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王琠(ワン・ジョン)忠宣王の代わりに高麗王になろうとして失敗

2 高麗の王族

王琠(ワン・ジョン)は高麗の王族。

忠烈王の子ではありませんが、世子・王璋のかわりに後継者になろうとした人物です。

第26代国王・忠宣王の正室・靜妃王氏の兄弟です。4代前まで遡ると高麗王の第20代・神宗につながる家系です。

韓国ドラマ「王は愛する」では主人公ワン・ウォンの友人ワン・リンの兄として登場します。

史実の王琠(ワン・ジョン)はどんな人物だったのか紹介します。

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王琠(ワン・ジョン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:1307年5月20日

名前:王琠(ワン・ジョン)
称号:瑞興侯
本貫:開城王氏
父:王瑛(西原侯)
母:不明
妻:卞韓國順安妃皇甫氏

兄弟・姉妹
靜妃王氏
王玢(ワン・ブン)34代国王・恭讓王の曽祖父

高麗王朝の25代忠烈王の時代に生きました。
日本では鎌倉時代になります。

元で人質生活をしていた

王琠ワン・ジョンは王族の王瑛(ワン・ヨン)の次男として生まれました。4代前まで遡れは国王にたどりつく格式の高い一族です。王一族の中でも宗家に準ずる扱いを受けていました。

王琠ワン・ジョンの生まれた年は不明です。

1291年(忠烈王17年)。瑞興君の称号が与えられました。

1301年(忠烈王27年)。瑞興侯に昇進しました。

同じ年。禿魯花(トルカ)として元に派遣されます。

トルカとはモンゴル語で人質の意味。忠烈王の時代から王族や貴族の子弟を人質として送る事になっていました。モンゴルに送られた人質はケシクの一員になることが多かったようです。ケシクとは皇帝の護衛や身の回りの世話をする従者。世子時代の忠烈王や忠宣王もケシクとして働いていました。

ケシクになった人はモンゴル人と同じ格好をしなければいけません。つまり史実では王琠(ワン・ジョン)は元で暮らしてモンゴル式の髪型や服装をしていたのです。

忠烈王派と忠宣王派で分裂する高麗

1298年。忠烈王は忠宣王に譲位しました。忠烈王はモンゴル皇帝クビライの娘婿。忠烈王は国力を総動員して、モンゴル帝国の日本遠征(元寇、文永・弘安の役、1274・1281年)を積極的に支援しました。

なにしろ元王朝(モンゴル帝国)は大草原で暮らしていた遊牧騎馬民族が作った国。かつてモンゴル帝国に攻められた高麗朝廷が江華島に立て籠もっても海峡を渡れなかったほど海が苦手です。

海上戦の経験がゼロのモンゴル帝国が日本を攻撃するためには高麗の協力が必要でした。その結果、高麗は資金と労働力と資源を提供し大量の船を造り船乗りや兵士も提供し、経済的にも労働力も不足して国内は疲弊しました。忠烈王の時代はドラマで描かれるような華やかな時代ではなく貧しく荒れ果てた世の中だったのです。

重臣たちはモンゴル帝国のいいなりになっている忠烈王に不満をもっていました。

そんなとき、忠烈王と世子・王璋(忠宣王)が王璋の母・元成公主の死が原因で不仲になりました。

重臣たちは世子・王璋(忠宣王)を支持しました。その結果、忠烈王は譲位に追い込まれてしまいます。

しかし忠烈王はモンゴル帝国の協力を得てその年のうちに王に復帰しました。忠宣王は世子に格下げになりました。

となると問題になるのは誰を次の王にするかです。

忠烈王派はすんなりと世子・王璋(忠宣王)を王にさせたくはありません。元と親しい王族を次の王にしようとします。

そこで注目されたのが元で人質生活をおくっていた王琠だったのです。

王琠は成人しても人生のほとんどを元で暮らしていました。

忠烈王の後継者候補になる

1303年(忠烈王29年)9月。忠烈王は忠宣王と結婚していたモンゴルの王女ブッダシュリ(宝塔実憐)公主を王琠と再婚させようと考えました。

1306年(忠烈王32年)。王琠派の王惟紹、宋邦英、李福壽は瑞興侯・王琠ワン・ジョンとを次の王にしようと考えます。モンゴルのブルガン(卜魯罕)皇后、左丞相のアクセタイ(阿忽台)、大臣のバドゥマス(八都馬辛)に働きかけて、高麗の世子・王璋を廃して瑞興侯・王琠ワン・ジョンとを世子にしようとしました。

