達文(ダルムン)ドラマ「ヘチ」に登場した裏社会の王は実在した

5 李氏朝鮮の人々

韓国ドラマ「ヘチ」にはダルムン(達文)という人物が登場します。

妓楼の主人をしていますが。情報を集めたり広めたりして裏社会のリーダーのような人物として描かれます。庶民の王みたいな表現もされています。

一見すると架空のキャラっぽいですが、実はモデルになった人物がいました。

歴史上の達文(ダルムン)を紹介します。

記録に残る達文(ダルムン)

1764年旧暦4月17日(英祖の治世の晩年)。

ダルムンを語る者が王を誹謗

李泰正(イ·テジョン)という者がダルムンの弟ダルソンと自称。ダルムンの息子と名乗る子根湾(ジャ・グンマン)に頼んでデマを広めたことがわかり逮捕されました。

イ·テジョンは「羅州掛書事件」で処刑された羅州僕司イ・ハジンの庶子です。

羅州掛書事件とは老論派と少論派の対立が原因で起きた事件。少論の強行派が羅州の官舎の壁に英祖を「前の王を殺した。偽の君主」と非難する文書が貼られました。関係者は逮捕されました。反体制派がデマを流すのは、反乱を起こす前に人々を動揺させて王の信用を貶め、反乱に味方したり協力する人を増やすためです。

ドラマ「ヘチ」でもミルプングンたちが英祖に反乱を越す前にデマを流して「フェイクニュース」を効果的に使っています。

歴史上のイ・テジョンも復讐のため英祖を貶めるデマを広めていたのでした。

本物のダルムンが冤罪で捕まる

イ・テジョンが起こした事件の取調べ中に達文(ダルムン)は逮捕されました。

調べてみると達文とイ·テジョンは関係ありません。ジャ・グンマンとも親子でないことがわかりました。

達文(ダルムン)は謀反人でないことはわかりました。

それでも都から追放されたダルムン

達文(ダルムン)は白髪になっても髷をゆわず、子供の髪型をしていました。そのことが問題になり「人心を惑わせ、風俗を乱した」という罪で咸鏡道(ハムギョンド)·鏡城(キョンソン)に流罪になりました。

デマを流したものが罰せられるのはわかるとしても。髪型や身なりだけで罰せられるとはひどい話です。

身分社会の厳しい朝鮮では身分や年齢性別で細かく髪型や身なりが決められていました。儒教では「分別」に従うことが重要です。それが「人の道理」なのです。韓国ドラマでもよく重臣や登場人物が「道理」と言いますが。道理とは儒学者が信じる勝手な理屈です。とはいっても朝鮮は儒教の規則で動いていますから。朝鮮の法律も儒教の価値観でできています。

ですから自分の立場にあわない身なりをしているとそれだけで罰せられるのです。

達文(ダルムン)とはどんな人と思われていた?

ではなぜ英祖に反感を持つ人達はダルムンの弟や息子と名乗ったのでしょうか?

当時の漢城(ソウル)ではそれなりに知られていた人物らしいです。何人かの知識人が自分の著書に達文(ダルムン)らしき人物のことを書いています。

達文(ダルムン)は裏社会の顔役?

朝鮮後期のイ·ギュサンの書いた「并世才彦錄」という記録によると。

達文(ダルムン)は漢城(ソウル)の鐘楼通りに住む乞食。姓はわかりません。義侠心(弱い者を助け強い者をくじく)の強い人物で顔が広く、影響力もありました。

ぼろな服ばかり来て、きれいな服を着ることはありませんでした。

達文(ダルムン)は毎日、商店や宿を見回っていました。用心棒のようなことをして見返りを受け取っていました。

街のゴロツキの顔役みたいなもので、実際に暴力を使いましたが。犯罪や反社会的な活動のために暴力を使っていたわけではないようです。商人や宿の主人たちから頼りにされていました。達文(ダルムン)は信義ともってトラブルを解決していたからです。

性格が素直で律儀な性格で口数が少な居人物でした。自分のことを自慢したりしません。

李氏朝鮮の社会では身分の低い人を守ってくれる者はいません。役人もあてになりません。人々はダルムンを信用できる人物として頼りにしていたのでしょう。

晩年、達文(ダルムン)がどこに行ったのかは知る人はいません。

日本でいうと清水次郎長みたいなものでしょうか。

 

 

義理深い放浪者

朴趾源(パク・チウォン)という儒学者が書いた「放璚閣外傳」という短編小説には。「廣文者傳」という話が載っています。この物語の主人公「廣文」が達文(ダルムン)のことだといわれます。

「廣文者傳」の中では、廣文は市場の道端を歩きまわり食べ物を貰う乞食でした。乞食の子どもたちからは慕われていたようです。ある時、病気の子供がいたのでその子のために物乞いに行きました。ところが、の子が死んでしまったので廣文が疑われて追い出されてしまいました。

ある村では泥棒と思われて追い出されることもありました。

ところが病気で死んだ子供達の遺体が橋の下に投げ捨てられていたのを見つけると。子供の遺体を拾って埋葬しました。

それを知った家の主人は廣文を義理深い男だと思って金持ちの薬屋に紹介しました。廣文は奉公生活をしながら多くの人に出会い、義理堅い人物と評判になりました。

その後、漢城(ソウル)を離れ10年ほど各地を放浪していました。晩年になり漢城(ソウル)に戻りました。

白髪が交じる歳になっても若い男の髪型をしてました。当時人気の妓生・ウンシムと付き合ったり。剣契(コムゲ)と話し合ったりする様子が描かれています。

朴趾源(パク・チウォン)によると、廣文がいつ死んだのかはわからない。ということです。

どこまでが事実なのかはわかりませんが。伝え聞いた話をもとに書いたのでしょいう。

「放璚閣外傳」は乞食や放浪者、没落した人や農民など社会の底辺で生きている人の話を集めた物語です。

朴趾源(パク・チウォン)が20代の若い頃に書いた作品です。学者として知られるようになると「こんな作品を書いたのは恥ずかしい(儒学者の間では小説=低俗な読み物とされるから)」と思って弟子に回収するよう指示しました。ところがすでに世間に出回っていたので回収しきれなかった。ということです。

 

記録によって内容が違いますが漢城にいたアウトローなのは共通しています。身分は低く、最初は乞食をしていました。人々の信頼を得て町の仲裁ごとをしたりして人々の信頼を得ていたのでしょう。

もちろん。個人が集めた逸話やそれをもとにした小説なのでどこまで本当かはわかりません。でも勝手に名前を名乗る人がでるくらい知られていた人物なのは確かなようです。

ドラマ「ヘチ」の「ダルムン」は、歴史上の達文(ダルムン)と外観や働きぶりも似ています。史実では達文と英祖は共闘することはありませんでしたが。もし達文が英祖の味方として活躍していたら?という設定でつくられたドラマのようですね。

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