ
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