ホンタイジは後金の第2代ハン。大清帝国の皇帝です。
ホンタイジは独裁的な権力をもった皇帝のイメージがありますが。ホンタイジがヌルハチからハンの地位を引き継いだときは四大ベイレが中心になって政治が行われていました。
ホンタイジは四大ベイレの中では最年少。他の三大ベイレの発言力が大きく、ハンといっても独裁的な権限はありません。
当時の後金は明から経済制裁をうけて貿易がストップ。国内では売れ残りの人参や商品が山積みになり。国内の生活は苦しくなっていました。かといって今さら部族がバラバラに暮らして他の民族の支配をうけていた時代には戻れません。
創業者のヌルハチは独断で進めることもできましたが。ホンタイジは他の四大ベイレと話し合って難しい国の運営をしていかなくてはいけません。
ホンタイジは逆境の中でハンに即位して国の立て直しをしていくことになりました。そのホンタイジは後金のハンになって何をしたか紹介します。
ホンタイジ の史実
いつの時代の人?
生年月日:1592年11月28日
没年月日:1643年9月21日
姓 :アイシンギョロ(愛新覚羅)氏
名称:ホンタイジ(皇太極)
国:後金→大清
地位:アイシン国ハン(王)→皇帝
称号:セチェン・ハーン
廟号:太宗
父:ヌルハチ(後金 初代ハン)
母:モンゴジェジェ(孝慈高皇后イェヘナラ氏)
妻:ジェルジェル(孝端文皇后)
彼は後金の2代目ハン、大清の皇帝です。
日本では江戸時代になります。
ホンタイジは万暦20年(1592年)に生まれました。
父は建州女直の部族長だったヌルハチ。
後にヌルハチは女直(女真)を統一、後金を建国しました。
母は側福普のモンゴジェジェ(イェヘナラ氏)
ホンタイジはヌルハチの8男。後金の建国に大きく貢献しました。
即位する前のホンタイジについてはこちらを御覧ください。
天命11年(1626年)8月。後金の初代ハン ヌルハチが死去。ホンタイジが2代目ハンになりました。
ホンタイジはハンといっても独裁的な力を持っているのではなく、四大ベイレを中心に行っていました。四大ベイレとは、ダイシャン、アミン、マングルタイ、ホンタイジです。
丁卯戦争(第一次朝鮮侵攻)
後金は明との貿易がストップ。朝鮮が仲介して明と間接的に貿易して利益を得ていました。
ホンタイジが即位する前の1623年。朝鮮でクーデターが起こり仁祖が即位。
朝鮮仁祖は明に服従して後金との貿易をやめ、朝鮮国内に明軍を駐屯させました。朝鮮に駐屯する毛文龍(もう・ぶんりゅう)たち明の兵は後金領内に侵入、ゲリラ活動を行っていました。
明と戦っている最中に後ろから攻められる可能性が出てきました。後金としては朝鮮が味方しないのなら、せめて中立でいてほしかったのです。
1624年。朝鮮内で李适(イ・グァル)が反乱を起こしました。反乱は鎮圧されましたがその残党が後金に逃げこみ助けを求めてきました。韓明璉、韓潤の親子は後金に朝鮮を攻めるように進言しました。
天聡元年(1627年)正月。ホンタイジは朝鮮将兵の救援要請に応えるのを大義名分にして、裏切り者の朝鮮を攻撃。明と朝鮮の関係を断つことにしました。さらに毛文龍の討伐も命じました。
1月13日。アミン率いる3万の後金軍は朝鮮遼内に侵入。後金軍には朝鮮から降伏した姜弘立、韓潤たちもいました。
後金軍は毛文龍を破りましたが毛文龍は皮島に逃げました。
1月25日。後金軍は漢城に到着。朝鮮 仁祖は江華島に逃亡。
ホンタイジは長期化して明とモンゴルに攻められるのを不安に思いアミンに朝鮮との和睦交渉を命令。
ところがアミンは和平交渉に反対、占領地で独立しようと考えます。さすがに後金軍内でもハンの命令に従うべきとの意見が強く、しぶしぶ交渉を進めました。しかし和平がまとまるまでの間、アミンは平壌を数日間略奪しました。
ホンタイジは条約が後金に有利な形でまとまりそうだと判断すると兵を朝鮮から引き上げさせました。この戦いで数万の朝鮮人を捕虜にしました。
この時の条約は次のような内容でした。
後金を兄、朝鮮を弟とする。
朝鮮は明の年号「天啓」を使わない。
朝鮮は王族の李玖(イ・グ)を人質として後金に送る。
