楊忠は古代中国・北魏~北周の武将。
隋の初代皇帝・文帝(楊堅)の父親です。
いくつもの戦いで功績を上げた勇猛な将軍でした。
虎と戦ったという武勇伝もあります。
史実の楊忠はどんな人物だったのか紹介します。
楊忠の史実
いつの時代の人?
生年月日:507年
没年月日:568年
姓 :楊氏、普六茹(ブルスカン)氏
名称:忠
国:北魏→西魏→北周
称号:武元皇帝
廟号:太祖
父:楊禎
母:蓋氏
妻:呂苦桃
妾:李氏
子供:
楊堅(隋の文帝)、楊整、楊瓚、楊嵩、楊爽
安成長公主、昌楽長公
日本では飛鳥時代になります。
おいたち
507年。北魏で生まれました。
成長すると体はかなり大きく身長は七尺八寸(2m前後?)。堂々とした顔立ちで髪と髭が美しかった。武芸に優れていたといいます。
父の楊禎は北魏の建遠将軍でした。
自称、漢の名家・弘農楊氏出身。
楊家は六鎮のひとつ武川鎮(現在の内モンゴル武川県)の軍人の家系。六鎮は北魏が北方の柔然(モンゴル高原にいる騎馬民族)との国境を守るために置いた6つの軍団です。六鎮は最初は鮮卑で構成されていましたが、匈奴やテュルク系騎馬民族も加わりました。
楊忠の一族は漢の名家ではなく、鮮卑か遊牧民系の血筋を受け継ぐ一族のようです。
楊忠は若い頃は各地を転々としていました。
524年。18歳のとき。泰山にいたところ。南朝 梁軍がこの地を攻略した時期と重なってしまいました。楊忠は梁軍に捕まり江南に送られました。
529年。楊忠は梁で5年間暮らした後。北魏で反乱を起こして梁に寝返った北海王・元顥の部下になりました。元顥とともに北魏の都・洛陽を占領。直閤将軍になりました。
北魏の武将になる
529年。元顥は北魏の爾朱度律(じしゅ・どりつ)に敗北。爾朱度律は楊忠を呼び出して北魏の配下にしました。
530年。北魏軍が洛陽を攻めました。このとき楊忠は爾朱兆(じしゅ・ちょう)率いる軽装騎兵隊の中にいました。楊忠は活躍が認められ昌県伯の爵位をあたえられ、授任都督を任されました。
その後、楊忠は独孤信(どっこ・しん)のもとで戦い、南陽攻略で功績をあげました。
532年。北魏で高歓(こう・かん)がクーデターを起こし元朗(後廃帝)を廃して元脩(孝武帝)を皇帝にしました。このとき楊忠は独孤信とともに洛陽にいました。
534年。北魏の孝武帝が宇文泰(うぶん・たい)と協力して関中に移動すると楊忠も付き従いました。
北魏は孝静帝を担ぐ高歓の東魏と孝武帝を担ぐ宇文泰の西魏に分裂します。西魏は兵力の大きな東魏に苦戦。
楊忠は独孤信とともに東魏軍と戦い穣城を占領しました。半年間、穣城を守りましたが圧倒的な数の東魏を防ぎきれず、楊忠は独孤信とともに梁に亡命しました。
梁の武帝は独孤信と楊忠を歓迎しました。
西魏に戻る
537年。武帝の許しを得て楊忠は独孤信とともに西魏の長安に戻りました。
宇文泰は楊忠の勇敢さを気に入って側におきました。
あるとき。楊忠は宇文泰とともに狩りにでかけました。楊忠は虎を仕留めました。このとき素手で虎の舌を引き抜いたという逸話があります。宇文泰は喜んで楊忠に「揜于」の名を与えました。鮮卑語で「虎」の意味です。
554年。普六茹(ブルスカン)の姓が与えられました。
北魏は鮮卑系民族の国でした。漢化政策によって漢風の一字姓を名乗るのが流行った時期がありました。
宇文泰は鮮卑の姓を復活させようとしました。そこで漢風の姓を名乗る配下の者たちに鮮卑の姓を復活させました。普六茹氏(ブルスカン)は鮮卑語で「楊」と同じ意味。「楊」は「やなぎ」を意味する言葉です。日本で「やなぎ」を意味する「柳」は「しだれやなぎ」の意味。枝が下にたれていない普通のやなぎは「楊」です。
その後、楊忠は東魏との戦いで活躍します。
北周時代の楊忠
557年。孝閔帝(宇文覚)が即位。西魏は北周に国名が変わりました。
楊忠は小宗伯になりました。
柱国大将軍になりました。
559年。隋国公になりました。
このころ。息子・楊堅と独孤信の娘・伽羅が結婚。
562年。大司空になりました。
このとき、北周の朝廷では突厥と同盟して北斉を叩くか議論されていました。多くの大臣たちは消極的でしたが積極的だったのが楊忠です。最終的には楊忠の意見がとおって北斉と戦うことになります。
563年。楊忠は元帥になりました。李穆、王傑、田弘、慕容延など、10人以上の将軍を指揮して北斉と戦いました。突厥からも援軍が来ました。20以上の街を占領しました。
568年。楊忠は病気になり北周の首都・長安に戻りました。その年の7月。病気で死亡。享年62。
581年。息子の楊堅が隋を建国。楊忠に「武元皇帝」の称号が贈られ。「太祖」と廟号がつけられました。
ドラマ
独孤伽羅 2018年、中国 演:盧慶輝
独孤皇后 2019年、中国 演:張磊
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