荘穆王后(そうぼくおうこう)は高麗第25代・忠烈王の正室。
第26代・忠宣王の生母です。
高麗では元成公主(げんせいこうしゅ、ウォンソンコンジュ)
モンゴルでは斉国大長公主(さいこくだいちょうこうしゅ)とも呼ばれます。
本名は「クトゥルク・ケルミシュ」。
チンギス・ハーンの血をうけつぐモンゴル王族ボルジギン氏の出身です。
モンゴル出身の王族で初めて高麗の王妃になった人物です。
史実の荘穆王后(元成公主)はどんな人物だったのか紹介します。
王旭(ワン・ウク)の史実
いつの時代の人?
生年月日:1259年
没年月日:1297年
姓:ボルジギン(孛兒只斤)氏
名:クトゥルク・ケルミシュ(忽都魯揭里迷失)
モンゴルでの称号
安平公主→斉国大長公主
高麗での称号
元成公主→荘穆仁明王后・仁明王太后
公主とは中国王朝や臣下の国(朝貢して冊封体制に入っている国、朝鮮など)で「王女」の意味です。母は王の正室または妃嬪。臣下の国では王の正室に限られます。
父:フビライ(モンゴル帝国第5代皇帝・元朝初代皇帝)
母:阿速真可敦の娘
夫:忠烈王(第25代高麗王)
子供:2男1女。
王璋(ワン・ウォン、 第26代高麗王・忠宣王)
高麗王朝、24代元宗~25代忠烈王の時代に生きました。
日本では鎌倉時代になります。
おいたち
1259年。モンゴル帝国で生まれます。
本名はクトゥルク・ケルミシュ(忽都魯揭里迷失)。
父はモンゴル帝国第5代皇帝フビライ。
首都を大都に移して「元」という国名を採用した皇帝です。
元王朝初代皇帝といわれることもあります。
日本では元寇(蒙古襲来、文永・弘安の役)を行った皇帝としても知られます。
母は阿速真可敦(アソキシン・カトゥン)
荘穆王后(元成公主)は、モンゴルの王族・ボルジギン(孛兒只斤)氏の一族。
チンギス・ハーンのひ孫になります。
忠烈王が即位、高麗王妃になる
1274年。大都で人質生活をしていた高麗の世子・王芯(忠烈王)と結婚しました。
その年。高麗王・元宗が死去したため・王芯が高麗王になりました。
クトゥルク・ケルミシュは高麗王妃になりました。
もともと忠烈王は1256年に王族王絪の娘・貞信府主と結婚していました。しかし1259年。高麗がモンゴル帝国に服従しました。そのためモンゴル王室から正室を迎えることになったのです。
高麗王はモンゴル皇帝の府馬(娘婿)扱いになりました。
クトゥルク・ケルミシュはモンゴル時代の従者を引き連れてきました。生活もモンゴル式を続けました。その影響で高麗にモンゴル式の習慣が広まりました。
明るい性格でしたが厳しいところもありました。忠烈王が狩りにでかけると、狩りをやめて国政に専念するように忠告したこともあります。自らの従者が罪を働いたときは厳しく罰することもありました。
その一方で、元成公主と親しい者の罪が軽くなったこともあります。元成公主と親しかった趙仁規(チョ・インギュ)が国から横領したときは島流しになりましたが、流刑先から釈放され官職についたこともありました。
1275年9月。長男・益知礼普花(イジリブカ)が生まれます。高麗より「元成公主」の称号が与えられます。
元成公主が王子を産んだことを祝って宴会がひらかれました。
このとき、忠烈王は元成公主と貞信府主の席を同列に並べました。元成公主は貞信府主と同じ扱いをうけたので激怒、貞信府主の席を移しました。
結局、宴会は険悪な雰囲気になって短い時間で終わってしまいました。
1276年12月。匿名の密告がありました。そこには「元成公主が忠烈王の寵愛を失うように、貞信府主が巫女を雇って呪いをかけている。諸安公・王宗をはじめとする43人が、再び江華島に入ろうとしている」と書かれていました。江華島はかつて、モンゴル軍が高麗を攻めたときに、高麗王族や武臣たちが立て籠もって抵抗した島です。つまり重臣たちがモンゴルに対して抵抗運動を起こそうとしていると書かれていたのです。
これを見た元成公主は怒って貞信府主と重臣を幽閉します。しかし翌日、柳璥の切実な訴えを聞いて感動して貞信府主たちを釈放しました。
1277年。高麗24王の第2王妃慶昌宮主とその息子諸安公・王宗が呪いを行っているという密告がありました。その内容は「諸安公が元成公主に婿入りして王位を継ごうとしている」というものでした。
