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清朝皇帝 初代ヌルハチからラストエンペラーまで全12人を紹介

4.7 清・金

瓔珞、如懿伝、宮廷の諍い女など。清王朝が舞台のドラマが日本でも見られるようになりました。でも清王朝ってあまりなじみありませんよね。

そこで清王朝の12人の皇帝を初代ヌルハチからラスト・エンペラー・溥儀まで紹介します。

清にはどんな皇帝がいて、その時代にはどんな出来事があったのか。どのような皇帝だったのかを簡単に紹介します。

その皇帝が登場する日本で放送された主なドラマも合わせて紹介しました。

ドラマをみるときの参考にしてください。

皇帝は愛新覚羅氏

清王朝は1616年にヌルハチが後金国を建国したのが始まり。その後、「大清」と名前を変えて1912年まで続きました。296年の歴史をもちます。

日本で言えば江戸時代初期から明治半ばまでになります。

清朝の皇帝は愛新覚羅氏の世襲制です。

現在の中国東北部に住んでいた建州女直の族長だったヌルハチの一族が後金を建国しました。ヌルハチが名乗った姓が「愛新覚羅」です。

以後、後金・清で皇帝一族の姓になりました。

「愛新覚羅」は
日本語では「あいしんかくら」
満洲語では「アイシンギョロ」と発音します。

愛新覚羅の意味

アイシン(愛新) は「黄金」を意味します。「愛新」の漢字は発音を当てはめただけなので意味はありません。

モンゴル・女直など遊牧民系の民族は支配者一族は「黄金の一族」と呼ばれることがあります。「輝かしい・高貴な」といった意味です。

一族や子孫は「金」にちなんだ名字をつけることがあるのです。中国朝鮮で「金」の姓が多いのはそのためです。(ただし金姓には別の由来を持つ一族もあります)

ギョロ(覚羅)はヌルハチが住んでいた地名です。

ヌルハチの一族はもともとはギョロ(覚羅)が姓でした。後金建国後はアイシンギョロ(愛新覚羅)と名乗りました。

覚羅氏の中でも「愛新覚羅」と名のれるのはヌルハチと同じ祖父から別れた皇帝一族のみ。それ以外の一族は「覚羅」のままです。日本でいえば「愛新覚羅」が「徳川」、「覚羅」が「松平」に近い感覚です。

清王朝滅亡後、満洲族は中国で弾圧を受けました。そのため現代では愛新覚羅氏の子孫の多くが「金」の姓に変えているようです。一部には「愛新覚羅」を名乗り続けている人もいます。

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清朝皇帝の呼び名

皇帝の称号について

清の皇帝にはたくさんの呼び方があります。

清の皇帝一族は満洲人です。でも国民の大半が漢人でした。モンゴル人など他の民族も多く。多民族国家でした。満洲族は国民の1割しかいません。少数派の満洲族が巨大な国を統治するため、清の皇帝は満洲族の王(ハン)・モンゴル皇帝(ハーン)・漢民族の皇帝も兼ねています。だから中華・満洲・モンゴル式の称号を持っていました。

例えばホンタイジの場合

満洲王  「スレ・ハン」
モンゴル皇帝「シェチェン・ハーン」
漢風諡号「文皇帝」応天興国弘徳彰武寬温仁聖睿孝敬敏昭定隆道顕功文皇帝

という3つの称号をもっています。

さらに廟号という儒教圏独特の呼び名もあります。

廟号

廟号(びょうごう)とは儒教国家で祖先を祀るときの呼び名です。生前の名前や諡号とは違う名前を付けます。

宗教的な名前なので君主としての称号とは別につけます。

漢字一文字+祖・宗とつけるのがルール。

「祖」は王室の初代かそれに近い功績のあった王。それ以外の王は「宗」です。

国の制度として採用されてるので生前の王が儒教を信じていたかどうかは関係ありません。重臣や官僚に儒教を信じている人が多い国ではこの方式が採用されています。

祖や宗の前に付ける漢字は王朝が変わると再利用されます。そのため漢字文化圏の王朝では太祖や世宗という廟号の皇帝や王が何人もいます。

中国ではこの呼名で紹介されることも多いです。

例:太祖、太宗、世祖、世宗・・・

元号+帝

即位した元号をとって◯◯帝と呼びます。明と元は皇帝一代につき一つの元号を使ったからです。明治以降の日本の天皇の呼び名と同じしくみです。

例:康熙帝、乾隆帝

日本では廟号は使わずこの方式が一般的。世界的にもこの呼び方が多いです。

ヌルハチ、ホンタイジは本名のほうが有名です。ヌルハチは生前に自ら「皇帝」と名乗ったことはありません。ホンタイジも途中から皇帝の称号を採用したのであまり皇帝のイメージがありません。

