韓国ドラマ「私の国」は高麗末期の1388年から李氏朝鮮建国の時代を舞台にした時代劇です。
ドラマの主人公はソ・フィ。
ソ・フィの友人でライバルになるのがナム・ソノ。
ドラマには李成桂(イ・ソンゲ)や李芳遠(イ・バンウォン)などの実在の人物が出てきます。李氏朝鮮建国の時代を描いたドラマなので史実に基づいた部分もあります。
それならナム・ソノも歴史上の人物か、モデルになった人がいるんじゃないかと思いますよね。
そこで歴史上 ナム・ソノという人はいたのか?モデルになった人はいたのか調べてみました。
ドラマ「私の国」の ナム・ソノとは
とその前に。ドラマに登場するナム・ソノとはどういう人物なのか簡単に紹介します。
名前は ナム・ソノ(南宣浩)
演じるのは ウ・ドファン
ナム・ソノの父は、司僕寺正のナム・ジョン(南傳)。司僕寺とは宮中で使う馬とか動物を扱う部署です。ドラマ「馬医」では司僕寺が舞台になってましたね。
ソノはジョンの次男です。
ソノの母は奴婢のため、ナム家の跡取りと認められていません。ところが跡継ぎだった異母兄が溺死したのでナム家の息子として認められました。そのため生まれが卑しいという引け目を感じています。そこで士官して出世してやろうという野心があります。
ナム・ソノ自身は優れた人物です。頭もよく、武術も得意です。
主人公のソ・フィとは親友です。ナム・ソノとソ・フィは町で役人に追われているカン・ヒジェを助けます。そこから三角関係が発展。ナム・ソノはカン・ヒジェを好きになりますが、もちろんフラれる。というお決まりのパターン。
一方、ナム・ソノはソ・フィとともに武科の試験を受けました。試合でナム・ウンとソ・フィは対決することに。勝ったのはフィでした。
ところが父が役人を買収していたのでソノが首席合格しました。
ナム・ソノは軍の仕官として採用されます。ソ・フィは一般兵になりました。このあたりから2人の関係はややこしくなります。
一方、高麗で将軍をしていたイ・ソンゲは反乱をおこして朝鮮を建国しました。父ナム・ジョンもソンゲに協力しました。そのおかげでナム・ソノもイ・ソンゲに仕える軍の高官になります。
イ・ソンゲは息子のイ・バンウォンが野心を持つ危険な人物だと思っていました。そこでナム・ソノにバンウォンを殺害するよう命令がでます。
そこでナム・ソノはバンウォンを暗殺するため活動することに。
というのがドラマ序盤のナム・ソノ関係の大まかな流れ。
ナム・ソノにモデルはいたの?
ここからが本題です。
公式HPでも”「私の国」は王族や重臣ではなく、この激動の時代を生きる3人の若者たちにスポットを当てた、まったく新しい視点の時代劇。”と書かれています。
ということは、歴史上の有名人でないのは確実。
でも王族や重臣でなくても実在した人かもしれないし、そのものズバリな人はいなくてもモデルになった人くらいはいたかもしれない。
と思うかもしれません。
結論から言うと「ナム・ソノ」はドラマオリジナル。モデルになった人もいない架空の人物です。
ところが。
ナム・ソノの父ナム・ジョンにはモデルになった人がいます。
ナム・ソノの父ナム・ジョンのモデル南誾(ナム・ウン)
歴史上の人物でナム・ジョン(南傳)という名前の人はいませんが。かなり近い。というかモデルにしたのが確実な人はいます。
それは李成桂(イ・ソンゲ)を王にするために働いていた南誾(ナム・ウン)という人です。
ナム・ウンは「六龍が飛ぶ」には登場するので知っている人もいるかも知れません。
歴史上の南誾(ナム・ウン)は、鄭道傳(チョン・ドジョン)の仲間。腐敗した貴族たちが支配する高麗に絶望して新しい国を作ろうとしました。
