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袁世凱・皇帝を夢見た豪腕軍人政治家

清北京政府 1.5 清の重臣・役人・男達

袁世凱は清朝の軍人でした。

朝鮮に派遣され大きな力を持ちます。

清に帰った後は軍の近代化を行い、清でも有力な精鋭部隊を率いることになります。その後、西太后に認められ清朝の要職につきますが。

宣統帝の時代に左遷。清末に復帰して宣統帝を退位させました。

その後は中華民国の大統領として中国の近代化を進めるとともに日本や欧米との交渉も行います。しかし中国で民主政治を行うことに限界を感じた袁世凱は自ら皇帝に即位しました。

結果として挫折しますが、その豪腕ぶりはヨーロッパからも注目され「ストロングマン」と呼ばれました。

史実の袁世凱はどんな人物だったのか紹介します。

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袁世凱の史実

いつの時代の人?

生年月日:1859年9月16日
没年月日:1916年6月6日
享年:56歳

姓 :袁(えん)
名称:世凱(せいがい)

国:清→中華民国→中華帝国→中華民国
地位:清総理大臣→中華民国大統領→中華帝国皇帝

父:袁保中
母:劉氏
妻:于氏
妾:9人

子供:17男15女

彼は清朝の重臣。そして中華民国の大統領です

日本では明治時代になります。

清朝時代の袁世凱

咸豊9年8月20日(1859年9月16日)
清国の河南省、張営村で生まれました。
袁家は村一番の名家でした。一族の中から総督に出世する者がいるほどでした。当然、袁世凱も役人になるのを期待されます。

袁世凱は庶子でした。袁世凱は4歳のとき子のなかった叔父・保慶の養子になりました。

15歳のとき養父が亡くなりました。
このとき養父の葬儀を出してくれたのが淮軍の劉銘伝(りゅう・めいでん)と呉長慶(ご・ちょうけい)。呉長慶は養父とは義兄弟の間柄でした。

袁世凱は実家に戻りました。でもわんぱくな袁世凱に手をやいた家の人達は彼を北京にいる養父の弟弟子・保齢に弟子入させました。

袁世凱は学校の試験には受かったものの、科挙の試験には2回落第しました。

そこで袁世凱は「無学」のレッテルを貼られます。

でも袁世凱は頭が悪かったわけではなさそうです。科挙の試験は四書五経という修行の経典とその解説書の丸暗記が必要。記憶力と本文の解釈を競う試験です。袁世凱は詰め込み教育に馴染めなかったのです。

役人を諦めた袁世凱は軍人になりました。

光緒7年(1881年)は、つてを頼って呉長慶の軍隊に入隊しました。
呉長慶は淮軍の総司令・李鴻章に従う武将です。

朝鮮に派遣され支配者になる

このころ朝鮮では閔氏派と大院君派が争い国内は混乱していました。
1882年。朝鮮の軍隊が反乱を起こしました壬午の変(壬午事変)。この反乱で日本公使館が襲われ死傷者が出ました。日本は使節と軍を派遣。

それに対抗して清も朝鮮に軍を派遣しました。派遣されたのが朝鮮に最も近いところにいた呉長慶の軍です。その中に袁世凱もいました。

19世紀末。西洋や日本の大陸進出に清は危機感を高めていました。それまで中華王朝が宗主国になり周辺国を臣下の国として従える中華の仕組みが崩壊。属国を失っていきました。そこで清はまだ属国して残っている朝鮮への支配を強めようとします。

清は閔氏派を助ける形で朝鮮への支配を強めました。その中で袁世凱は頭角を表しました。

1884年。金玉均たち開化派(改革派)は日本軍の援助をうけて反乱を起こしました。

袁世凱は日本軍への徹底抗戦を主張。清軍は朝鮮王を助ける形で反乱を鎮圧。このとき清軍は日本人居住者を虐殺します。

反乱鎮圧で手柄を立てた袁世凱は朝鮮での地位を高めます。

ところが手柄を独り占めする袁世凱への風当たりは強く。敵の日本はもちろん、清軍内部からも批判が出て一時帰国しました。

1885年。李鴻章は清に連行していた大院君を朝鮮に派遣。その護衛として袁世凱が送りこまれました。袁世凱を高く評価していた李鴻章は、袁世凱を事実上の公使待遇で派遣しました。