後金と朝鮮は互いの領土を侵害しない。
という内容で条約が結ばれました。
朝鮮の義州と会寧で市が開かれ、後金と朝鮮の貿易が再開され後金の経済は回復に向かいます。
ホンタイジは正装して戻ってきたアミンを出迎えました。ヌルハチならアミンを処分していたかもしれませんが、このときのホンタイジにはそこまでの力はありません。
寧錦の戦い
天聡元年(1627年)5月。ホンタイジは自ら軍を率いて遠征。
まず明の武将・趙率教が守る錦州を包囲。そして寧遠城を攻めました。ところが袁崇煥(えん・すうかん)が守る寧遠城は堅い城壁で守られ多くの大砲で武装していました。後金軍は10日間攻め続けましが、寧遠城の守りは堅く攻め落とすことができません。明軍は多くの将兵に犠牲者を出しつつも寧遠城を守り切りました。
ホンタイジは兵の疲労もあり寧遠城の攻略を断念。撤退しました。
この年、後金を飢饉が襲いました。明との貿易が止まり経済危機になっているところに食糧不足が重なり。物価が高騰。人々は食料や生活に必要な物を買うのにも困り、国内では家畜泥棒や殺人が多発しました。ホンタイジはなんとかしないと自分の地位どころか国が危なくなります。
ホンタイジは朝鮮仁祖に命令して食料を出させる一方で他の方法も考えました。
遼西側(海側)から山海関の攻略が難しいと判断したホンタイジはモンゴルに目標を変更しました。
モンゴルの攻略
このころまでに後金はモンゴルのハルハ、ホルチン部と同盟。チャハル部と敵対していました。チャハル部はモンゴル平原最大の勢力。リンダン・ハーンはモンゴル帝国(北元)のハーン(皇帝)になっていました。リンダン・ハーンの強権を嫌うモンゴルの部族が後金に助けを求めていました。
天聡2年(1628年)2月。ホンタイジはドルゴンとドドにチャハルに味方するドロト部を攻め1万人を捕虜にしました。
8月。カラチン部と和睦。
9月には同盟するホルチン、カラチン、ナイマン、オーハン、ハルハ部とともにチャハル部を攻めました。この戦いで後金・モンゴル連合軍が勝利。リンダン・ハーンは西に逃げましたが、多くの人や家畜を奪いました。
敵の裏切りで大砲を入手
1629年。後金にゲリラ活動を行っていた毛文龍が山海関方面の総司令・袁崇煥に処刑されました。毛文龍は密輸をしたり海賊行為をしたり北京の高官に賄賂を送ったりしていたようです。
ゲリラの親玉がいなくなったのはホンタイジにも良い知らせですが、それ以上にホンタイジを喜ばせる出来事がありました。
毛文龍の処刑に反発した部下の中から3人の武将が部下をひきつれて後金に投降してきたのです。彼らは手土産として紅夷砲を持ってきました。紅夷砲はポルトガル式の大砲です。後金を苦しめてきました。しかも投降者の中には紅夷砲と同じ物を作れる技術者もいました。
ホンタイジは彼らを迎え、投降した3人の武将に爵位を与えました。後に彼らは明との戦いで大きな力になります。
後金国内で大砲の製造を開始。1631年に後金初の「紅衣砲」が完成します。
明との戦い
己巳の変
天聡3年10月(1629年)~天聡4年(1630年)正月にかけて。ホンタイジは後金軍と配下にしたモンゴル軍を率いてモンゴル方面から万里の長城をぬけて明に攻撃をかけました。
明は精鋭部隊を山海関のある遼西方面に配置していたので長城の守りは手薄でした。
後金軍はあっさり明の防衛戦を突破すると各地で略奪を行いながら北京に接近。その間、袁崇煥が北京の救援に駆けつけました。
11月20日。後金軍は北京を攻撃。明の崇禎帝は諸将を集め全力で防衛にあたらせました。後金軍は紫禁城の場外で明軍と戦いました。その間、ホンタイジは「袁崇煥は後金に内通している」という流言を流しました。
12月1日。崇禎帝はその噂を信じて袁崇煥を呼び出して逮捕しました。
その後、後金軍は北京市内やその周辺を略奪。2月。ホンタイジは後金軍を撤退させました。この後金の北京への攻撃を明では「己巳の変」といいます。
その後も略奪を繰り返す
後金はそれまで長距離の遠征はしたことがありません。ホンタイジはなぜリスクの高い遠征を行ったのでしょうか?
