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武則天(武媚娘)が 太宗の後宮に入って高宗の皇后になるまでの道のり

唐朝 5.2 隋唐の皇后・側室

武則天は中国史上唯一の女帝。

武媚娘(ぶ・びじょう)、武媚(ぶ・び)ともよばれます。

唐の第2代皇帝・太宗 李世民の後宮に入りましたが、太宗の後宮では寵愛を受けていません。

ところが皇太子の李治と親密になり。太宗の死後は一時的に寺に入ったようですが。高宗 李治の後宮に入りました。

そして側室から皇后、皇帝になりました。

後宮で上り詰める途中ではドラマさながらの策略も使い、競争相手を蹴落としていったようです。

武則天とはどんな人だったのでしょうか。

誕生から皇后になるまでを紹介します。

 

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武則天とは

名 前:武曌(照)(ぶ・しょう)
 「曌」は「照」を意味する則天文字。
通称:武媚娘(ぶびじょう)
宮中での名前:武媚(ぶ・び)
王 朝:唐→武周→唐
地位と名前:
武周皇帝・則天大聖皇帝(そくてんたいせいこうてい)
唐皇后・則天順聖皇后(そくてんじゅうせいこうごう)
生 年:624年2月17日
没 年:705年12月16日
父:武士彠(ぶ しやく)
母:楊夫人
夫:太宗 李世民、高宗 李治
子:孝敬皇帝 李弘、章懷太子 李賢、安定公主ほか

武則天の呼び方

武則天は「則天武后」とも呼ばだといわれまれます。これは彼女が遺言で「皇后」として葬ってほしいと言ったからです。そのため日本では則天武后の名が知られています。

中国では長い間、単に「則天」と呼ばれました。現代では姓の「武」をつけて「武則天」と呼ぶことが多いです。

武則天の名前

本名は文学作品ではよく 媚娘(びじょう)という名前がついています。実際には若い頃の名前はわかっていません。

宮中に入った後。太宗から(び)という名前を与えられました。

皇帝になったあとは、(しょう)と名乗っていました。曌は武則天が作らせた則天文字で「」と同じ意味です。

 

 おいたち

624年。唐の利州の都督・武士彠(ぶ しやく)の次女として産まれました。

 

父は隋の商人から唐の貴族へ

父の武士彠は材木商でした。商売で大成功して資産家になりました。

隋の時代。李淵(唐高祖)とも親交があり、李淵が河東に来たときには家に泊まりに来ることもありました。煬帝の治世の末期。李淵が挙兵すると武士彠は資金や衣類の提供をしました。

唐の建国後。武士彠は建国に功績のあった人物として「元従功臣」に選ばれ。「応国公」の爵位や工部尚書、荊州都督などの役職も与えられました。商人から貴族になったのです。

この時代の都督は州知事のようなものです。荊州は漢の時代より学問の盛んなところで。学者が多くいました。

武媚娘は家が裕福だったので高い教育を受けることができました。

母は隋の皇族の子孫

母の楊夫人は隋の皇族出身。母方の祖父は遂寧公・楊達で、観徳王・楊雄の弟です。つまり楊夫人は太宗 李世民の側室・燕徳妃 楊氏、楊婕妤、巣王妃 楊氏とは親戚になります。

確かに父方は代々続く名家とはいえませんが。一般的に言われているほど身分の低い家柄ではないのです。

貞観9年(635年)。12歳のとき。父が死亡。

異母兄の武元慶、武元爽にいじめられました。異母兄は楊夫人にも失礼な態度をとっていました。隋の皇族の子孫といっても唐の時代になると権威はなくなっていたのです。権威や権力のある人でも落ちぶれたら周囲の態度は手のひらを返したように冷たくなるのが中国です。楊夫人は周囲の白い目を気にしながら生きていたかもしれません。

おそらく李淵は唐を建国後。虜にした隋の皇族の娘(楊夫人)を親交のあった武惟良の後妻にさせたのかもしれません。

楊夫人は娘の武媚娘を連れて荊州から長安に移り住みました。

貞観11年(637年)。14歳のとき。太宗・李世民が武媚娘が美しいという噂をききつけて後宮に呼ばれました。太宗の後宮にいる楊一族の妃が推薦したのかもしれません。

武媚娘は宮殿に行く前、母に「素晴らしい天子様に仕えることは幸せなことではないのですか?なぜ子供のようにまだ泣いているのですか?」と言いました。泣くといっても記録には「哭哭啼啼」と書いているので声を出して長い時間泣いていたようです。