当時、モンゴル皇帝はテムル(成宗・鐵穆耳)カーンでした。しかしテムル・カーンは病弱だったのでブルガン皇后が権力を持っていました。

王琠派の王惟紹たちは、ブッダシュリ公主を瑞興侯・王琠ワン・ジョンと再婚させてほしいと願います。

王琠ワン・ジョンは美形だったようです。美しい服を来てブッダシュリ公主と会いました、ブッダシュリ公主も王琠ワン・ジョンを気に入ったようです。

忠宣王派に反対される

忠宣王派の崔有渰たちは「忠烈王と王琠ワン・ジョンは親子ではない」と王琠を世子にすることに反対。

王琠は西原侯の子、始陽侯の孫です。忠烈王の父祖である高宗、元宗とは直接つながっていません。王琠が王になってしまえば高宗と元宗の祭祀が行われなくなるのは問題だと言ったのです。

忠烈王もそこまで言われると王琠を後継者にするのを強行できなくなりました。

儒教社会では子孫は祖先を祭り続けなければいけません。祭祀が途絶えるのは祖先に対して大変な失礼になると考えられていたのです。

もっとも、この理屈も王琠の即位を阻止して王璋(忠宣王)を再び王にしようとする崔有渰たちの理屈だったかもしれません。

王になる野望の終わり

1307年。皇帝テムル・カーンが死去。モンゴル帝国内で後継者争いが起こります。

ブルガン派の専横に不満を持っていた反ブルガン派によってアクタイが捕らえられました。ブルガンも追放になりました。

他にもモンゴル内でも様々な争いがありました。

最終的に皇帝(ハーン)になったのはブルガンによって遠方に置かれていたカイシャンでした。

モンゴル帝国内の騒動で王琠と王惟紹たちは支持者を失いました。王琠が王になる計画は潰れ、世子・王璋の地位は守られました。

世子・王璋は王琠を許すようにモンゴル朝廷に進言しましたが。丞相のタルハン(哈剌哈孫)は拒否しました。

1309年。王琠は処刑されました。

ドラマ「王は愛する」と史実の違い

韓国ドラマ「王は愛する」でもと王琠ワン・ジョンはと彼の一家は登場します。でもドラマ向けにアレンジされています。

ドラマでは、ワン・ジョンはワン・ヨンの息子なのは史実と同じですが。ワン・リンという弟がいます。ワン・リンは世子のワン・ウォン(王璋:忠宣王)の友人でした。

ドラマでは自尊心が高い人物として描かれます。モンゴルの血をひくワン・ウォンよりも純粋な高麗人の自分の方が王にふさわしいと考え、高麗王になる野心をもっています。

ドラマでも史実同様に王座を狙っています。

一番違うのは王琠は人生の多くを元で暮らしました。高麗にはあまりいなかったのです。

髪型も服装もモンゴル人と同じです。ドラマのように高麗の服は来ていませんし、髪型も辮髪べんぱつです。王になるための活動もモンゴル国内で支持者を増やすことが中心でした。常に高麗国内で話が進むドラマ「王は愛する」とは大きく違います。

ドラマのワン・ジョンは史実と違いモンゴルの人質になってはいません。モンゴル朝廷の力を借りるのではなく、高麗国内に留まり自分の支持者達とともに王位を狙います。

テレビドラマ

王は愛する 2017、MBC 演:ユン・ジョンフン

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