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富察 傅恒:乾隆帝の絶大な信頼を得た将軍

大清 1.5 清の重臣・役人・男達

富察 傅恒(フチャ・フーヘン、ふさつ ふこう)は清朝の第6代乾隆帝に仕えた重臣。孝賢純皇后富察氏の弟です。

乾隆帝の信頼が厚い重臣でした。

史実の富察傅恒はどんな人物だったのか紹介します。

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富察傅恒の史実

生年月日:1720年
没年月日:1770年
享年:51歳

姓:富察(満州語:フチャ、日本語:ふさつ)氏
名:傅恒(満州語:フーヘン、日本語:ふこう)

父:富察李荣保
母:覚羅氏

妻:那拉氏(納蘭明珠の子孫)

子:福霊安、福隆安、福康安、福長安など。
娘2人。

清朝の第6代皇帝乾隆帝の時代に活躍した重臣。
日本では江戸時代になります。

満州族の名門貴族・富察氏の出身。

祖父・哈什屯(ハシュトゥン)は黄太地(ホンタイジ)や多爾袞(ドルゴン)の時代に大臣を務めました。

満州族の伝統で名前を書く時は普通は姓の富察は付けません。

父・李荣保(リーロンバオ)は首相を務めました。

1720年。富察 李栄保(フチャ リーロンバオ)の三男として産まれました。

清の首都・北京で育ちました。姉の富察氏が皇太子の愛新覚羅弘暦(アイシンギョロ・フンリ)の妃になりました。

1736年。弘暦が皇帝になりました。
姉も皇后になりました。

1740年(乾隆5年)。21歳のとき、傅恒(フーヘン、ふこう)は宮殿の護衛になりました。

1742年(乾隆7年)。御前侍衛になりました。

1743年(乾隆8年)。戸部侍郎になりました。財務省の次長クラスです。

1746年(乾隆11年)。軍機大臣になりました。軍機大臣は皇帝が出す命令書の作成、皇帝のために情報を集めるおと、命令を伝えること。など皇帝の秘書のような役目です。内務大臣も務めました。

1748年(乾隆13年)。姉の皇后富察氏が死去。乾隆帝とともに葬儀を担当しました。

金川の戦い

1747年から金川(四川省の北西部)でチベット系の部族との争いが起きました。首長のスロプ・ドポンは軍を率いて抵抗していました。乾隆帝は訥親(ナチン)を司令として軍を派遣。ところが訥親は軍の経験が浅く敗北しました。

1749年(乾隆14年)。訥親に失望した乾隆帝は訥親を解任、傅恒(ふこう)が将軍に任命されました。傅恒はまず軍の中にいたスパイを見つけ出して処刑しました。様々な方向から攻めてスロプ・ドポンの軍を破りました。降伏したスロプ・ドポンは賠償金をだして命拾いしました。乾隆帝はスロプ・ドポンを信じて金川の地を任せます。

乾隆帝は都に戻ってきた傅恒を歓迎しました。

内乱が続く

1754年(乾隆19年)。内乱が起こりました。乾隆帝は鎮圧に兵を送ろうと群臣に意見を聞きましたが、賛成したのは傅恒だけでした。

1755年(乾隆20年)。ダワチが反乱を起こしました。ダワチは天山山脈のあたりを支配していたオイラト族の遊牧民族です。乾隆帝は20万の兵と策楞(ゼレン)将軍、傅恒を送りを送り鎮圧しました。ダワチは降伏。乾隆帝はダワチを許します。モンゴルやロシアに土地を奪われるのを恐れたためダワチを味方にしておこうと考えたのです。

ミャンマー征服

1768年(乾隆33年)。明瑞(ミングルイ)将軍が行っていたビルマ(現在のミャンマー)のコンバウン王朝への攻撃が失敗しました。

乾隆帝は傅恒に出陣を命令します。阿里袞(アリガ)、阿久比(アグイ)らを引き連れてビルマに向けて出陣しました。

3月。傅恒はまず雲南に行き木を伐採して軍船を建造しました。陸と水路の両方からビルマの首都・アヴァに軍を進めました。

7月。海と陸からビルマ軍を攻撃。上陸に成功した清軍は最初の戦いで勝ちました。しかし内陸に進むと次第に苦戦するようになります。高温多湿の気候に慣れない清の将兵が疫病にも苦しみ多くの兵が死亡しました。傅恒も病気になりました。乾隆帝は阿久比(アグイ)に軍の指揮を任せ、傅恒を本国に戻しました。

ビルマ国王とビルマ軍も和平を望んでいたので、和平交渉が始まりました。傅恒は和平に反対しましたが、阿久比らによって和平交渉が進められ成立しました。ビルマが清に朝貢することで決着します。

病気が悪化

傅恒は北京に戻る途中で雲南に立ち寄って政治的ないくつかの問題を片付けて帰国しました。

1770年2月(乾隆35年)。傅恒は帰国しました。乾隆帝は天津まで行き傅恒を出迎えました。しかしその2ヶ月後、病状が悪化して傅恒は死亡します。享年51。

傅恒は乾隆帝が思うほど優秀だったの?

傅恒は軍事の天才と言われることもあり、いくつかの成功をおさめています。重大な場面では強気な判断をすることが多いのも特徴です。清の将軍の中では優秀だったのは確かでしょう。しかし金川の戦いやビルマ遠征でも多くの将兵を失いました。相手の戦力を遥かに上回る大軍を投入して多くの犠牲を出しました。飛び抜けて優れた将軍だったのかは疑問が残ります。

ただし、これは傅恒だけの責任ではありません。他の将軍では傅恒以下の功績しかあげられませんでしたし、この時代の八旗軍が弱くなっていたことにも理由がありそうです。乾隆帝の後半になると、かつて強かった満洲人の軍隊も中国の文化に慣れてしまってヌルハチやホンタイジのころの強さはなくなっていました。

なた、南方の熱帯や山岳地域など、満洲人が経験したことのない慣れない地域での戦闘も苦戦した理由になると思われます。

しかし傅恒に対する乾隆帝の信頼は最後まで揺らぐことはありませんでした。孝賢純皇后富察氏の弟ということもあったのでしょう。

風評被害で息子が私生児に

傅恒には三男・福康安がいました。歴史上の母は不明。正妻の那拉氏の子供ではないかといわれています。

ドラマ 瓔珞(エイラク)では福康安は長男として登場します。傅恒と爾睛(架空の人物)の子供ですが隠し子にされました。ところが爾睛は酔った勢いで乾隆帝との間にできた子供だと錯覚。そして、自殺する理由のひとつになりました。

これは史実ではなくドラマのお話です。

でも中華民国時代に元ネタになる話がありました。

その物語は

福康安は乾隆帝と傅恒夫人の子供。富察皇后は乾隆帝に傅恒夫人との不倫を勧めたので自害させられた。

というものです。

中華民国では清朝時代を悪く描いた物語がいくつも作られました。清朝のイメージを悪くするためです。その作り話が現代でも影響しているのです。

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