宋(北宋)は960年から1127年まで167年続いた中華王朝です。
国名は「宋」。歴史上は北宋ともいいます。
中国には「宋」を名乗る国は他にもありますが。日本で宋といえば趙匡胤の建国したこの国のことをいいます。
宋は一度、金に攻められて滅びました。1127年以後も「宋」は続きますが、再興した宋は歴史上は南宋とよんで区別することもあります。
この記事では建国者の太祖 趙匡胤から 金に滅ぼされた 欽宗 趙烜まで。
北宋の歴代皇帝を紹介します。
北宋の歴代皇帝
初代 太祖 趙匡胤
名前:趙匡胤(ちょう・きょういん)
廟号:太祖(たいそ)
生没年:927 – 976年
在位:960 – 976年
享年:49
父:趙弘殷
母:昭憲太后杜氏
唐滅亡後の戦乱の時代に佐陀(さだ)軍閥に入隊。その軍閥が作った後漢、後周政権内で出世。後周・世宗の近衛軍の将軍になり。後周・世宗の死後、クーデターを起こして北宋を建国しました。
唐末期の混乱や五代十国時代の王朝が短命だったのは軍閥が強すぎたからだと考え。即位後は軍人から権限を取り上げ、代わりに科挙出身の役人を優遇して要職に就けて皇帝に権限が集まる仕組みを作りました。趙匡胤の行なった改革のおかげで北宋は他の軍閥が作った王朝と違い167年続く王朝になりました。宋を文治主義と呼ぶ人もいますが。
ただし太祖の代では中華統一はできず。統一国家としての宋は次の太宗から。つまり宋太祖の時代は唐末期から続く戦乱の時代の一部なのです。
2代 太宗 趙炅
名前:趙炅(ちょう・けい)
廟号:太宗(たいそう)
生没年:927 – 976年
在位:960 – 976年
享年:49
父:趙弘殷
母:昭憲太后杜氏
即位前の名前は趙匡義(ちょう・きょうぎ)、趙光義(ちょう・きょうぎ)。兄の太祖 趙匡胤が突然死亡。太祖には成人した息子がいましたが、なぜか弟の趙光義が即位しました。太宗の即位には疑惑が持たれています。領土拡大に熱心。即位後は兄の方針を受け継ぎ、燕雲十六州を残して中華統一をほぼ達成しました。その後は燕雲十六州を奪うため遼に何度も戦いを仕掛けましたが撃退されて断念。晩年は内政の充実に力を注ぎました。
太宗の登場するドラマ
大宋傳奇之趙匡胤
大宋宮詞
3代 真宗 趙恒
名前:趙恒(ちょう・こう)
廟号:真宗(しんそう)
生没年:968 – 1022年
在位:997 – 1022年
享年:54
父:太宗 趙炅
母:元徳皇太后 李氏
即位後、間もない時期から契丹(遼)の侵攻を受け。1004年「澶淵の盟」を結んで和睦。北宋は契丹に歳弊として毎年銀10万両・絹20万匹を贈る事になりました。この盟約で約90年続いた佐陀(宋含む)と契丹の戦争が終わり、北宋は反映の時代を迎えます。しかし西夏(タングート)との戦いは続きました。晩年は病気のため劉皇后に政治的な決済を任せました。
真宗の登場するドラマ
開封府・北宋を包む青い天
大宋宮詞
孤城閉・仁宗、その愛と大義
4代 仁宗 趙禎
名前:趙禎(ちょう・てい)
廟号:仁宗(じんそう)
生没年:1010 – 1063年
在位:1022 – 1063年
享年:53
父:真宗 趙恒
母:李宸妃
父の死で12歳で即位。章献明粛皇后が垂簾聴政しました。生母は李宸妃でしたが、李宸妃が存命の間は母だと知らされませんでした。西夏との戦いは続いていて、西夏にも毎年銀5万両、絹13万匹、茶2万斤を贈るかわり西夏が北宋の臣下の礼をとることで和睦。弱みにつけこまれて契丹への歳弊も増額しました。それでも安心できず国境には大量の兵士を配置し続けました。
北宋は文治主義、文化と経済の国と言われますが。真宗・仁宗の時代は建国時よりも兵士の数が多く軍事大国でした。しかし軍の指揮権が文官にあって兵の質も悪かったので軍隊が弱かったのです。
歳弊の増加、大量の兵士を持っていたこと、無駄な高給取りの役人が多かったことから財政は悪化。増税したため国内で反乱も起こりはじめますがまだ深刻な問題にはなっていません。
仁宗の登場するドラマ
