清朝の第6代皇帝・乾隆帝(弘暦)にはたくさんの正室や側室がいます。「瓔珞(エイラク)」や「如懿伝」などのドラマにもたくさん登場しますね。
でも登場人物が多すぎていつ誰がどの地位にいたのか分かりづらいです。そこで妃嬪達がどの時期にどの地位にいたのかリストにしてみました。
これを見ると誰の出世が早いか。誰がいつ亡くなったのかわかります。
でも乾隆帝にはたくさんの側室がいます。全ては紹介できません。ドラマでよく出てくる人だけを紹介します。
雍正帝の時代
注意点
名前の後の「↑」は昇格、「↓」は降格した意味です。
「諡号」は諡(おくりな)。
「追封」は死後昇格させた称号を与えることです。
継皇后(嫻妃)の姓は「輝発那拉(瓔珞はこちら)」「烏拉那拉(如懿伝はこちら)」「那拉」の説があります。この記事では「那拉」と書きます。
弘暦の親王時代
1727年(雍正5年)
愛新覚羅 弘暦(16歳)で結婚
嫡福普(正室) 富察氏 入宮
格格(妾) 富察氏、金氏、海氏、陳氏、蘇氏、黄氏
弘暦は富察氏との成婚時には8~9人の格格がいたといわれます。格格の富察氏は嫡福普の富察氏とは別人です。
「如懿伝」はこのあたりからスタート
1333年(雍正11年)
嫡福普(正室) 富察氏
側福普(側室) 那拉氏(輝発那拉)入宮
格格(妾) 富察氏、金氏、海氏、陳氏、蘇氏、黄氏
1334年(雍正12年)
側福普 高氏 ↑
時期は不明ですがこのころまでに入宮して格格になっていたようです。
1735年(雍正13年)
格格 富察氏 死去
弘暦が皇帝になる直前の妃たち
嫡福普(正室) 富察氏
側福普(側室) 那拉氏
側福普(側室) 高氏
格格(妾) 金氏、富察氏、海氏、陳氏、蘇氏、黄氏
乾隆帝の時代
富察氏が皇后の時代
1736年(雍正13年~乾隆元年)乾隆帝即位直後。
弘暦の生母・熹妃は皇太后に。
親王時代の嫡福普は皇后に。
側福普・格格は皇帝の側室の地位に割り振られました。
崇慶皇太后 鈕祜祿氏↑
皇后 富察氏↑
高貴妃↑
那妃(那拉氏)↑
蘇嬪↑
黄嬪↑
金貴人↑
海常在↑
陳常在↑
格格 富察氏 追封「哲妃」↑
1736年(乾隆元年)
黄嬪 死去 追封「儀嬪」
1737年(乾隆2年)
純嬪 蘇氏↑
乾隆帝即位まもないころ(乾隆2年)の後宮の妃たち
1737年(乾隆2年)
雍正帝の喪が明けて妃嬪たちに正式な位が与えられました。
このときの主な妃嬪達は以下のとおりです。
皇后 富察氏
貴妃 高氏
嫻妃 那拉氏
純妃 蘇氏↑
嘉嬪 金氏↑
海貴人(珂里葉特氏)↑
陳貴人↑
他
1739年(乾隆4年)
貴人 柏氏 このころまでに入宮
1741年(乾隆6年)
嘉妃 金氏↑
愉嬪 珂里葉特氏↑
怡嬪 柏氏↑
舒嬪 叶赫勒氏 入宮
「瓔珞(エイラク)」の設定ではこの年が始まり
1742年(乾隆7年)
宮女 陸氏 入宮
1745年(乾隆10年)
貴妃 高氏 死去 享年34。追封「慧賢皇貴妃」
嫻貴妃 那拉氏↑
純貴妃 蘇氏↑
愉妃 珂里葉特氏↑
貴人 魏氏↑
このころまでに入宮して皇后 富察氏付きの宮女になっていました。
令嬪 魏氏↑
哲妃 富察氏 追封「哲憫皇貴妃」↑
1748年(乾隆13年)
皇后 富察氏 死去 享年36 諡号「孝賢純皇后」
嫻皇貴妃 那拉氏 ↑
嘉貴妃 金氏↑
陸常在↑
那常在(巴林氏)↑
林常在↑
陸貴人↑
那貴人(巴林氏)↑
