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馬皇后(孝慈高皇后)明 洪武帝を支えた庶民出身の皇后 

明 2.2 明の皇后・側室・公主

孝慈高皇后 馬氏は明の初代皇帝 洪武帝 朱元璋の正妻。

馬皇后ともいいます。

馬皇后は朱元璋が紅巾軍にいた時代に結婚した女性。彼女の両親の素性はよくわかっていません。

元末期の戦乱の世の中で朱元璋は軍を率いて、中華を統一。馬皇后は戦いに明け暮れる朱元璋を支えました。

明の建国後は皇后になりました。思いやりがあり贅沢を嫌う人でした。

史実の馬皇后(孝慈高皇后)はどんな人物だったのか紹介します。

 

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孝慈高皇后の史実

いつの時代の人?

生年月日:1332年7月18日
没年月日:1382年9月23日

姓 :馬(ば)氏
名称:不明

国:元→明
地位:皇后
称号:孝慈高皇后

父:馬公
養父:郭子興
母:鄭氏
夫:洪武帝

子供:
長男 懿文太子 朱標
次男 秦愍王 朱樉
三男 晋恭王 朱棡
四男 永楽帝 朱棣
長女 寧国公主
五男 周定王 朱橚
次女 安慶公主

日本では室町時代になります。

 

素性のよくわからない両親

元朝の時代。
馬皇后は 至順3年6月25日(1332年7月18日)に生まれました。

馬皇后は宿州の出身。両親の名前は不明です。史書には「馬公」「鄭媼」と書かれていますがどのような人だったのかわかりません。

馬公は人を殺して定遠に逃亡しました。彼は郭子興(かく・しこう)と親しかったので娘の馬氏を郭子興に託したといいます。

紅巾軍の司令官の養女

馬氏は郭子興の養女として育てられました。

郭子興は定遠の裕福な土豪で白蓮教の信徒でした。白蓮教団が中心になった紅巾の乱が起こると、郭子興は地元の白蓮教信徒や荒くれ者を率いて武装蜂起。濠州を攻略して自ら「元帥」と名乗りました。

朱元璋と結婚

一方、貧しい農民の出身で寺に預けられていた朱元璋(しゅ・げんしょう)は寺を出て郭子興の軍団の一員になっていました。朱元璋は手柄を立てて郭子興に気に入られ、軍団内で出世しました。

郭子興は朱元璋が彼の役に立つと考え養女の馬氏を朱元璋に嫁がせました。

馬氏と朱元璋の夫婦仲は良く、朱元璋は遠征にも馬氏を連れて行ったといいます。部隊で使う書類をきちんと整理したり様々な雑務を担当。彼女は朱元璋には民衆に危害を加えないように助言し、無闇に殺戮しないよう勧めました。

馬氏と朱元璋は結婚後、朱元璋の甥である朱文正や姪の李文忠、そして定遠の孤児である沐英を養子に迎えました。馬氏はこの3人の義子(養子)を自分の子供のように可愛がり世話をしました。後に、馬氏と朱元璋は20人以上の義子を受け入れました。

謹慎中の夫を助ける

朱元璋が軍団内で出世すると、彼を快く思わない者が郭子興に悪口を吹き込みます。郭子興は猜疑心が強く人に乗せられやすいので、何度も朱元璋を疑ったり叱ったりしていました。ある時、郭子興が怒って朱元璋を部屋に閉じ込め食事を与えませんでした。すると馬氏は厨房に行って炊き立てのパンを盗み胸に隠して密かに朱元璋に与えます。このとき馬氏は胸に火傷を負ったといいます。

また馬氏は自分の財産を養母の張夫人や郭子興の妾の張氏に贈り、彼女たちに義父にとりなしてほしいと頼み朱元璋を助けようとしました。

元至正15年(1355年)。朱元璋は大軍を率いて江を渡りました。このときは馬氏と兵士の家族は和州(現在の安徽和県)に留まりました。当時、長江は元軍によって断絶され、和州は孤立しました。馬氏は兵士を励まし家族を慰め後方を安定させました。また兵士のために服や靴を手縫いしました。