ここでは本名の他に一般的に使われている「元号+帝」の呼び方と廟号を紹介します。

名前の読み仮名は以下のルールで書いています。
カタカナ:満州語に近い発音
ひらがな:日本語の発音

清朝歴代皇帝

清朝の歴代皇帝を簡単に紹介します。

初代 ヌルハチ/天命帝

名前:努爾哈赤 (ヌルハチ)
廟号:太祖
生年没年:1559-1626年(68歳)
在位:1616-1626年(在位11年)

「天命帝」よりも「ヌルハチ」のほうが有名。

建州女直出身。当時4つに別れて争っていたジュシェン(女直、女真)の部族集団を一つにまとめました。明は朝鮮半島で日本と戦っていたため、女直の争いに介入することがあまりできません。ヌルハチはその間に勢力拡大しました。

1616年。ヌルハチがイェヘ部を除くジュシェンを統一してハン(王)になりました。ヌルハチは金国(アイシン・グルン)を建国。歴史上は1115年にワンイエンアゴダが建国した金国(アムバン・ジュシェン・アルチェン・グルン)と区別するため後金と呼びます。

八旗という軍と社会が一体になった遊牧民族ならではの組織を作りました。強力な軍事力をもった後金は、人口では圧倒的に多い明に対して宣戦布告します。明がイェヘ部を支援したからというのがその理由です。

ヌルハチは明との戦争が続く中、戦場で受けた傷がもとで死亡しました。

そのころ日本では
戦国時代の終わりから江戸時代のはじめころ。江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(1579-1632年)とほぼ同世代。在職期間(1605-1623年)も近いです。

登場したドラマ

宮廷の泪・山河の恋(2012年、中国、演:周紹棟)

第2代 ホンタイジ/崇徳帝

名前:皇太極 (ホンタイジ)
廟号:太宗(たいそう)
生年没年:1592-1643年(50歳)
在位:1626-1643年(在位18年)

崇徳帝よりもホンタイジの呼び方が有名。

ヌルハチ死後、後継者になって後金を率いました。

即位後、朝鮮を服属させ。モンゴルを平定。

1635年。モンゴル帝国のハーンが持っていた玉璽を手に入れ遊牧民の皇帝=ハーンになります。
1636年。国号を「ダイチン(大清)」にしました。満洲・モンゴル・漢人を統べる「皇帝」を名乗りました。

明の制度や文化を学び、遊牧民連合から中央集権的な帝国作りを目指しました。

明との戦いでは袁崇煥らの軍に敗退するなど、当初は苦戦しました。しかし嘘の情報を流して明の皇帝に袁崇煥を処刑させました。万里の長城を超えて明に攻め込み優位に戦いをすすめます。明との戦争が続く中、宮殿内で死亡しました。

そのころ日本では
江戸時代にはいり幕府の基礎が完成したころ。3代将軍・徳川家光(在職1623- 1651年)と同じ世代。

登場したドラマ

宮廷の泪・山河の恋 (2012年、中国、演:ハウィック・ラウ)
皇后の記 (2015年、中国、演:ニエ・ユエン)
王家の愛 (2018年、中国、演:フー・ダーロン)

第3代 順治帝(じゅんちてい) 

名前:福臨 (ふくりん、フリン)
廟号:世祖(せいそ)
生年没年:1638-1661年(24歳)
在位:1643-1661年(在位19年)

6歳で皇帝になったため。摂政ドルゴンが実権を持っていた時代です。ところが明と争っている最中に明で李自成の反乱が起こり明が滅亡。李自成が大順を建国しました。そこでドルゴンが中心になり大順を滅ぼしました。順治帝は北京に移動して清の都にしました。