西洋や日本の公使とは明らかに違う高圧的な態度で指示を出し、国王すらも蔑ろにして妥協を許しません。それができたのも朝鮮国内で清の軍事力が圧倒的に強かったからです。

朝鮮国内で大きな権力を手にした袁世凱はその後、10年近く朝鮮の政治を支配しました。朝鮮の属国化を進め、朝鮮半島での日本の影響力を排除しようとしました。

1894年(光緒20年)。貧しさと圧政に耐えられなくなった人々が反乱を起こしました。東学党の乱(東学農民運動)です。

自力で反乱を鎮圧できない朝鮮は清に鎮圧を以来。もちろん袁世凱の望むところでした。袁世凱は本国の李鴻章に援軍を要請。清本国家ら来た清軍は反乱を鎮圧しました。ところが清の軍隊派遣に対抗して日本も軍隊を派遣してきました。1885年に清と日本の間で結ばれた「天津条約」では清と日本のどちらからが朝鮮に軍を派遣したらもう一方も自動的軍を派遣できる。とあったからです。

袁世凱は日本は軍を派遣しないだろうと思っていましたが、予想外に早く軍が送り込まれてきたので焦ります。袁世凱と日本の大鳥公使とお互いに撤兵するように交渉しましたが、交渉は決裂。

袁世凱は「もはや朝鮮は清を上国と思っていない」という理由で帰国を要請。李鴻章は袁世凱の帰国を認めました。

7月19日。袁世凱は朝鮮を出発して帰国。その後、日清戦争が始まりました。

日清戦争で清は敗北。清は最後の属国だった朝鮮を失いました。李鴻章は北京の光緒帝のまわりにる中央政府から敗戦の責任を押し付けられ批判を受けます。

軍の近代化を進める

1895年。袁世凱は天津で陸軍の近代化を担当しました。袁世凱は日本軍との戦いで清軍も近代化が必要と考えました。それまでも西洋の武器を購入して武器の近代化はしていました。でも組織を欧米化している日本軍に勝つのは難しいことが分かりました。日本から軍事顧問を招いて清軍の近代化を進めました。

光緒24年(1898年)。光緒帝とその側近は「戊戌の変法」を発表。明治日本をモデルにした改革案です。

軍の西洋化を急いでいる袁世凱は改革の勉強会に参加。一応は改革を支持する動きを見せました。でも軍の近代化に忙しく積極的には関わってなかったようです。

西太后が光緒帝を幽閉。戊戌の政変

ところが清朝の人々は急激な改革に不満をち西太后派を中心に抵抗しました。かなりの勢力をもつようになります。改革派と反対派の対立が激しくなりました。

すると光緒帝の側近たちが軍で西太后のいる離宮を囲んで排除しようと計画。

袁世凱はその計画を聞かされ参加を求められました。さすがにそれはやりすぎと思ったようです。袁世凱はあいまいな返事でその場を去って西太后派の愛新覚羅 栄禄に報告。栄禄から報告を受けた西太后は急遽、紫禁城に戻って光緒帝から権力をとりあげて幽閉しました。

義和団の乱で力を蓄える

このころ宗教結社が力を持ち、外国やキリスト教排除を叫んで攘夷活動を行っていました。山東省に義和団という組織が誕生。

光緒25年(1899年)。西太后の信頼を得た袁世凱は山東巡撫に任命されました。

袁世凱は義和団を匪賊(盗賊)と認定「匪賊の一掃」を宣言、領内の匪賊を弾圧しました。袁世凱が指揮する精鋭部隊との戦いを避けた義和団は山東を離れて北京へと向かいます。