元至正20年(1360年)。天完国の皇帝を自称する陳友諒の軍が、朱元璋のいる江寧(江蘇省南京市郊外)を攻撃しました。朱元璋は兵を率いて抵抗します。強敵が城下に迫り城内の役人や住民の一部は混乱しました。このとき馬氏は冷静に対処し、自らの財宝を配って兵士たちをなだめて軍の士気を維持。朱元璋の勝利に貢献しました。

 

明の建国後

1368年(洪武元年)の正月。朱元璋は南京の応天府を占領。皇帝に即位。国号を「大明」、年号を「洪武」にし、馬氏を皇后にしました。それと同時に長男・朱標を皇太子にしました。

馬皇后には5人の息子と2人の娘は厳しくしつけました。

その一方で朱元璋の義子の沐英や李文忠などは可愛がり、自らの子供のように世話をしました。

洪武2年には、実父の馬公を徐王に実の鄭氏を徐王夫人に追封。朱家太廟の東側に祠を建てて祭祀を行いました。

馬皇后は庶民出身で苦労したということもあり皇后になっても質素にしていました。同じ衣服を洗って何度も着て。彼女は後宮に機織りを設置、自ら布を織り、出来上がった物を年老いた孤独な人々に贈りました。残りの布は馬皇后が衣服に仕立てて王妃や公主に贈りました。また馬皇后は皇子の妻や公主に「あなたたちは豊かな家庭で育ち紡織の苦労を知らない。財産を大切にしなさい」と言っていました。

猜疑心の強い洪武帝は即位後に激しい粛清を行いました。馬皇后は洪武帝が後宮に戻ると、事情によっては諌めることもありました。洪武帝は激しくて厳しい性格ですが、馬皇后の助言によって刑罰が軽くなった人も多くいました。

人材育成にも気を配りました。明の制度では国が決めた学校を卒業しないと科挙が受けられません。科挙に受かるまでには大変な年月がかかります。学生が妻子を養えるように手当を支給するよう洪武帝に助言しています。

また、災害にそなえて食べ物を備蓄するように助言しています。

 

馬皇后の最期

1382年(洪武15年)8月。馬皇后は病にかかりました。祈祷や治療が行われましたがよくなりません。洪武帝が言い残すことはないか聞くと馬皇后は「陛下が賢明な人材を求め、他の人の意見を聞き、真剣に対応し、子孫が賢明であり、大臣や民衆が頼りにできるように願います」と言いました。そして洪武15年(1382年9月17日)。馬皇后が死去。享年51歳。

朱元璋は非常に悲しみ、以後、皇后を立てることはありませんでした。

 

実の子ではない?

「明史」には馬皇后は五男二女の子がいたとされます。
長男・懿文太子 朱標、次男 秦愍王 朱樉、三男 晋恭王 朱棡、四男 永楽帝 朱棣、五男 周定王 朱橚、寧国公主、安慶公主です。

ところが「南京太常寺志」という記録には

淑妃李氏の子:懿文太子、秦愍王、晋恭王。
碽妃の子:永楽帝、
孫貴妃の子:周定王 朱橚

と書かれています。「太常寺」とは皇室の儀礼を担当する部署。そこの記録にあるのだから事実だろうというわけです。他にも諸説あります。

馬皇后と洪武帝 朱元璋は仲は良かったのですが、馬皇后にはついに子はできませんでした。そこで側室の産んだ子を馬皇后が育てたというのが現在の定説になってます。

しかし5人の息子と2人の娘が生まれたのは明の建国前。朱元璋が反乱軍を率いる武装集団のリーダーだったころ。馬氏は朱元璋が遠征先で妾に産ませた子を馬皇后が育てていた、養育に責任をもっていたのでしょう。

馬氏は朱元璋が義子(養子)にした子を育てていましたから、その中に朱元璋の妾が産んだ子がいたのかも知れません。

永楽帝も自分は嫡子だと何度も言っています。事実はどうあれ明朝としては「5人の皇子は馬皇后の子」が公式見解になっていたのは間違いありません。

 

テレビドラマ

真命天子 2016年、中国 演:鄔靖靖
乞丐皇帝與大腳皇后傳奇 2016年、中国 演:寧静
永楽帝 2018年、中国 演:王姫

 

 

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