この時期、後金の国内は不作で食料不足になっていました。ホンタイジは持ち帰った略奪品を皆に配りました。国内での労働力を確保するため明の農民を拉致、農奴にして食糧を生産させました。
後金は己巳の変の後も5回、長城を超えて明の領内で略奪を繰り返しました。
ホンタイジは北京の占領よりも略奪や拉致を優先させ国力をあげました。ホンタイジはハンとしての威信をあげることに成功しました。
逆に略奪にあった明の国内では大きな被害が出ました。明の朝廷内では後金を防ぐことができない責任を武将や役人におしつけ粛清が行われ。皇帝に媚びへつらう宦官たちがますます力を付けていきました。
7月。袁崇煥は崇禎帝の命令で処刑されました。ところが袁崇煥の処刑に不満をもった部下たち1万5千が後金に寝返ってしまいます。ホンタイジは彼らを歓迎しました。
袁崇煥の軍は明でも最も銃器の扱いになれた部隊です。ホンタイジはここでも最新兵器を扱える部隊を味方にすることができました。
明の朝廷は腐敗し軍の組織はボロボロになり組織的に敵や反乱への対処ができなくなってしまいます。後に明は反乱軍の李自成たちによって倒されますが。反乱軍があっさり明を倒せたのは、たたでさえ疲弊している明が後金との戦いで組織が機能しなくなっていたのも大きな理由です。
制度改革
ヌルハチの時代、後金は明の遼東を領土にしたので漢人の人口が増えました。漢人は農奴にされてました。明と内通する者もいたのでヌルハチの晩年には漢人への弾圧が行われました。そのため農民たちが明に逃げて農地が荒れ果てる地域もでました。
ホンタイジは漢人の待遇を改善。奴隷にされていた人々の地位を上げ、ある程度自主的に農作ができる権限を与え。農民が後金内で定着できるようにしました。
漢人の知識人、役人、武官を積極的に採用。中華王朝式の組織作りを目指しました。
ホンタイジ~ドルゴンの時代、明を見限って後金(清)に多くの武将が寝返ります。そうなったのも有能な武将を良い待遇で迎え入れたことも理由の一つでしょう。
ホンタイジがハンになったときは四大ベイレとの話し合いで政治が行われていました。ホンタイジは中華王朝の皇帝のような権力をもった君主になろうとしました。そのための組織作りを行います。
軍規の規律を引き締め、兵たちが戦場で勝手に殺戮や略奪、強姦、深酒などの行為を禁止。違反したものは連帯責任で厳罰を与えました。
1632年からはベイレ(貝勒)大臣の子供で8歳以上15歳未満の者は全員教育を受けるように義務付け。
各地で測量して空いている土地は希望者に与えて耕作させました。
1632年には禮部参政の李伯龍の意見を採用して「三大ベイレの南座」の制度を廃止しました。それまでハンのホンタイジと他の三大ベイレ(ダイシャン、アミン、マングルタイ)は4人並んで臣下の前に座っていました。
それを臣下の前に座るのはハンだけにしたのです。ホンタイジはハンの権限を強化しはじめました。
1633年には配下に入った漢人たちを組織して漢旗を設立。1634年には蒙古二旗を設立。後金は満洲人だけの国ではなくっていました。
すでに後金国内でも女真人の割合は半分程度になり、女真・漢・モンゴル人が暮らす多民族国家になっていました。そうなるとヌルハチが考えた女真人の国「金」とはかけ離れてしまいます。ホンタイジは新しい国の理想を考え始めました。
そしていよいよホンタイジは皇帝に即位。大清が建国されるのですが。この続きは後ほど紹介します。
つづきはこちら。
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