鄭道傳(チョン・ドジョン)たちと一緒に李成桂(イ・ソンゲ)を担いで王にしようと活動。彼らの活躍で高麗王朝が打倒されて李氏朝鮮が誕生しました。
ところが朝鮮王になった李成桂(イ・ソンゲ)の後継者を巡って悲劇が発生。鄭道傳(チョン・ドジョン)と南誾(ナム・ウン)は李成桂(イ・ソンゲ)の八男を世子にしました。
それに激怒したのが五男の李芳遠(イ・バンウォン)。
結局、李芳遠(イ・バンウォン)は鄭道傳(チョン・ドジョン)を殺害。南誾(ナム・ウン)も捕まって処刑されてしまいます。
ドラマ「私の国」のナム・ジョンも歴史上の南誾(ナム・ウン)と似た運命をたどります。
ナム・ジョン(南傳)という名前も南誾(ナム・ウン)と鄭道傳(チョン・ドジョン)を足して2で割ったもの。
日本語版ではドラマのキャラクターの名前は漢字で書いてませんし。韓国語版でも漢字では書かないでしょうし、韓国の視聴者も漢字は読めないでしょう。一般の視聴者には分かりづらいかもしれません。
でも設定ではそのようになってます。
「私の国」には鄭道傳(チョン・ドジョン)が出てきませんから。ナム・ジョン一人に南誾と鄭道傳の役割を背負わせてる感じですね。
鄭道傳って朝鮮建国にすごく大きな役割を果たした人物なんですけど。太宗・李芳遠(イ・バンウォン)に敵対したので罪人扱いになってますし。朝鮮史上でも過小評価されている人物です。「私の国」にも出てきません。
もしかするとソ・フィやナム・ソノからは見えないところで動いているのかもしれません。
それはさておき。
ここで問題になるのが史実では南誾(ナム・ウン)に息子がいたのか?
ですよね。
南誾(ナム・ウン)の息子たちは平凡
歴史上の南誾(ナム・ウン)にも息子がいました。
南景壽(ナム・ギョンス)、南景祐(ナム・ギョンウ)、南景福(ナム・ギョンポク)、南景祉(ナム・ギョンチ)。4人の息子がいます。
残念ながら彼らの詳しい経歴はよくわかっていません。南景祐(ナム・ギョンウ)だけは資料がみつかったので紹介します。
南誾(ナム・ウン)の次男・南景祐(ナム・ギョンウ)は生年には諸説あって、1383年、1387、1393年生まれの説があります。
ドラマ「私の国」が始まりは1388年の設定ですから。ドラマが始まったときは南景祐(ナム・ギョンウ)はまだ1歳。朝鮮建国が1392年なのでまだ5歳。
南誾(ナム・ウン)は1354年生まれですから。1388年には35歳になってるはず。南誾って意外と子供ができるのが遅かったのです。
南誾(ナム・ウン)は李芳遠(イ・バンウォン)に殺されてしまいますが。南誾の兄弟や子供は処刑されませんでした。それどころかそのまま朝鮮に仕えています。息子たちも朝鮮に仕えました。
南誾の次男・南景祐(ナム・ギョンウ)も役人になりました。武官になって様々な役職を経験しました。ところが南景祐は有能な人ではなく、むしろ何の取り柄もない人。父や祖父のおかげで出世できたと陰口をたたかれていたそうです。
ドラマのナム・ソノとはかなり違いますね。記録が残っている南景祐(ナム・ギョンウ)ですらその有様です。おそらく他の兄弟たちもたいした人物ではなかったのでしょう。
残念ながら。
ナム・ソノの父ナム・ジョンにはモデルになった南誾(ナム・ウン)がいました。
南誾(ナム・ウン)には息子がいました。
でも南誾(ナム・ウン)の息子たちとドラマのナム・ソノはまったく似てません。
ナム・ソノはモデルのいないドラマオリジナルの人物なのです。
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