光緒26年(1900年)。北京に入った義和団の扱いに困った清朝廷は義和団と同盟。義和団は使節を破壊、外国兵と戦闘になります。北京政府は義和団を支持、外国勢力に宣戦布告します。その結果、清・義和団と八ヶ国連合軍が戦い。義和団は壊滅、清軍も敗北しました。清は連合国に膨大な賠償金を支払うことになり、半分植民地のような有様になってしまいます。

ところが袁世凱とその軍は地方にとどまり、連合軍と朝廷軍の戦いには加わりませんでした。外国人を保護。地域内の義和団の鎮圧に専念しました。

袁世凱もそうですが地方の支配者は自分の管轄地域の安全だけが大事で。首都圏の戦いには加わろうとしませんでした。

その結果、北京の朝廷の力は落ち。地方の勢力が相対的に強くなってしまいます。

光緒新政で政治の中心になる

光緒27年(1901年)。李鴻章が死亡。北洋通商大臣兼直隷総督が空いたので袁世凱が任命されました。ますます影響力は大きくなりました。

王族の栄禄ら朝廷の重要人物が死亡していく中、袁世凱は政界でも存在感を増していきます。

光緒帝は権力を奪われたままでした。

西太后が頼ったのが袁世凱でした。

袁世凱たちは古い王朝体制を改革。科挙を廃止。西洋のような政府組織を作り中央や地方の官庁・役職も新しくしました。海外の技術や制度を勉強するため積極的に留学生を派遣。留学先で一番多いのが日本で8千人になりました。日本は西洋の言葉を漢字に翻訳しているので清の人々がすぐ理解できるメリットがありました。

留学生が日本で学んだ西洋文明を清に採用。清は急激な勢いで近代化を進めていきます。鉄道・銀行を整備。かつて光緒帝がやろうとした「戊戌の変法」の復刻版を袁世凱たちがやっているようなものです。

日露戦争では清は中立を保ちましたが。袁世凱は情報提供するなど日本に協力しました。清としてもロシアが南下するのは防ぎたいからです。

日露戦争後、日本が山東三省で影響力を強めると、アメリカなどと協力して日本の進出を止めさせようとしました。

袁世凱たちは国内から外国勢力をできるだけ排除して清の独立を取り戻そうとしました。

光緒32年(1907年)。軍機大臣・外務部尚書になりました。
その一方で袁世凱を支えてきた軍の指揮権を奪われ、地方から切り離されました。
袁世凱の強さを支えてきた軍事力を失い、中央政界の中で生きるいち政治家になってしまいます。それでも清朝のために働きました。

宣統帝の時代

光緒34年(1908年)。光緒帝が死去。その翌日に西太后も病死。宣統帝(溥儀)が即位しました。宣統帝はまだ3歳。父・醇親王載灃(さいほう)が摂政王になり、政治を行いました。

載灃(さいほう)は袁世凱が嫌いでした。王朝体制を壊して王室から力を奪った張本人だと思っていたようです。

袁世凱は全ての役職から外され政界から追放されました。

生まれ故郷の河南に戻り、余生を過ごしました。

しかしかつての部下はまだ政府に残っていたので情報は手に入れていたようです。

このころ各地で革命派のテロが頻発。北京政府は鎮圧を繰り返していました。

辛亥革命

宣統3年(1911年)5月。清は内閣を設立。その組織は当時の日本の内閣をまねたもので現在の日本の内閣ともほぼ同じ。違うのは清朝皇族や満洲人が要職を独占していること。これには清朝内部の政治家たちも反発。各地でもボイコット運動がおこりました。さらに政府は鉄道国有化を発表。それも民間の反発を招きます。