開封府・北宋を包む青い天
大宋宮詞
孤城閉・仁宗、その愛と大義
5代 英宗 趙曙
名前:趙曙(ちょう・しょ)
廟号:英宗(えいそう)
生没年:1032 – 1067年
在位:1063 – 1067年
享年:35
父:趙允譲
母:任氏
先代の仁宗には跡継ぎがいなかったので太宗のひ孫の趙曙があとを継ぎました。
財政を再建するため改革を行おうとしましたが、重臣たちの反対にあって思うように進まず。病弱だったこともあり、即位後4年で病死。
英宗の登場するドラマ
明蘭・才媛の春
孤城閉・仁宗、その愛と大義
6代 神宗 趙頊
名前:趙頊(ちょう・きょく)
廟号:神宗(しんそう)
生没年:1048 – 1085年
在位:1067 – 1085年
享年:18
父:英宗
母: 宣仁聖烈皇后 高氏
財政赤字を解消するため、王安石を採用して財政再建を行おうとしました。王安石の案は官・軍・地主層など大幅な変更があったため特権階級から反発をうけました。朝廷内では改革を進める新法派と抵抗勢力の旧法派に分かれて対立。新法派内部でも対立がおきて政治が混乱しました。新法にも問題はあったものの、なんとか改革を行い財政を再建。西夏への侵攻を行いましたが敗退。神宗も病死します。
神宗の登場するドラマ
明蘭・才媛の春
7代 哲宗 趙煦
名前:趙煦(ちょう・く)
廟号:哲宗(てつそう)
生没年:1077 – 1100年
在位:1085 – 1100年
享年:25
父:神宗
母:欽慈太后 陳氏
8歳で即位。宣仁太后 高氏が垂簾政治しました。宣仁太后は新法を廃止。神宗が行なった改革を全て廃止。旧法に戻しただけで対策を行わなかったので世の中は混乱。宣仁太后が死去すると、哲宗の親政が始まり新法を採用。朝廷内は混乱しましたが財政は再び改善しました。
8代 徽宗 趙佶
名前:趙佶(ちょう・きつ)
廟号:徽宗(きそう)
生没年:1082 – 1135年
在位:1100 – 1126年
父:神宗
母:欽慈皇后陳氏
兄・哲宗には跡継ぎがいなかったので即位。
徽宗は独裁政治を行い。趣味の庭園を造るために地方から岩や樹木を運ばせました。自分の趣味のために朝廷の予算を浪費。もともと苦しんでいる所にさらに増税を行なって民を苦しめました。そのため各地で反乱が続出。同じころ女真族の金が成長して遼(契丹)を壊滅状態に追い込みました。そこで宋は金と同盟して燕雲十六州を奪おうとしましたが。金との約束破りを繰り返して怒った金に攻め込まれました。
金が攻め込んでくると徽宗は息子の欽宗に譲位して逃げました。しかし連れ戻され最後は金の捕虜になって死亡します。
幾つもの書画を残し宋時代でも優れた芸術家と言われることもありますが。自分の娯楽のために民を苦しめ国を滅ぼす原因を作ったどうしようもない皇帝です。
徽宗の時代が水滸伝のモデルです。
徽宗の登場するドラマ
水滸傳 2011年。
岳飛伝 2012年。
贅婿(ぜいせい)。皇帝のモデル
9代 欽宗
名前:趙烜、趙桓、(ちょう・こう)
廟号:欽宗(きんそう)
生没年:1100 – 1161年
在位:1126 – 1127年
父:徽宗
母:顕恭皇后
徽宗の長男。金が首都・開封に攻めてきたので父・徽宗が譲位。欽宗が即位しました。開封を防衛、金に賠償金を支払う約束をして和睦。逃げていた太上皇亭・徽宗をつれもどしました。金の撤退後。朝廷内で強行派が勢力を強め、ここでも金との約束を破って攻撃しようとしたところ、金に攻め込まれて開封は陥落。北宋の領土の半分が金に占領され。欽宗と父・徽宗、皇族、重臣、宮中の人々が金に連行されました。北宋は滅亡します。
その後、弟(高宗)が南京に逃れて皇帝を名乗ります。高宗から続く王朝は南宋と呼ばれます。
金は欽宗を南宋に返そうとしましたが、高宗は欽宗が戻ってくると困るので拒否され。一生、金で暮らしました。
欽宗の登場するドラマ
岳飛伝
原題:清風明月佳人
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