林貴人↑
那拉氏が皇后 の時代
1749年(乾隆14年)
皇后 那拉氏↑
婉嬪 陳氏↑
林常在↓
那拉氏が皇后になった直後(乾隆14年)の後宮の妃たち
那拉氏がトップに立つ新体制がスタート
皇后 那拉氏
純貴妃 蘇氏
嘉貴妃 金氏
婉嬪 陳氏
令嬪 魏氏
陸貴人
那貴人
林常在
他
1751年(乾隆16年)
慶嬪 陸氏↑
穎嬪 巴林氏↑
林貴人↑
1755年(乾隆20年)
嘉貴妃 金氏 死去 享年42 追封「淑嘉皇貴妃」
1757年(乾隆22年)
怡嬪 柏氏 死去 享年37。
多貴人(博爾濟吉特氏)↑
1759年(乾隆24年)
令貴妃 魏氏↑
慶妃 陸氏↑
穎妃 巴林氏↑
豫嬪 博爾濟吉特氏↑
伊貴人(拜爾葛斯氏)↑
1760年(乾隆25年)
純貴妃 蘇氏 死去 享年46。追封「純惠皇貴妃」↑
1760年(乾隆25年)
慎嬪 拜爾葛斯氏↑
和貴人(和卓氏)↑
1761年(乾隆26年)
容嬪 和卓氏↑
1762年(乾隆27年)
豫妃 博爾濟吉特氏↑
1764年(乾隆29年)
慎嬪 拜爾葛斯氏 死去 享年不明
1765年(乾隆30年)
乾隆帝の第四次江南巡幸(視察旅行)
同行者 皇后・令貴妃・慶妃・容嬪など
南巡中に皇后が都に強制送還。皇帝が帰京後 皇后 那拉氏 事実上の廃位(廃皇后の勅命は出ていませんが、幽閉されました)
令皇貴妃 魏氏↑
容妃 和卓氏↑
慶妃 陸氏が 十五皇子 顒琰(令皇貴妃の子・後の嘉慶帝)の養母になりました。
皇后がいない時代
幽閉された那拉皇后の代わりに令皇貴妃が後宮を仕切る時代(乾隆31年)の妃たち
令皇貴妃 魏氏
慶妃 陸氏
穎妃 巴林氏
容妃 和卓氏
豫妃 博爾濟吉特氏
婉嬪 陳氏
伊貴人(拜爾葛斯氏)
林貴人
他
「瓔珞(エイラク)」はここで終わり。
1766年(乾隆31年)
皇后 那拉氏 死去 享年48
葬儀は皇貴妃並の格式で行われました。諡号なし呼称は「継后」
「如懿伝」はここで終わり。「如懿伝」は後日談で乾隆帝の晩年のシーンもあります。
1768年(乾隆33年)
慶貴妃 陸氏↑
1774年(乾隆38年)
豫妃 博爾濟吉特氏 死去 享年45
1774年(乾隆39年)
慶貴妃 陸氏 死去 享年51
1775年(乾隆40年)
令皇貴妃 魏氏 死去 享年48 追封「令懿皇貴妃」↑
1777年(乾隆42年)
崇慶皇太后 鈕祜祿氏 死去 享年85 追封「孝聖憲皇后」↑
1788年(乾隆53年)
容妃 和卓氏 死去 享年55
1792年(乾隆57年)
愉妃 珂里葉特氏 死去 享年78 追封「愉貴妃」↑
1794年(乾隆59年)
婉妃 陳氏↑
恭嬪 林氏↑
嘉慶帝の時代
1795年(乾隆60年)
乾隆帝退位 太上皇になる(院政開始)
嘉慶帝即位
母の令懿皇貴妃 魏氏を追封「孝儀純皇后」↑
1798年(嘉慶3年)
皇考穎貴妃 巴林氏↑
1799年(嘉慶4年)
太上皇 乾隆帝死去 享年89 廟号「高宗」
嘉慶帝の親政開始。
養母の陸氏を追封「慶恭皇貴妃」↑
1800年(嘉慶5年)
穎貴太妃 巴林氏↑
婉貴太妃 陳氏↑
穎貴太妃 巴林氏 死去 享年70
1805年(嘉慶10年)
恭嬪 林氏 死去 享年73?
1807年(嘉慶12年)
婉貴太妃 陳氏 死去 享年92
乾隆帝の妃嬪で最高齢
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