清国内の各地で反対運動が起こりました。

それに刺激されて改革派の活動もより過激になります。

10月。革命派が挙兵。武漢三鎮を占領して「中華民国湖北軍政府」を名乗ります。その動きは全国に飛び火して各地でも反乱が起こりました。

反乱鎮圧ができない北京政府は10月14日。袁世凱を湖北・湖南総督に任命。反乱の鎮圧を命じました。

追放しておいて都合のいいときだけ頼ってくるので迷惑な話かもしれませんが。袁世凱としても権力を手にするチャンスです。

袁世凱は鎮圧軍の全権をわたすように要求しました。

10月27日より29日まで袁世凱はひとまず漢口や漢陽の革命軍を攻撃。周辺の革命軍を鎮圧しました。

10月30日には北京に向けて移動開始。

11月1日。清朝政府は袁世凱を内閣総理大臣に任命しました。

袁世凱は13日には北京に入り。16日には組閣を終えました。

12月1日。南軍(革命軍)と休戦。南軍と交渉しますが決裂。

12月末には孫文が「中華民国臨時大統領」になりました。

1912年1月1日。南京で「中華民国」の建国が宣言されます。

中国は北の清朝・南の中華民国に分裂しました。

軍事力で南京臨時政府を倒すのは可能かもしれませんが、膨大な戦費がかかりますし外国の介入もあるかも知れません。袁世凱は国の分裂を防ぐため、南北政府の統一を目指しました。

そこで南京臨時政府が認めやすい「皇帝の退位」を条件に、南の孫文が遠征外に大統領の座を譲るという案を提案。イギリスの支持も得ました。軍事力で劣る南京臨時政府も認めるしかありません。

袁世凱は隆裕皇太后を説得。

中華民国時代以降

中華民国大統領になる

2月12日。宣統帝は退位を宣言。ここに清朝は滅亡します。

溥儀はこの後も紫禁城での生活を認められました。

袁世凱が中華民国大統領になりました。

まず問題になったのが財源の不足でした。

袁世凱は外国からの借款で補ないインフラ整備をしました。

ところが孫文たち南方出身の革命派は批判します。袁世凱は革命派を弾圧。革命派を指揮していた李烈鈞・孫文・黄興たちは日本に亡命しました。

1914年7月。第一次世界大戦が勃発。中華民国は中立を宣言。

山東を支配しているドイツ軍と連合軍に参加している日本が交戦しました。中華民国は山東省に交戦区域を設定。交戦区域の外でも戦闘が行われているで抗議しましたが無視されます。

1915年1月18日。日本は山東での権益確保のために、袁世凱に21ヶ条を要求。袁世凱は内容の一部を海外に公表。諸外国の圧力で一部を削除して最終的に認めました。当然、野党からは批判されますが袁世凱は日本を批判することで交わしました。

中華帝国の皇帝に即位

1915年。袁世凱は側近の楊度に皇帝復位運動を起こさせます。

中国人には民主政治はできない。君主制に戻すべきだというのです。

現代人からみると唐突なように思えますが、当時はまだ清朝皇帝の溥儀は紫禁城にいましたし。王朝が倒れて一時的に混乱状態になっても別の王朝ができるのは珍しくありません。袁世凱も中国は強力な君主がいないとまとめられないと思っていたようです。

12月11日。国民会議は共和政をやめて立憲君主制にすることを決定。
袁世凱は皇帝に決まりました。

袁世凱は日本をモデルに皇室典範を作成。来年1916年を「中華帝国 洪憲元年」と定めました。

12月25日。「雲南省が独立」するという電報が全国に広まりました。
かつての仲間の北洋軍閥が反乱を起こしたのです。

各地の軍閥も反乱を起こします。

北京では社会主義者(学生)を中心に反対運動が起こります。反対運動は他の国民にも広がりました。おとなしくしていた革命軍残党も反対運動をはじめました。

袁世凱にとって予想外だったのは最初は黙認すると思われていた日本政府が、反対運動の加熱とともに反対にまわったことです。

そして頼みの鎮圧軍が敗北。袁世凱としてはどうにもできません。

洪憲元年(1916年)3月。仕方なく帝政を廃止。

短い間の皇帝でした。

6月。失意のうちに死亡しました。

享年56。

 

 

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