ドルゴン死亡後に自ら政治を行いました。それまで清が満洲人を中心にした国からモンゴル人・漢人を含めた中華の帝国へ発展させた皇帝。そのため3代目にもかかわらず「祖」の廟号がついています。

国家のしくみは明朝を引き継ぎましたが、宦官の横暴や官僚の腐敗など中華王朝にありがちな悪弊を正して新しい国家づくりを目指しました。しかし24歳という若すぎる死は人々から惜しまれます。「出家して山で生きているにちがいない」という噂がでるほどでした。

そのころ日本では
江戸時代前期。社会も安定したころ。3代徳川家光(在職:1623-1651年)~4代家綱(在職:1651-1680年)の時代。

第4代 康熙帝(こうきてい) 

名前:玄燁(げんよう) 
廟号:聖祖(せいそ)
生年没年:1654-1722年(69歳)
在位:1662-1722年(在位61年)

清朝でも最高の名君といわれます。領土拡張や制度の充実を行い、後の清朝繁栄の基礎を作りました。四代目なのに廟号に「祖」がついているのもそのためです。

倹約家で宮廷費用も明朝時代よりも大幅に減らし国家財政を豊かにしました。減税も何度も行い税の仕組みも変えました。

漢人の反乱(三藩の乱)、台湾(明朝の残党)の併合。ロシア帝国との領土交渉、北方の遊牧民ジュンガルとの戦い。チベット内乱への介入など積極的な遠征、外交を行いました。

しかし後継者問題には悩まされました。安定した皇位継承を目指して皇太子制度を採用したものの遊牧民の満洲族にはなじます廃止。「九王奪嫡」といわれる皇子たちの争いが起こりました。

そのころ日本では
太平の世が訪れ、元禄文化など華やかな時代になっていました。
4代将軍徳川家綱(在職:1651-1680年)~8代将軍吉宗(在職:1716-1745年)

登場したドラマ

・花散る宮廷の女たち (2017年、中国、演:趙 濱)

第5代 雍正帝(ようせいてい) 

名前:胤禛(いんしん、インジェン)
廟号:世宗(せいそう)
生年没年:1678-1735年(58歳)
在位:1723-1735年(在位13年)

即位直後から「皇位を奪った」と噂されました。即位後は兄弟を粛清、独裁的な政治を行ったことで知られます。

その一方で康熙帝の時代に遠征を繰り返し疲弊した国内を立て直し。制度を改革して安定した社会を作りました。非情な面があったり、領土拡張をあまり行っていなので歴史上の評判はいまいちですが。政治家としては有能でした。後の時代に多くの遠征ができたのも雍正帝の時代に国家財政を建て直したからです。

しかし働きすぎて過労で倒れたともいわれます。

そのころ日本では
8代将軍徳川吉宗(在職:1716-1745年)。先代までで浪費しすぎた幕府財政を見直して幕府の立て直しをしていたころ。世の中はひきつづき安定。

登場したドラマ

・宮廷の諍い女(2011年、中国、演:チェン・ジェンビン)
・花散る宮廷の女たち (2017年、中国、演:鄭曉東)
・如懿伝 〜紫禁城に散る宿命の王妃〜(2017年、中国、演:チャン・フォンイー )

第6代 乾隆帝(けんりゅうてい)

名前:弘暦(こうれき、フンリ)
廟号:高宗(こうそう)
生年没年:1711-1799年(89歳)
在位:1736-1795年(在位60年)

生涯に10回の海外遠征を行いました。ジュンガル、ネパール、ウイグル、台湾(明の残党)、コンバウン(ミャンマー)、越南(ベトナム)などと戦い積極的に領土を広げました。乾隆帝の時代が清朝の全盛期といわれます。

在位60年で生前退位しました。その理由は祖父・康煕帝の61年を超えてはいけないから。実際には退位後も政治を行いました。歴代皇帝の中でも最も長生きしましたが、晩年には痴呆の症状もでました。最後まで実権は握り続けました。

妃嬪の数が多く。後宮内での争いも多いです。ドラマ化されることの多い時代です。

そのころ日本では
8代将軍・徳川吉宗(在職:1716-1745年)~11代・家斉(在職:1787-1837年)。吉宗の享保の改革で幕府財政が安定した後、金権政治の田沼時代・その後の松平定信の寛政の改革がおとずれます。一方、農村では一揆が多発し始めた時代。

