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独孤伽羅(文献皇后)側室禁止!二聖とよばれた影の皇帝

隋 5.2 隋唐の皇后・側室

 

独孤伽羅は古代中国の隋を建国した文帝楊堅の皇后。

文献皇后ともいいます。

皇帝・楊堅とともに政治に関わったので「二聖」といれました。

史実の独孤伽羅はどんな人物だったのか紹介します。

 

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独孤伽羅(どっこ から)の史実

いつの時代の人?

生年月日:544年 あるいは 553年
没年月日:602年8月

名前:独孤 伽羅(どっこ から、きゃら)
諡(おくりな):献
諡号:文献皇后
父:独孤信
母:崔氏
夫:楊堅

子供:5男5女

隨の初代皇帝・楊堅の后です。

日本では飛鳥時代になります。用明・崇峻・推古天皇の生きた時代とほぼ同じです。

おいたち

生年は544年とも 553年ともいわれます。

父は北周の大司馬(軍事を司る長官)独孤信(どっこ しん)。独孤(どっこ)一族は遊牧民族・匈奴(きょうど)の流れをくむ一族。戦いが得意な武門の家柄でした。父・独孤信は軍人たちを率いる重鎮でした。独孤信は有力な一族に娘を嫁がせ影響力を強めていました。

楊堅と結婚

独孤信は七女の伽羅(きゃら)を楊堅(ようけん)に嫁がせました。楊堅は北周の大将軍。孤信は楊堅の将来性を見込んで娘を嫁がせたといいます。

名前の「伽羅」は梵語で黒沈香(Tagara)から。伽羅(カーラ)だけだと「黒」の意味ですが、黒い沈香は香木でも高級品とされたので、伽羅は高級な黒沈香の意味で使われました。

日本では「きゃら」ともいいます。北魏や西魏・北周の初期までは仏教が盛んでした。仏教にちなんだ名前を付ける人もいました。

伽羅は気の強い女性でした。結婚のときに楊堅に対して「他の女には子を産ませない」と約束させたといいます。

夫の楊堅は功績を重ねて上柱国(宰相)・大司馬(軍の長官)になりました。政治と軍事の両方のトップにたち大きな力を得ました。

578年。長女の楊麗華が北周の皇帝・宣帝の皇后になりました。

580年。北周の皇帝・宣帝が他界。

宣帝の死後、静帝が即位。楊堅は事実上の国のトップとして政治を行いました。

このとき伽羅は李円通を通して「獣に乗っているときは、下りることはできません。しっかり勉めなさい」と伝えたといいます。

隨の建国

581年。楊堅は静帝を譲位させて自らが皇帝になりました。このとき、皇位を奪うかどうか迷っていた楊堅に対して伽羅は叱咤激励。楊堅が皇帝になる決断をさせたといいます。

楊堅は皇帝なって国名を「隋」にしました。伽羅は皇后になりました。

伽羅は政治にも関わりました。伽羅は楊堅が行った決断を宦官に報告させ、間違っていると思ったときは楊堅に意見しました。

あるとき、伽羅の義兄弟・崔長仁が重罪を犯しました。法律通りだと処刑になるところでしたが、楊堅は皇后の親戚なので罪を軽くしようとしました。しかし伽羅は「国家のことは私に遠慮してはいけません」と言って法律通り処刑にさせました。

また、伽羅の異母弟の独孤陀が皇后を呪詛したことがありました。楊堅は独孤陀を捕まえ処刑しようとしました。このとき伽羅は「陀が政治を歪めて民を苦しめたのなら何も申しません。しかし私のことですのであえて許してください」と言って命を助けさせました。

このように伽羅は政治に関わったので「二聖」といれました。

伽羅は読書が好きで質素な生活をしていました。

嫉妬深い皇后

しかし、嫉妬深い一面がありました。楊堅が後宮に女性をいれるのを許しませんでした。しかしその助成が不幸な生い立ちの場合は後宮に入れるのを許しました。

それでも楊堅は伽羅に隠れて女性を寵愛しようとしました。

側室を処刑

楊堅は尉遅迥の孫娘を寵愛します。ところが伽羅に知られてしまいます。伽羅は密かに娘をさらって暗殺しました。

娘が殺されたことを知った楊堅は怒って宮中を飛び出し山中に引き籠もりました。楊堅は「皇帝になったのに自由がない」と嘆いています。いったい誰が皇帝かわかりません。すると家臣の高熲がやってきて楊堅を説得。楊堅は宮中に戻りました。楊堅が宮中を飛び出していたのを心配した伽羅は高熲に泣いて感謝しました。

ところが後に高熲が伽羅のことを「一婦人」と言ったり、高熲が妻の亡き後に妾に子を産ませたことを知ると高熲を恨みました。

高熲だけではありません。伽羅は王族男子や重臣たちに妾に子を産ませることを許しませんでした。そのような者がいると楊堅に言いつけて排除しました。

皇太子の楊勇を廃位

皇太子の楊勇(よう ゆう)には多くの側室がいました。しかし正室の元氏を大切にしていませんでした。あるとき元氏が病死します。伽羅は太子の側室の雲昭訓が殺害したと思いました。怒った伽羅は楊勇を嫌い、次男の楊広(よう こう、後の煬帝)を大切にしました。

もともと楊勇の態度が気に入らなかった楊堅も楊勇を嫌うようになりました。伽羅は楊勇の廃位を勧めます。

600年。楊勇は皇太子の座を剥奪されて庶民に格下げになりました。次男の楊広が皇太子になりました。

602年。永安宮で死去しました。

604年。楊広は後に即位して2代皇帝・煬帝となります。

息子・楊広が隋を滅亡させた

ところが煬帝は高句麗遠征や運河の工事などを繰り返したため国民が疲弊します。そのため国内で反乱が起こり最後は反乱軍に処刑されました。

煬帝のあと孫の楊侑(よう・ゆう)が皇帝になりますが、重臣の李淵(り・ずい)に皇帝の座を奪われます。李淵は唐を建国。隋は滅亡しました。

隋が滅亡したのは楊侑の時代ですが、楊広が行った無理な政治が反乱の原因でした。楊広が隋を滅ぼしたのです。そしてその楊広を皇帝にするように強くすすめたのが伽羅でした。最後の最後で伽羅は決断を間違ってしまったのかもしれません。

李淵の母は 元貞太后独孤氏。独孤 伽羅の姉です。
ここにも不思議な姉妹の因縁があります。

 

子どもたち

伽羅には5男3女がいました。

次男が有名な隋の皇帝・煬帝です。

長男・楊勇(皇太子→廃位→自害)
次男・楊広(2代皇帝・煬帝)
三男・楊俊(秦孝王)
四男・楊秀(蜀王→廃位→殺害)
五男・楊諒(漢王→反乱を起こし廃位)

長女・楽平公主(北周の宣帝の皇后)
次女・蘭陵公主
三女・広平公主

 

ドラマの独孤伽羅

 

独孤伽羅・皇后の願い(原題:独孤天下) 2018、中国、演:胡冰卿(フー・ビンチン)
独孤皇后 2019、中国、演:陳喬恩(ジョー・チェン)

 

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