慶恭皇貴妃 陸氏 は清朝の第6代皇帝・乾隆帝の側室。
一般には慶妃、慶貴妃として知られます。
「瓔珞<エイラク>」では慶妃・陸晩晩
「如懿傳」では陸沐萍 として登場します。
普通、皇貴妃は皇后の代理を務めるものが任命されます。
ところが慶妃はちょっとかわった理由で皇貴妃になりました。令妃の息子・永琰(後の嘉慶帝)の養母になったことで、嘉慶帝から皇貴妃の称号を贈られました。
史実の 慶妃 はどんな人物だったのか紹介します。
慶恭皇貴妃 の史実
いつの時代の人?
生年月日:1724年8月12日
没年月日:1774年8月21日
姓:陸(りく)氏
称号: 慶恭皇貴妃(けいきょうこうきひ)
地位: 陸常在→陸貴人→慶嬪→慶妃→慶貴妃→慶恭皇貴妃(追封)
民族:漢人
父:陸士隆
母:不明
夫:乾隆帝(けんりゅうてい)
子供:なし
清王朝の第6代皇帝・乾隆帝の時代です。
日本では江戸時代になります。
おいたち
漢人の民間出身。
1724年(雍正2年)に生まれました。
父は陸士隆(りく・しりゅう)
陸士隆は地位が何だったのか記録はありません。朝廷の官職をもたない庶民だったようです。
陸氏がいつ入宮したのかはわかりません。「八旗選秀」や「内務府選秀」などお妃を選ぶ制度で選ばれたのではないようです。
入宮する前に役所で奉公していたとも言われます。
乾隆7~12年の間に入宮したと考えられます。
1748年(乾隆13年正月)。24歳で常在(下級の側室)になりました。10代で入宮する人が多い中で、20代半ばは年齢が高い方です。
4月。貴人になりました。
1751年(乾隆16年正月)。乾隆帝は陸氏を慶嬪にすると命令。手続きが行われ6月正式に慶嬪になりました。
1760年(乾隆24年)。慶妃になりました。
1760年(乾隆25年)。乾隆帝の南巡に同行しました。皇太后、皇后、令貴妃も一緒でした。
10月。令貴妃が第15皇子・永琰(顒琰)を出産しました。後の嘉慶帝です。
やがて永琰は慶妃が育てることになりました。このころ令妃は毎年のように子供を産んでいました。たくさんの幼い子供がいて子育てが大変でした。一方の、慶妃には子供がありませんでした。そこで令貴妃と親しかった慶妃が育てることになりました。
慶妃は令貴妃より3歳年上ですが、地位は令貴妃の方が上です。
乾隆30年より前にはすでに養母になっていたようです。
乾隆30年。令妃は皇貴妃になりました。継妃亡き後、後宮で最も地位が高かったのは令皇貴妃でした。令皇貴妃は仲の良かった令妃を貴妃に昇格させました。
清朝の規則では貴妃は同時に二人しか任命できません。令皇貴妃と慶貴妃が貴妃になったので他には誰も貴妃になることはできません。
このころ乾隆帝は容妃(香妃のモデルになった人)を寵愛していました。でも容妃は二人のどちらかが亡くなるまで貴妃になることはできませんでした。
乾隆33年5月。慶妃のもとに平常在平氏が配属され彼女の教育を任されました。
10月。慶貴妃になりました。
慶貴妃の晩年の3年ほどは病気をわずらっていたようです。乾隆帝は慶貴妃のために良い医者を探して治療させ、彼女を西花園で暮らすように手配しました。
乾隆39年7月。慶貴妃は西花園で死去しました。享年51。
彼女の棺は静安荘に移され彼女が世話をしていた皇子たちが葬儀に出席しました。
乾隆40年。彼女の棺は清裕陵に埋葬されました。
嘉慶帝は「生母と同じ」と宣言
1760年。顒琰(永琰から改名)は乾隆帝から譲位され皇帝になりました。嘉慶帝です。しかし父親の乾隆太上皇帝が生きていたので何もできませんでした。
嘉慶4年(1799年)。乾隆太上皇帝が死去。嘉慶帝はようやくしたいことができるようになりました。
そこで行ったのが慶貴妃の位を上げることです。親孝行になると考えたからです。
嘉慶帝はの勅命の中で「慶貴妃は養母である。我が生母と同じである」と述べたあと「慶恭皇貴妃」の称号を贈ると宣言しました。
嘉慶帝にとっては慶貴妃は実の母と同じ存在。それだけ慕う気持ちが強かったのでしょう。
陸氏がもっと長生きしていれば、皇太后と同格の扱いを受けていたかもしれません。
テレビドラマ
瓔珞〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜 2018、中国
役名:陸晚晚 演:李若寧
主人公・魏瓔珞は後の令皇貴妃。ドラマでも瓔珞から信頼され子育てを任されます。史実と違うのは八旗選秀で選ばれて側室になったこと。
如懿傳〜紫禁城に散る宿命の王妃~ 2018、中国
役名:陸沐萍 演:于洋
崇慶皇太后の手下となってスパイの役目をします。乾隆帝によって子供を産めない体になってしまいます。こちらのドラマでは令貴妃 魏氏が主人公・烏拉那拉如懿の敵なので陸氏は敵方の役になります。
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