貞懿独孤皇后は唐の代宗の側室。
生前は独孤貴妃と呼ばれていました。死後「貞懿皇后」の称号を与えられましたので、生前に皇后になったのではありません。
ドラマ「麗王別姫」では独孤靖瑤(どっこ せいよう)の名前で登場します。
ドラマでは「美しい女傑」みたいな紹介のされ方をしていますが、実在の独孤貴妃は将軍ではありません。
代宗の寵愛を集めた美しい側室でした。
史実の貞懿独孤皇后はどんな人物だったのか紹介します。
独孤貴妃の史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:775年6月12日
姓:独孤
名称:不明
称号:貞懿皇后(追尊)
地位:貴妃
父:独孤穎
母:不明
夫:代宗
兄:獨孤良佐
子供:
李迥(韓王)
華陽公主
彼女は唐の第11代皇帝・代宗の側室。
日本では奈良時代になります。
祖先は独孤信の家来だった
貞懿独孤皇后の一族は「京兆独孤氏」
祖先はモンゴル高原にいた遊牧民族の鮮卑です。北魏では拓跋氏に仕えていました。隋の楊堅、唐の李淵も鮮卑系です。
北魏が漢人の文化を取り入れたときに「李」の姓を名乗りました。それ以前はどの姓を名乗っていたのかはわかりません。
その後、北魏は東と西に分裂。東魏に仕えていた「李屯」という人物が西魏の「独孤信」と戦って破れました。
しかし独孤信に実力を認められ独孤家に仕えます。そして「独孤」の姓を与えられました。
それ以来、一族は「独孤」の姓を名乗りました。独孤信の一族と区別するために「京兆独孤氏」と呼ぶ事もあります。
独孤信は北周の将軍。ドラマ「独孤伽羅」に登場します。独孤伽羅姉妹の父親です。ちなみに独孤信は匈奴出身。匈奴といえばかつて漢帝国を苦しめた北方の騎馬遊牧民族です。独孤信は匈奴に内紛がおきたので一族を率いて鮮卑に亡命。拓跋・宇文氏に仕えました。
ドラマの独孤靖瑤が女傑になっているのは勇猛果敢な独孤一族のイメージがあるせいかもしれません。でも独孤靖瑤は独孤信の子孫ではありません。
貞懿独孤皇后のおいたち
父の独孤穎は唐王室の左威衛録事参軍。都を守る下級の武官でした。
独孤貴妃は独孤穎の長女として生まれました。生年はわかっていません。
母親の名は不明。
755年。安禄山の反乱のあと、広平王・李俶の正妻・崔氏の母の実家が没落。
757年。長安に戻った後。崔氏が死亡しました。
758年。李俶が皇太子になりました。
独孤氏が李俶(り しゅく、後の代宗)のもとに来た時期は不明。
歴史書では李迥の享年が10歳加算されて47歳になっているので。李俶が広平王だった時代に側室になったと考える人もいます。
でも独孤氏は「入宮」したと書かれているので嫁ぐ相手は皇帝か皇太子に限られます。親王府に来た時は「入邸」と書かないといけません。
独孤氏が来たのは安史の乱の後。崔氏の死後、お妃選びが始まり。李俶が皇太子になった後に入宮した可能性が高いです。
美しかった独孤氏は独孤氏が広平王・李俶の寵愛を集めました。
761年ごろ。息子の李迥(り・けい)が生まれました。
旧唐書には李迥の享年が47歳と書かれています。没年から逆算して生年は750年と言われていましたが。761年生まれだった可能性が高いです。
761年。息子の李迥は粛宗から「皇太子第三男」の地位を与えられました。
このとき「生まれて冊封された」と書かれているので。生まれた年とほぼ同じ年に「皇太子第三男」の称号を与えられたと考えるほうが打倒。
李迥は761年ごろ生まれたと考えるほうがよさそうです。
代宗の時代
762年。李俶が即位しました。
息子の李迥には韓王の称号が与えられました。李迥は2歳。王の爵位を与えるには幼いですが、母親の独孤氏が寵愛を集めていたからだといわれます。
768年。独孤氏は貴妃になりました。側室では最高の地位です。
独孤貴妃の娘の華陽公主は代宗から非常に可愛がられました。
ところが774年に華陽公主が死亡してしまいます。代宗は非常に悲しみました。
翌年。775年。独孤貴妃も死亡しました。
代宗は独孤貴妃に「貞懿皇后」の称号を与えました。
代宗は非常に悲しみました。独孤貴妃を失った悲しみがあまりにも大きく、3年間、棺を宮殿の外に出すことができませんでした。
3年後、独孤貴妃の棺は埋葬されました。
ドラマの貞懿独孤皇后
麗王別姫 2017年、中国 演:レジーナ・ワン 役名:独孤靖瑶
ドラマ「麗王別姫」に登場する獨孤靖瑤(どっこ せいよう)は歴史上の独孤貴妃とはかなり違います。歴史上の独孤貴妃は将軍ではありません。
ドラマでは紆余曲折はあったものの、獨孤靖瑤は李俶の妃になりました。
ドラマの最後では沈珍珠は獨孤靖瑤に李俶を託して去っていきます。最後は史実と辻褄をあわせた形になってます。
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