登場したドラマ

・宮廷の諍い女(2011年、中国、演:王文杰)
・如懿伝 〜紫禁城に散る宿命の王妃〜(2017年、中国、演:ウォレス・フォ)
・瓔珞〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜(2018年、中国、演:ニエ・ユエン)

第7代 嘉慶帝(かけいてい)

名前:顒琰・顒琰(えいえん・ぎょうえん、ヨンヤン)
廟号:仁宗(じんそう)
生年没年:1760-1820年(61歳)
在位:1796-1820年(25年)

父・乾隆帝から譲位されましたが実権を握られていたのでおかざりの皇帝でした。乾隆帝の死後、自ら政治を行います。

白蓮教や天理教徒など各地で反乱が起こり鎮圧にあけくれました。ところが長い平和に慣れた八旗軍は反乱をなかなか鎮圧できません。そこで志願兵を集め義勇軍を編成してなんとか鎮圧しました。義勇軍は軍閥になり満洲八旗を脅かす存在になります。イギリスからアヘンが密輸輸入され広まったのもこのころ。清の力が衰え始めた時期でした。

そのころ日本では
11代将軍・徳川家斉(在職:1787-1837年)。寛政の改革が終わりますがしばらくは緊縮財政が続いていました。その後、田沼時代のような金権政治が復活。日本近海に外国船も合わられるようになり。外国船打払令がでたのもこのころ。

第8代 道光帝(どうこうてい)

名前:旻寧(みんねい、ミンニン)
 廟号:宣宗(せんそう)
生年没年:1782-1850年(69歳)
在位: 1820-1850年(在位31年)

先代から国内に入っていたアヘンが健康・風紀を乱し社会問題になりました。アヘンの輸入を禁止しました。

1840年。アヘン貿易を求めるイギリスとの間で戦争になり敗退(アヘン戦争)。イギリスとの間に南京条約を結ばされます。香港など、5港を開港しました。フランス、アメリカと不平等条約を結ぶことになり欧米列強の植民地支配を心配しなければいけない時代になりました。

そのころ日本では
11代将軍・徳川家斉(在職:1787-1837年)~12代・家慶(在職:1737-1853年)。倹約・贅沢禁止の天保の改革が挫折。幕府財政はどんぞこで幕府の権威もおちていたころ。フランス・イギリス・アメリカの船が日本近海にやって来たり、オランダが開国を要求してきたのもこのころ。

第9代 咸豊帝(かんぽうてい)

名前:奕詝(えきちょ、イジュ)
廟号:文宗(ぶんそう)
生年没年:1831-1861年(31歳)
在位:1850-1861年(在位12年)

即位直後に太平天国の乱。
1858年のアロー戦争(第二次アヘン戦争)に敗北。イギリスと天津条約を結びます。北京への使臣駐在、キリスト教布教の公認、アヘン販売の許可などを認めることになります。ロシアの武力に屈してアイグン条約・北京条約を結び北満洲(沿海州)を失います。

さらに英仏は北京に進軍。咸豊帝は北京を恭親王にまかせて熱河に逃げました。北京条約を結び。天津の開港、九竜半島(香港)のイギリスへの割譲を認めることになりました。

結核で病死。載淳を大臣たちが補佐するよう遺言を残しました。ところが東太后と西太后が恭親王とともにクーデター(辛酉政変)を起こし咸豊帝が指名した大臣たちを処刑。西太后派が政治の主導権を握ります。

そのころ日本では
12代将軍・徳川家慶(在職:1737-1853年)~14代・家茂(在職:1758-1866年)。
1853年にペリー来航。開国に向けて大きく動き出していた時代。尊王攘夷運動が盛んになります。篤姫が13代家定に嫁いだのもこのころ。

第10代 同治帝(どうちてい)

名前:載淳(さいじゅん) 
廟号:穆宗
生年没年:1856-1875年(20歳)
在位:1861-1875年(15年)

わずか6歳で即位。実母・西太后とその親族に実権を握られていました。

14年続いた太平天国の乱は終わったものの、他の反乱が起こります。
軍の西洋化を行いある程度の国力が回復しました。日本を上回る海軍力をもちました。

琉球漂流民殺害事件が起きて宮古島の島民が漂流先の台湾で殺害される事件が発生。清朝は「台湾島民は統治外」と回答したため日本軍が台湾に出兵(台湾出兵)。その結果、台湾は清の領土にのこったものの琉球は清の朝貢国ではなくなります。

