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李承乾 謀反の疑いで廃された唐の皇太子

唐朝 5.1 隋唐の皇帝・皇子

 

李承乾(り しょうけん)は唐の皇太子。

太宗・李世民の長男でした。

若い頃は有能だとされましたが、やがて奇行がめだつようになりました。

やがて謀反の疑いで廃位されてしまいます。

史実の李承乾はどんな人物だったのか紹介します。

 

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李承乾の史実

いつの時代の人?

生年月日:618年
没年月日:645年

名称:李承乾(り しょうけん)
字:高明
地位:中山王→皇太子→庶人
父:太宗
母:長孫皇后
子供:李象・李厥

彼は唐の第2代皇帝・太宗李世民の長男。皇太子でした。

日本では飛鳥時代になります。

おいたち

618年。唐が建国してまもないころに長安で生まれました。
父は李世民。
母は長孫皇后

承乾殿という場所で生まれたので承乾と名付けられました。

620年。恒山王になりました。

624年。中山王になりました。

626年。祖父の高祖・李淵は譲位して太上帝になりました。父・李世民が皇帝になりました。長男だった李承乾は皇太子になりました。

632年。太宗が太上帝・高祖のために宴会をひらきました。太宗が自ら高祖の駕籠を担ごうとしましたが、高祖は拒否。承乾に担がせました。

633年ごろから遊興に出かけるようになりました。于志寧、杜正倫、孔英達は遊ばないように忠告していました。

634年。元服しました。

635年。蘇氏と結婚しました。

6月。太上帝・高祖が亡くなります。太宗は45日間喪に服しました。その間、承乾が政治を行いました。

その後、太宗は政務に復帰しました。細かい要件はひきつづき承乾に任せました。このころ承乾は判断力と理解力に優れていると評判でした。

太宗が遠征などで都長安を離れるときは承乾が政治を行いました。

李泰との争い

弟の李泰は知性と文学の才能があると考えられたので父・太宗から可愛がられていました。

一方の李承乾は遊びあるくこともありました。

太宗は孔穎達・令狐徳棻・于志寧・張玄素・趙弘智・王仁表・崔知機を李承乾の教育係にしました。ところが李承乾は改めようとしませんでした。

641年。太宗は東の都・洛陽を訪れました。その間、李承乾は長安に残り、叔父の高石蓮の補佐をうけて政治を行っていました。

しかし口うるさい于志寧に腹をたてて彼を殺害しようとしました。刺客を送り込みましたが、親の喪に服している于志寧を見て刺客達は于志寧の殺害を諦めました。

642年。李泰が多くの学者を雇っているのを知った太宗は李泰の俸禄を上げました。すると李承乾よりも俸禄が高くなりました。

朱水良は兄弟の間で争いが怒ると考えて反対。太宗は李承乾の支出の制限をなくして自由にお金を使えるようにしました。李承乾の階下の張師政は李承乾に浪費を勧めましたが、その言葉に怒った李承乾は使用人に鞭でうたせて張師政を殺しそうになりました。

李承乾は音楽・女性・狩りを好み浪費家だったと言われます。身なりは綺麗に整える人だったといいます。

また李承乾の周辺ではテュルク(突厥)の文化が流行し、テュルクの服を来たり、テュルクの言葉を話したり、テュルク風のキャンプに泊まったりしました。唐の時代には異文化が流行することはよくありました。もともと李一族の祖先は遊牧騎馬民族の鮮卑だったので遊牧民文化へのあこがれもあったのかもしれません。

しかし太宗は漢民族の文化にあこがれていましたし、漢人官僚からは遊牧民文化は評判はよくありませんでした。

しかし太宗が李泰を気に入っていることが明らかになり、朝廷内の臣下たちは李承乾派と李泰派に分かれてしまいました。

李承乾は称心という寵童をかわいがっていました。おそらく同性愛だったのではないかとも言われます。

642年。皇太子の行いにふさわしくないとして太宗は称心を処刑しました。

また李承乾は、韋靈符という道教の導師を雇って、道教のまじないをさせていました。

儒教を信じている臣下たちは道教は邪道だと思っていたので太宗に訴えます。太宗は導師を皆殺しにしました。

李承乾は、称心や導師のことを太宗に知らせたのは李泰だと信じて恨みました。称心の死を悲しんで宮中に承心の祠を建て。数カ月間、皇室の集会に出席するのを拒否して供養しました。

李泰は自分の派閥の者たちを使って自分の良い評判を流させます。国民に皇太子にふさわしいのは李泰だと信じ込ませようとしました。

クーデター計画

李承乾はますます不安になって自分の派閥を集めて話し合いました。李承乾は師進・張師政・紇干承基らに命令して李泰を暗殺させますが失敗。

そこで叔父の李元昌、侯君集・宮殿の守備隊長・李安儼、従兄弟の趙節・杜荷とともに、父・太宗に対してクーデターを起こすことも考えました。

李承乾の護衛隊長の賀蘭楚石も加わりました。

ところが関係ないところで李承乾の弟・李祐が反乱を起こしました。李祐の反乱はすぐに鎮圧されましたが、李祐の共謀者に李承乾の支持者・紇干承基もいました。

紇干承基は保身のため李承乾の計画もばらしてしまいます。

太宗はショックを受けて調査を開始。李承乾の計画が明らかになりました。

643年。李承乾は皇太子の地位を奪われ庶人に落とされ、黔州に流されることになりました。

李元昌は自害を命じられ、他の共謀者は処刑されました。

 

最後の抵抗?

 

李承乾が流刑先に向かう前のことです。李承乾のもとに太宗が訪ねてきました。

李承乾は「私はすでに皇太子になっていたのになぜあんな事をしたのか。それは李泰はよく陰謀をたてていたからです。私は身を守るために部下たちと相談しなければいけませんでした。野心家たちは私に反逆させようと提案しました。もしあなたが李泰を皇太子にしたら、彼の策略にはまることになるのです」

太宗は次の皇太子を李泰にしようと考えていました。

でも李承乾の言葉を聞いて李泰が李承乾を追い詰めたと考えるようになりました。

そして李泰ではなく、李治が皇太子になりました。

645年。流刑先に亡くなりました。

罪人ではなく、国公の礼で葬られ、愍の諡が贈られました。

 

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