楊夫人としては一族の王朝を倒した者に娘をおくり出すのですから複雑な心境だったでしょう。

武則天は商人出身で唐に協力して出世した父と。隋の皇族出身で、唐になって落ちぶれた一族の母を両親に持ちます。唐に対して複雑な感情をもっていたかもしれません。

太宗の後宮に入る

武媚娘は後宮に入り才人(正五位・側室で最下位の地位)になり「武媚」の名前を与えられました。

後宮にはたくさんの側室がいました。最初は美貌と才能で太宗 李世民の注目を集めたこともありました。

あるとき、太宗は「獅子驄」という馬を飼っていました。でも気まぐれて誰も飼いならすことができませんでした。このとき太祖の側にいた武媚は太宗に「私はこれを飼いならすことができますが、そのためには鉄鞭、鉄棒、短剣の三つが必要です。 もし馬が従わなければ、鉄の棒で頭を打ち、従わなければ短剣で喉を掻き切るのです」と言いました。それを聞いた太宗は武媚を褒めました。

でも太宗時代の武媚の記録はこれだけ。武媚は太宗の寵愛をうけることはなく12年間「才人」のままでした。もしかすると武媚はあまりに気が強すぎるので太宗が敬遠したのかもしれません。

太宗は晩年病気で寝込むようになりました。皇太子の李治は父の太宗をつきっきりで看病しました。このころ武媚は李治と親密な関係になったといいます。

649年。太宗・李世民が死去。

子供のいない前皇帝の側室は尼になる規則だったので武媚は感業寺(長安の禁苑内にある皇室の寺)に入れられました。

尼寺行きはカムフラージュ?

また。別の説もあります。

「新唐書・后妃伝」では、太宗の死後、宮女だった武媚を高宗が側室にしたというのです。武媚が皇后になった時、高宗は「武氏は太宗から賜った」と言ってます。高宗と太宗の間で何らかの話がついていたのかもしれません。

武媚をそのまま後宮に入れると重臣たちの反発があるので一旦、出家させて俗世との縁を断ち。太宗の喪があけたところで後宮に入れたのかもしれません。

後にこの方法は玄宗が楊貴妃を自分の側室にするときに使いました。楊貴妃は玄宗の息子の妻でした。楊貴妃を気に入った玄宗は息子から楊貴妃を奪って道教の寺院で出家させ、俗世との縁をたって数年おいて玄宗の側室にしました。

血は争えないものです。

親子兄弟

中国では夫兄弟婚(レビラト婚とも、親や兄弟の妻や側室と結婚すること)はタブーとされました。特に儒教が広まると「近親相姦」とされ非常に嫌われました(正確には近親相姦にはなりませんが、儒教の理屈では同じと考えるのです)。

ところが唐は鮮卑系王朝の伝統を受け継いでいます。鮮卑は遊牧民だったので夫兄弟婚は珍しくありません。

武則天以外にも、太宗の側室・楊妃(もとは太宗の兄弟の側室)を奪ったり。楊貴妃(玄宗の側室ですがもとは息子の正室)がいます。唐の皇族が漢民族ならそんなことはしなかったでしょう。でも唐にはまだ遊牧民の習慣が残っているのです。

高宗の時代

高宗の側室になる

永徽元年(650年)5月。高宗 李治は太宗 李世民の命日に線香をあげるために感応寺に行きました、武媚と再会しました。二人は涙を流して再会を喜び会いました。

当時の後宮では王皇后と側室の蕭淑妃が対立していました。李治は蕭淑妃を寵愛していました。寵愛を失っていた皇后王氏は蕭淑妃に対抗するため、武媚娘を寺から呼び戻すこように高宗に勧めました。