同治帝は若くして病死。

そのころ日本では
東洋最強の帝国と思われていた清朝の惨状を知った日本は危機感をもちます。鎖国は無理と判断した幕府は開国して国力を高め欧米に植民地化されるのを避けようとします。しかし倒幕運動が激しくなり、14代将軍・徳川家茂(在職:1758-1866年)から最後の将軍・慶喜(在職:1767-1868年)を経て江戸時代が終わりました。1868年明治天皇が即位。明治時代が始まりました。

第11代 光緒帝(こうしょてい)

名前:載湉(さいてん、ヅァイティアン)
 廟号:徳宗(とくそう)
生年没年:1871-1908年(38歳)
在位:1875-1908年(34年)

母は西太后の妹。権力の維持を狙う伯母の西太后によって皇帝になりました。

幼くして皇帝になったので西太后の睡蓮政治が行われました。ロシア、日本、フランスなどによって各地で紛争が続き属領での影響力が失われていきます。
マカオがポルトガルの領土になったのもこのころ。

19歳で正式に自ら政治を行い始めます。

1894年。日清戦争が起こり敗北。下関条約で朝鮮が朝貢国でなくなります。

光緒帝は日本の明治維新を意識した政治改革を進めました。急激な改革に反発がおこります。西太后派はクーデターを起こし光緒帝を監禁。改革派を弾圧しました。

1900年におきた義和団の乱が起こり西太后につれられ逃亡。乱がおさまったあとも西太后が実権を握ったままでした。

光緒帝の死因は謎も多く、暗殺説もあります。

そのころ日本では
明治時代(1868-1912年)。富国強兵政策のもと近代化。清の弱体化によってロシアが満洲・朝鮮半島に進出。ロシアの南下を避けたい日本は朝鮮半島の権益を巡って清やロシアと対立。日清戦争・日露戦争が起こりました。戦争に勝った日本は台湾を併合。ロシアが持っていた南満洲の鉄道・鉱山などの開拓権利が日本に移ります。

登場したドラマ

・蒼穹の昴(1996年、日本、演:万歳爺(ワンソイイエ))

第12代 宣統帝(せんとうてい)

名前:溥儀(ふぎ、プーイー)
廟号:なし
生年没年:1906-1967年(62歳)
在位
清:1908-1912年(5年)
3歳で皇帝に即位。
ラストエンペラーとして有名。

1911年に辛亥革命が起こります。
1912年。清朝滅亡。

清の皇帝としてはここでおわり。

そのころ日本では
明治時代(1868-1912年)の後半。日清・日露戦争後に日韓併合・満洲開拓を進めていました。

清朝滅亡後

満州国執政 1932-1934年
満州帝国皇帝 1934-1945年(満州国時代とあわせて13年)

日本では大正から昭和。戦争の時代に突入します。

清朝滅亡後も中華民国の保護下で紫禁城で暮らしていましたが。中国でクーデター(北京政変)が起こり紫禁城を追われてしまいます。
その後、イギリスとオランダに保護を拒否されて日本租界(治外法権のある土地)の天津で暮らしました。

1932年。大日本帝国陸軍の満州国元首の要請を受けて就任。満州国皇帝になりました。中華民国に対する不満と清朝復興をめざす溥儀は日本軍に協力しました。日中戦争・第二次世界大戦では、満洲は激戦地とは離れていたため比較的被害は少ない方でした。しかし終戦間際にソビエト軍が侵入して戦場になります。

1945年の日本の敗戦で満州国皇帝を退任。日本に亡命する予定でしたがソビエトの捕虜になり中華人民共和国にひきわたされました。囚人として扱われましたが1959年釈放。その後は中国共産党の指示で政府機関の要職を勤めました。(市民として暮らし植物園の庭師として死亡したというのは間違い)

映画「ラスト・エンペラー」でその生涯が描かれ有名になりました。

日本でもある年齢層以上では愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)の名は有名です。

4.7 清・金
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中国韓国歴史ドラマの史実

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