忠烈王は大臣たちに慶昌宮主と諸安公を処罰するように命じました。ところが大臣たちは慶昌宮主母子を許すように言ったので財産を没収するだけにしました。
元成公主はこの決定を聞いて怒りました。元成公主は朝廷の手続きを省いて、慶昌宮主母子の財産を没収。自分のものにしました。
その後、元の皇帝の命令で慶昌宮主は配位され庶人に落とされ、諸安公は島に流刑になりました。
1294年。元の皇帝テムル(元宗)から「安平公主」の称号が与えられます。テムルは元成公主の甥です。
元成公主の最期
1297年。寿康宮にいた元成公主は庭に咲くシャクヤクの花をつんでくるように侍従に命じました。元成公主はその花をしばらく眺めすすり泣きました。
その後、5月にはいり元成公主は病になってしまいます。
5月12日。元成公主と忠烈王は顕聖寺に行きました。
5月21日。元成公主は顕聖寺に滞在したまま死亡します。
高麗から「荘穆仁明王后」「仁明王太后」の称号が与えられました。
1310年。元から「斉国大長公主」の称号が与えられました。
息子王璋(ワン・ウォン)の行った粛清
1297年7月。息子の王璋(ワン・ウォン)が元から帰国。
王璋は、忠烈王の寵愛を宮女の無比(ムービー)が独占していると知ると、無比を処刑しました。
母を病気にさせて、王の寵愛を失わせようとした。というのです。さらに複数の者を投獄したり処刑しました。
王璋は、当時未亡人だった淑昌院妃金氏を忠烈王の側室にします。
ショックを受けた忠烈王は譲位しました。王璋は高麗王に即位して忠宣王となります。
元成公主の立場
元成公主は高麗王が元からむかえた最初の妃です。元成公主からあと、高麗王の正室は元の皇族から迎えるのが慣習になりました。しかし皇帝の娘は元成公主だけです。後の時代になると、皇帝の娘以外の王族から高麗王妃が選ばれました。
高麗王の立場は、元皇帝の娘婿から臣下へと下がってきたことを意味します。
モンゴルの習慣が高麗にも広がるひとつのきっかけになります。朝鮮半島の人々が焼き肉を好きなのもモンゴルの影響です。下働きの女を意味する「ムスリ」もモンゴル語の「娘」を意味する言葉からきています。
高麗やその後の朝鮮半島の文化や習慣に様々な影響を残しているのです。
また。
モンゴルに服従させられた反感からか、高麗の記録には元成公主を悪く描く内容が多いです。高麗の記録もどこまで信用できるかわかりません。
でも、気の強い人物だったのは確かのようです。
コメント
朝鮮の王様は跡継ぎが居ない状態で亡くなってしまったら傍系の王族から養子を取る形で即位させるのは、どうしてなのか知りたいです。
直系が途絶えればそうするしかありませんね。
秦の武王が亡くなった後に、
王位を継ぐのは、
兄弟の中で年長の公子壮なのに、王位を継げなかったのは
どうしてなのか知りたいです。
国内では公子壮を擁立する動きもあったようですが。趙の武霊王が秦の後継者問題に介入。公子稷を国王にしようとしました。
前の国王の側近だった魏冄も公子稷を支持。武霊王の協力を得た魏冄たちが公子稷を即位させました。大国と国内の派閥の思惑が一致したようです。
そのいきさつはこちらも御覧ください。
https://korea.sseikatsu.net/gizenn/
高麗の睿宗が亡くなった時は、息子は、13歳だったから、高麗の慣習では、息子が若年だったら弟が、王位を継ぐのに、どうして息子が王位を継げたのか知りたいです。
当時力をもっていた外祖父の李資謙が王子の即位を強く願ったからですね。
若年の王子を即位させて、睿宗の弟たちは反発しなかったんですか?
李資謙によって反対派は粛清、島流しになった王族もいます。
円明国師に王位を継がせようとは誰もしなかったんですか?
李資謙に対抗できる人がいなかったってことですね。
朝鮮の明宗の後は兄の海安君じゃなくて、どうして甥っ子が王位を継いだのか知りたいです。
明宗は実子がなくその代わとして甥の河城君を指名しました。若い世代がいるのに兄を後継者にするわけにはいきませんよね。
朝鮮の中宗の王子の海安君が
どうして王位を継げなかったか知りたいです
原山 蓮さんこんにちは。海安君が王位を告げなかった最大の理由は王妃の子じゃないから。この時代の尹一族強いですからね。政争にもまきこまれたようですけれど。もう少し調べて記事にしますのでお待ち下さいね。