高宗 李治も呼び戻したいと思っていたので、王皇后の提案にとびつきました。

永徽2年(651)5月。太宗の喪が明けると高宗はさっそく武媚を宮中によびました。入宮前、武媚はすでに妊娠していました。入宮後、息子の李弘を出産しました。

皇后王氏の狙い通り李治は武媚に夢中になりました。このころの武媚は王皇后には従順に従って王皇后と一緒になって蕭淑妃を誹謗中傷。蕭淑妃の寵愛を失わせることに成功しました。

翌年(652年)5月。武媚は昭儀(しょうぎ、二品)に任命されました。

武媚は王皇后には従順に従っていました。王皇后の母・柳氏は宮中の者たちが上辺ばかりの者たちなので信用していませんでした。飾らない性格の武媚は王皇后親子に信用されました。

武媚は王皇后に仕える者とも仲良くしていました。自分が皇帝からもらった褒美は自分の侍女だけでなく、王皇后や蕭淑妃の侍女にも配りました。そのため王皇后や蕭淑妃の行動は武媚に筒抜けでした。

王皇后、武媚は蕭淑妃と言いあらそい。高宗は武媚の言い分だけを信じるようになり、蕭淑妃への寵愛を失わせることに成功します。

しかしもともと高宗から好かれていない王皇后が寵愛されることはありません。高宗は武媚を寵愛するようになります。

娘の死を利用して王皇后を陥れる

「新唐書」や「資治通鑑」によると
永徽5年(654年)。呉世天は長女・安寧姫を出産しました。

生後1カ月。王皇后は武媚のお祝いに来ました。王皇后が去った後。武媚は娘の首を絞めて掛け布団をかけて隠しました。 その後、高宗がやってきました。すると武媚は笑顔で掛け布団をとると、そこには死んだ娘が横たわっていました。武媚は死んだ娘を見て泣いて侍女に尋ねると「皇后が今来たところです」と言いました。高宗は激怒して「皇后が私の娘を殺したのだ!」と言いました。すると武媚も、泣きながら王皇后を批判。でも王皇后が殺したと証明はできませんでした。

でも、高宗は「いつか王皇后を廃して武氏を皇后に」と思ったといいます。

ただし古い時代に書かれた「旧唐書」では武媚の娘が幼くして死亡したことは書いてますが、死因や王皇后の関わりまでは書いてません。何らかの理由で死亡した娘の死を口実に王皇后を廃そうとしたのでしょう。でも証拠がなくてできなかったのでしょう。

高宗は武媚を側室の最高位にしようと考えました。唐では側室の最高位「妃」は4人までと決まってます。でもすでに4人任命していました。そこで高宗は「宸妃」という位を新しく作って武媚を任命しようとしました。

でも宰相の韓瑗と来済の反対で実現しませんでした。

高宗は諦めず、武媚を皇后にしようと考えました。

王皇后の母が呪術を行ったと訴える

その後、王皇后の母・柳氏が巫術師を雇って呪っている。と訴えがあり。高宗は激怒。高宗は柳氏を宮中に出入り禁止にしました。

ここで中書舍人の李義府が「王皇后を廃して、武氏を皇后に」と奏上。こういうときの臣下からの進言は忖度か言わせているかのどちらかです。高宗からは言えないので代わりに臣下が言っているのです。

さらに既に降格になっていた許敬宗、崔義玄、袁公瑜を味方にして「武昭儀を皇后に」と繰り返し訴え続けさせました。

高宗は「王皇后を廃位して武媚を皇后にすることに臣下たちも賛成するだろう」と考えました。

高宗は朝廷で最も位の高い四人の重臣を呼び出して相談。長孫無忌、褚遂良は反対。于志寧は賛成も反対もせず。李勣は病気を理由に欠席しました。諦めきれない高宗は李勣を再び呼び出して意見を求めたところ「これは陛下の家のことです。外の者がとやかく言う問題ではありません」と返事しました。

永徽六年(655年)10月13日。高宗は「王氏を廃皇后にして武氏を皇后にする」と発表しました。

王皇后と蕭淑妃は廃され庶人に落とされ。投獄されました。

こうして武媚は皇后になりました。

 

テレビドラマ

武則天・The Empress 2015年 演:范冰冰
大唐流流 2021年、中国 演:張譯兮 役名:小鹿
風起花抄 2021年、中国 演:施 詩

 

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