中国ドラマ「長歌行」に登場する阿詩勒隼(アシラ・シュン)にはモデルになった人物がいます。
それが突厥(とつけつ)の 阿史那忠(あしな・ちゅう)です。
東突厥で生まれ。唐に降伏。太宗 李世民に仕えました。李世民の養女・定襄県主と結婚しています。
突厥人ながら唐に忠実に生きました。
史実の阿史那忠はどんな人物だったのか紹介します。
阿史那忠(あしな・ちゅう)の史実
いつの時代の人?
生年月日:611年
没年月日:675年5月24日
姓:阿史那(あしな)
名:忠(ちゅう)
漢名:史忠
字:義節
称号:
国:東突厥→唐
父:阿史那蘇尼失
母:
妻:定襄県主
子供:史暕
彼が生きたのは唐の時代です。
日本では飛鳥時代の人になります。
東突厥の王族として生まれる
611年。阿史那忠は東突厥(とつけつ)で誕生しました。
父は 阿史那蘇尼失(あしな・そにしつ)。突厥の王族・阿史那(あしな)氏の一族でした。
東突厥の君主・始畢可汗(しひつかがん)は蘇尼失を高く評価。蘇尼失に5万戸の民を治める統領に任命しました。蘇尼失は霊州の北西で暮らしました。蘇尼失は勇敢で民から信頼されていました。
始畢可汗の死後。弟の処羅可汗(しょらかがん)が即位。処羅可汗の死後、頡利可汗(けつりかがん)が即位しました。
頡利可汗は始畢可汗の息子・什鉢苾を小可汗(称号は突利可汗(とつりかがん))に任命。
やがて始畢可汗と突利可汗は対立。唐と戦いましたが。やがて突利可汗は始畢可汗に反感をもつようになります。
貞観3年(629年)。東突厥は大雪に見舞われ多くの家畜が死に、生活に困った人々は頡利可汗を見限って独立したり唐に投降したりしました。
貞観4年(630年)2月。頡利可汗は唐と和睦しようとしましたが、唐は東突厥を攻撃。頡利可汗は馬に乗って逃走。蘇尼失の部落に逃げてて吐谷渾に亡命しようとしました。
そこに唐の行軍総管の李道宗がやってきて、頡利可汗を引き渡すように要求。蘇尼失は頡利可汗の引き渡しを認めます。ところが頡利可汗が逃亡したので蘇尼失は息子の忠に命令して頡利可汗を捕らえさせました。行軍副総管 張宝が蘇尼失の営帳を包囲。蘇尼失は降伏、頡利可汗を張宝に引き渡しました。
こうして蘇尼失と忠は唐に降伏。李世民の配下になります。
唐の李世民に仕える
蘇尼失は太宗 李世民から懐徳郡王の爵位と北寧州都督、右衛大将軍の地位を与えられました。
忠には左屯衛将軍の地位を与え、李世民の養女の定襄県主と結婚させました。「忠」の名前はこのとき李世民から与えられたものです。
貞観8年(634年)。頡利可汗が死去。その後、蘇尼失も死去(一節には殉死)。忠は父の地位を引き継ぎ薛国公の爵位を与えられました。
貞観11年(637年)。長州都督になりました。
突厥の地に戻る
貞観13年(639年)。太宗 李世民は阿史那思摩を突厥の可汗(乙弥泥孰俟利苾可汗)に任命。阿史那忠を左賢王にしました。阿史那思摩と阿史那忠たちはモンゴル高原に戻されかつての突厥の土地を治めました。
阿史那忠たちは唐の尖兵となって突厥、高句麗、薛延陀と戦いました。
しかしモンゴル高原の遊牧民は阿史那思摩たちには従わずに離反。阿史那思摩と阿史那忠は唐に戻してくれるように請願しました。
再び唐に戻る
貞観18年(644年)。阿史那思摩と阿史那忠は唐に戻りました。
永徽年間。阿史那忠は左武衛大将軍、検校羽林軍になりました。
その後、長岑道行軍大総管に任命され、鉄勒や契丹を攻撃しました。
総章元年(668年)。青海道行軍大総管になり弓月や吐蕃の攻撃から国を守り、朝鮮半島への遠征にも従軍しました。
のちに西域道安撫大使・西域道行軍大総管になり、西突厥から国を守りました。
高宗の時代。
上元2年(675年)。病気になり洛陽の尚善里の私邸で死去しました。
鎮軍大将軍の位を追贈された。諡を貞といった。昭陵に陪葬された。
唐の金日磾
唐の人々は阿史那忠を金日磾(きん・じつてい)のようだと称えました。
金日磾はもと匈奴の王子。匈奴で内乱が起こり前漢に亡命。漢の武帝から金姓を与えられ、金日磾と名乗りました。前漢では外国人ということもあり控えめで皇帝にも忠実に仕えました。
ちなみに新羅王室の金氏は金日磾の子孫と言われます(ただし三国史記では祖先が匈奴というのは隠しています)。
阿史那忠が金日磾に例えられたということは、阿史那忠がそれだけ唐の皇帝 太宗に忠実に使えたということです。
テレビドラマ
長歌行 2021年、中国 演:呉磊(ウー・レイ) 役名:阿詩勒隼(アシラ・シュン)
コメント