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仁顕王后(イニョン王妃)派閥争いの犠牲になり廃妃になっても復活した王妃

仁顕王后(イニョンワンフ、イニョン王妃)は朝鮮 粛宗の二番目の正室。寵愛する禧嬪張氏と派閥争いに翻弄された生涯を送りました。一度は廃妃になるものの復位を果たしますが、34歳の若さで病死。粛宗に愛されることなく、時代の渦に巻き込まれた悲劇の王妃の史実を紹介します。

 

この記事でわかること

  • 仁顕王后の生没年や家系といった基本情報
  • 西人派の推薦で王妃になったため、粛宗からは当初より冷遇されていた事実
  • 寵愛する張氏を王妃にしたい粛宗と南人派の思惑により廃妃に追い込まれた経緯
  • 庶民の同情を得て復位した後の党派争いと病死に至るまでの詳細
  • ドラマの描写と異なる史実での粛宗との関係性

 

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仁顕王后(イニョン王妃)の史実

彼女が生きたのは朝鮮王朝(李氏朝鮮)の19代王・粛宗の時代です。日本では江戸時代前期にあたります。

いつの時代の人?

  • 生年月日:1667年4月23日
  • 没年月日:1701年9月16日
  • 名前:閔(ミン)(名は不明)
  • 称号:仁顕王后(イニョンワンフ)
  • 父:閔維重(戸曹判書)
  • 母:宋氏
  • 夫:粛宗
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おいたちと二番目の王妃への冊封

二番目の王妃として入宮

仁顕王后は1667年、父・閔維重と二番目の妻・宋氏との間に次女として産まれます。

1680年、19代王・粛宗の正室であった仁敬王后が病のため死去。

翌1681年、仁顕王后は粛宗の二番目の正室となりました。当時14歳でした。

彼女が王妃になる直前、粛宗のお気に入りだった張玉貞(チャン・オクチョン)は、粛宗の母である明聖王后(顯烈王大妃)によって宮中から追い出されていました。

西人派からの推薦と粛宗からの冷遇

仁顕王后が王妃に選ばれた背景には粛宗の母・顯烈王大妃(明聖王后)と、当時の権力者である西人派の重臣・宋時烈らの推薦がありました。宋時烈は仁顕王后の母方の親戚にあたります。

また父の閔維重は刑曹判書、大司憲、戸曹判書などを歴任し、軍権を持ち朝廷内にも影響力を持っていました。一族が宮廷の要職を独占していたため、南人派だけでなく西人派の中からも批判を浴びていました。

このような政治的背景や彼女の入宮直前に粛宗が寵愛する張玉貞が追放されたことも影響したのか、仁顕王后は結婚当初から粛宗には相手にされなかったといいます。

もともと病弱だった彼女にとって、宮中はあまり居心地のよいものではなかったようです。

張玉貞の復帰と王宮内の対立

明聖王后の死と張玉貞の帰還

1683年、粛宗が天然痘にかかりました。仁顕王后は顯烈王大妃とともに断食をし水浴をして快癒を祈りました。

その際、顯烈王大妃は風邪を引き死亡。その顯烈王大妃の死後、大王大妃(荘烈王后)によって、張玉貞が宮中に戻ってきました

仁顕王后は張玉貞がいない間に落胆していた粛宗を見ていたため、彼女が粛宗の寵愛する女性であることを知り、側室になることを寛容に認めました

寵愛を独占する張玉貞への危機感

しかし粛宗の寵愛ぶりは仁顕王后の想像を超えていました。粛宗は仁顕王后のもとにはほとんど来ず、張玉貞ばかりを寵愛します。

これに危機感を持った仁顕王后は西人派の金昌国の娘・金氏(後の貴人金氏)を側室にしました。これは西人派の期待に応えるための行動とも考えられます。

ところが、粛宗は金氏も相手にしませんでした。ただし仁顕王后の顔を立てるためか金氏を貴人の位につけたり贈り物を送ったりしています。

西人派を代表する立場の仁顕王后と南人派を代表する張玉貞は次第に対立を深め、教育のためとして仁顕王后が張玉貞の足をムチで叩いたこともあったようです。

王子の出産と廃妃

1688年、張玉貞は王子(昀・後の20代王・景宗)を出産。粛宗の寵愛を受け続け禧嬪の位につきました。

粛宗は昀を世子にしようとしましたが、宋時烈を中心とする西人派は「仁顕王后はまだ若く、王子が生まれる可能性もある」として反対します。

強硬に反対した宋時烈は流刑となり、後に死罪。他の西人派の重臣も流刑となりました。

廃妃と復位、そして病死

禧嬪張氏の思惑と廃妃の口実

1689年、22歳。禧嬪張氏と南人派の思惑、あるいは勢力を強める西人派を処分したい粛宗の思惑が一致し、仁顕王后は廃妃に追い込まれました

廃妃の理由は当時の儒教思想で女性が言ってはいけないことを口にする「嫉妬深い女」であるというものでした。

『仁顕王后の夢に明聖王后が現れ、「張氏は恨みを持って生まれ変わった獣の化身、南人派によって入宮したから追い出さなければいけない」などと禧嬪張氏を追い出すような発言をしていた』という話が口実に使われたといいます。これが真実かどうかは不明です。

