アパ・カガン(阿波可汗)はテュルク(突厥)の王族アシナ氏の一員。
北周・阿史那(アシナ)皇后の兄弟です。
アパ・カガンの父は北アジアで大きな力を持っていたテュルク(突厥)のムカン・カガン(木汗可汗)でした。
ところがムカン・カガンの死後。母の身分が低いこと、性格が族長たちから嫌われて大カガンにはなれませんでした。
その後、アパ・カガン(阿波可汗)は他のカガン達と対立。テュルクが東と西に分裂する原因を作ります。
史実のアパ・カガン(阿波可汗)はどんな人物だったのか紹介します。
アパ・カガン(阿波可汗)の史実
アシナ氏のタムガ(印章)
タムガはもともとは遊牧民が家畜の持ち主をはっきりさせておくため使った焼印。後に一族を象徴する印章になりました。タムガはアジアのハンコ文化の始まりともいえます。
生年月日:不明
没年月日:587年?
姓 :アシナ(阿史那)氏
名称:トレメン(大邏便:だいらべん)
国:テュルク(突厥可汗国:とっけつかがんこく)
地位:カガン(可汗)
称号:アパ・カガン(阿波可汗)
父:ムカン・カガン(木汗可汗)
母:不明
姉妹:北周・阿史那皇后
西テュルク帝国(突厥)のカガン(可汗=君主)
日本では古墳時代~飛鳥時代になります。
父はテュルクの大カガン(君主)
ムカン・カガン(木汗可汗)の子として生まれました。
母は低い身分の出身でした。
生年は不明。
父はテュルク(突厥)の大カガン(大可汗=遊牧民の君主)ムカン・カガン(木汗可汗)
姉妹に北周のアシナ(阿史那)皇后がいます。
572年。父のムカン・カガン(木汗可汗)が死去。
後継者問題で一族と争う
ところがテュルクの族長たちは息子のトレメン(大邏便)ではなく、ムカン・カガンの弟を次の大カガンにしました。タトパル・カガン(他鉢可汗)の誕生です。
遊牧民の世界では王に後継者の指名権はありません。クリルタイ(族長会議)で決まります。王の息子でも族長たちから支持されないと次の王になれないのです。テュルクに限らず、部族社会はこういう制度になってるところが多いです。古墳時代までの日本もこのような感じだったでしょう。
581年。タトパル・カガン(他鉢可汗)は病気になりました。死の間際、タトパル・カガンは息子のウムナ(菴羅)に「トレメン(大邏便)は避けよ」と言い残しました。
タトパル・カガン(他鉢可汗)の死後。次の大カガン(大可汗)を、トレメン(大邏便)にするか、ウムナ(菴羅)にするか意見が別れました。
トレメン(大邏便)の母は身分が低いです。ウムナ(菴羅)の母は身分が高いです。テュルクでは母の身分が大切にされます。でもなかなか決まりませんでした。
そのときテュルクの東部地域を統治するニワル・カガン(爾伏可汗)の摂図(せつと)が「アムラク(菴羅)にしよう」と言いました。摂図(せつと)は族長たちの間でも年長者でした。
テュルクは大きいので中央部を統治する大カガンと周辺部を統治する小カガンが領土を分けてして統治していました。大カガンはモンゴル高原の中央部ウテュケンにいます。大カガンはクリルタイ(族長会議)で決まりますが、小カガンの任命権は大カガンにあります。
族長会議では年長者の意見が尊重されます。他の族長たちは年長者の摂図(せつと)の意見に反対しませんでした。
ウムナ(菴羅)は次のカガン(可汗)になりました。ウムナ・カガン(菴羅可汗)と呼ばれます。
でもトレメン(大邏便)は納得できません。ウムナ・カガン(菴羅可汗)のもとに何度も使者を送りカガンを罵倒させました。
トレメン(大邏便)の嫌がらせに耐えられなくなったウムナ・カガンは摂図(せつと)に大カガンの地位を譲り。自らは第二カガンになりました。部族長たちも「摂図は賢い」というので認めました。摂図は即位してルキュルシャドバガイシュバラ・カガン(伊利倶盧設莫何始波羅可汗)と名乗りました。長いのでイシュバラ・カガン(沙鉢略可汗)と呼びます。
イシュバラ・カガンはトレメン(大邏便)にアパ・カガン(阿波可汗)の称号を与え、タリム盆地周辺の統治を任せました。アパ・カガンはタリム盆地のオアシス都市の部族から支持を集めます。
581年。テュルクの隣の国・北周が下剋上で滅亡、隋が建国しました。文帝・楊堅のもと一つにまとまった隋はテュルクにとって手強い相手でした。
582年。イシュバラ・カガンはアパ・カガン、タルドゥたちを率いて隋を襲撃。万里の長城を超えて隋軍を破りましたが敗退。
反撃に出た隋軍を迎え撃つため、イシュバラ・カガンはアパ・カガンたちとともに迎え撃ちましたが敗退。さらに飢饉と疫病に悩まされて撤退しました。
イシュバラ・カガンはアパ・カガンが隋に内通したのではないかと疑いました。(彼の姉妹が北周アシナ皇后だった)
隋の使者はアパ・カガンと接触、イシュバラ・カガンを殺害するように説得していました。アパ・カガンは隋と同盟します。
テュルク内戦
583年。アパ・カガンと隋の同盟を危険に思ったイシュバラ・カガンはアパ・カガンが甘粛に行っている間にアパ・カガンの部落を襲撃。アパ・カガンの一族を倒して母を殺害しました。
アパ・カガンが部落に戻ってくると一族は壊滅状態。帰る場所を失ったアパ・カガンはタルドゥ(達頭)に助けを求めました。
タルドゥ(達頭)はテュルク帝国の西部を治めるヤブク(葉護=可汗の代わりに西部を治める重臣)でした。タルドゥはアパ・カガンの話を聞くと怒ってアパ・カガンを助けました。タルドゥの兄・タムガンも兵を出しました。他の部族も合流。10万の兵が集まりました。
テュルク(突厥)は東と西に分裂しました。
各国の勢力範囲はこんな感じ。
といっても現在みたいにはっきりと国境があるわけではないのでおおまかな範囲と考えてください。
同盟軍に敗退
東テュルクのイシュバラ・カガンは西 テュルクに対抗するため隋と同盟。隋の援軍とともにアパ・カガンを攻撃。アパ・カガンは敗北します。
アパ・カガンは西に脱出。ブハラの西40kmにあるポイケント城を占領(現在のウズベキスタン)。そこを要塞化しました。アパ・カガンの兵はブハラを略奪。ブハラの民たちはタルドゥに助けを求めてきました。
アパ・カガンとタルドゥは敵対します。
587年。東テュルク(東突厥)でイシュバラ・カガンが死去。ヤブク・カガン(葉護可汗)が即位しました。
ヤブク・カガン、タルドゥ、隋は同盟してブハラ近郊に集結。アパ・カガンを攻撃してきました。アパ・カガンは破れて捕らえられます。
ヤブク・カガンは隋文帝にアパ・カガンを殺すように要求しましたが、隋文帝はアパを殺さなかったといいます。
ペルシャに伝わる記録ではアパ・カガンは戦いで死亡したともいいます。
どちらにしても587年で歴史の記録から消えます。
かつてテュルクは西魏(北周)、東魏(北斉)を援助して戦わせていました。ところがテュルクが東西に分裂。北周が北斉を滅ぼし華北を統一。さらに隋建国後は隋が東テュルクと西テュルクを援助して互いを戦わせるようになりました。立場が逆転してしまったのです。
内部の争いにつけこまれたテュルクは遊牧民同士が戦って衰退。唐の時代には滅亡してしまいます。内部争いで崩壊するのは遊牧民王朝のお決まりのパターンです。
テュルクが分裂するきっかけを作ったのがアパ・カガン(阿波可汗)といえるかもしれません。
ドラマ
独孤皇后 2019年、中国 役名:北国王子・阿史那玷厥 演:彭博
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