粛宗は世子を産んだ禧嬪張氏を王妃にし、その地位を安泰にしたかったこと、そして力をつけた西人派を追放したかったことが、廃妃の背景にあったと考えられます。

粛宗は仁顕王后の持ち物を全て燃やさせました。仁顕王后は実家に戻り、「自分は罪人だから」と離れの小屋で暮らし、側室の貴人金氏も身分を剥奪され追放されました。その後、禧嬪張氏が王妃となりました。

庶民の同情と復位

実家で苦しい生活を続けた仁顕王后は、西人派だけでなく庶民からも同情を集め、復位運動が始まります。

一方の粛宗も、張玉貞を王妃にしたことで南人派の勢いが強くなりすぎたことを警戒していました。粛宗と西人派の思惑が一致し、南人派は追放されます。

1694年、王妃だった張氏は禧嬪に降格させられ、仁顕王后は王妃に戻りました。貴人金氏も宮中に戻ります。


復位後の党派対立と病死

仁顕王后の復位に対し、西人派内で意見が割れ、老論派と少論派に分裂しました。老論派は復位に賛成しましたが、少論派は仁顕王后を王宮には戻すものの、王妃は張氏(世子の母)にするべきと主張し、混乱が続きました。

世子の昀は王妃の子供という建前のため、仁顕王后の養子となりました。

困窮生活を送ったためか、復位後の仁顕王后の体調は悪化。心臓に病を持っていたともいわれ、1700年には下半身が膨れる奇病にかかり、体が徐々に壊死していく苦痛に襲われます。

1701年、2年間の闘病生活の末、昌慶宮で34歳の若さで亡くなりました

次の王妃を巡る最後の駆け引き

仁顕王后は亡くなる前に、自分が死んだら貴人金氏を次の王妃にしてほしいと頼んだといわれます。

これは、仁顕王后を支持する老論派の立場を守るためと考えられます。もし禧嬪張氏が王妃になれば、少論派や南人派が力をつけるのは確実です。

当時粛宗が寵愛していた淑嬪崔氏(老論派と親しいが息子がいる)を王妃にすると、世子を誰にするかの問題が生じます。

貴人金氏は両家の出身で子供がいなかったため、王妃になっても世子の地位が危なくなることはなく、粛宗の希望(昀を世子に)と老論派の勢力維持の両方を満足させる案だったのかもしれません。

しかし現実には、粛宗が「側室は王妃にはなれない」という法律を急遽作ったことで金氏の王妃冊立は実現しませんでした。しかし、これにより禧嬪張氏を王妃にせず、南人派の復権を防ぐという目的は達成されました。

仁顕王后の死後

仁顕王后の死後、南人派や少論派は禧嬪張氏を王妃にしようと主張しますが、粛宗が作った規則により、禧嬪張氏や貴人金氏が王妃になることはありませんでした。

その後、淑嬪崔氏が禧嬪張氏が仁顕王后を呪っていたと訴え出ます。この件により、禧嬪張氏は死罪となり、毒薬を飲んで死亡しました。

 

まとめ:愛されなかった王妃の残した功績

「トンイ」など一部のドラマでは粛宗が仁顕王后に優しくする場面がありますが、記録を見る限りでは粛宗に愛されている様子はありません

少なくとも廃妃になるまでは、粛宗には快く思われていなかったように感じられます。仁顕王后とその周辺の描かれ方については「チャンオクチョン・愛に生きる」の方が史実に近いかもしれません。

史実では自分が寵愛を受けないとわかると、金氏(ドラマでは登場しないことが多い)を側室にして西人派の期待に応えようとしましたが、禧嬪張氏の壁は大きかったようです。

彼女は粛宗最愛の女性(張玉貞)を追い出した母(明聖王后)が選んだ人物であったため、粛宗の憎しみは彼女に向けられるという、不利な環境での宮廷暮らしでした。

粛宗の愛情を勝ち取ることでは禧嬪張氏に叶いませんでしたが、庶民の同情を得て「気の毒な王妃」の印象を残すことになりました。

書道の才能と文学への貢献

仁顕王后は書道が得意だったと言われています。彼女が残したハングル文字の手紙は、後世の文学やハングル文字の研究に役立っています。

14歳で王妃になったものの、粛宗に愛されることはなく、激しい派閥争いに翻弄された末、34歳の若さで亡くなりました。子供もいません。いずれにしても幸せとは言い難い人生だったと言えるでしょう。

仁顕王后が登場するテレビドラマ

  • 張禧嬪 MBC 1981年 演:イ・ヘスク
  • 仁顕王后 MBC 1988年 演:パク・スネ
  • 妖婦 張禧嬪 SBS 1995年 演:キム・ウォニ
  • チャン・ヒビン KBS 2002年 演:パク・ソニョン
  • トンイ MBC 2010年 演:パク・ハソン
  • イニョン王妃の男 tvN 2012年 演:キム・ヘイン
  • チャン・オクチョン-張禧嬪 SBS 2013年 演:ホン・スヒョン

 

 

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王妃・側室
この記事を書いた人

 

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執筆者:フミヤ(歴史ブロガー)
京都在住。2017年から韓国・中国時代劇と史実をテーマにブログを運営。これまでに1500本以上の記事を執筆。90本以上の韓国・中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを史料(『朝鮮王朝実録』『三国史記』『三国遺事』『二十四史』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。類似サイトが増えた今も、朝鮮半島を含めたアジアとドラマを紹介するブログの一つとして更新を続けています。

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