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宣統帝 愛新覚羅 溥儀・清朝最後の皇帝

愛新覚羅溥儀 1.1 清の皇帝

愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら・ふぎ)は清朝最後の皇帝。中華王朝最後の皇帝。そして満州帝国の皇帝です。

愛新覚羅溥儀が生きたのは清朝の末期から中華民国、満州国、中華人民共和国と激しく時代が変わるころ。

時代に翻弄され、中国・日本・ソ連など様々な人達に利用され、時には時代に逆らおうともがいた一生でした。

日本でも愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)の名は有名です。

歴代皇帝では唯一火葬されたので「火龍」と呼ばれます。

現在でも様々な評価のされる溥儀は清朝だけでなく東アジアの歴史でも重要な人物です。

愛新覚羅 溥儀とはどのような人物だったのか紹介します。

 

 

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愛新覚羅 溥儀 の史実

いつの時代の人?

生年月日:1906年2月7日
没年月日:1967年10月17日
享年:61歳

在位
清:1908-1912年(5年)

姓:愛新覚羅(あいしんかくら、満洲語:アイシンギョロ)
名:溥儀(ふぎ、プーイ)
字:耀之

父:醇親王 載灃
母:瓜爾佳 幼蘭

皇后 婉容

淑妃 文繡

明賢貴妃 譚玉齢
福貴人 李玉琴

妻 李淑賢

子供
女子(母:李淑賢)

愛新覚羅溥儀は清朝末期から中華人民共和国初期の人物。

日本では明治から昭和になります。

呼称

歴史上の人物として様々な呼び方があります。

宣統帝:清朝皇帝在位時の元号から。一般的にはこの呼び方。

廃帝:清朝を倒した中華民国の立場から。
遜帝:旧清朝の人々から。遜は「ゆずる」という意味。
大同帝、康徳帝  :満洲国・満洲帝国時代の元号から。 
火龍:清朝史上唯一火葬された皇帝(龍)だから。
末代皇帝:現代の中国。ラストエンペラーと同じ意味。

 

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おいたち

光緖32年1月14日(1906年2月7日)。北京で生まれました。

父は醇親王(じゅんしんのう) 載灃(ヅァイフェン、さいほう)
 第11代皇帝・光緒帝の弟です。

母は瓜爾佳(グワルギャ) 幼蘭(ようらん)
 幼蘭の父は光緒帝の従弟。西太后の腹心だった栄禄です。

光緒帝には息子がいません。そこで当時、宮廷で絶大な権力をもっていた西太后は溥儀を皇帝にしようと考えます。

1908年10月20日。溥儀は西太后に謁見。西太后の命令で次の皇帝に決まりました。

1908年11月14日。光緒帝が死去。
1908年11月15日。西太后が死去。

1908年12月2日。溥儀が第12代清朝皇帝(宣統帝)に即位。
3歳(数え歳)で皇帝になりました。

宣統帝の父・醇親王が監国摂政王になって政治を行いました。

1911年10月10日。辛亥革命が起こりました。
袁世凱は孫文らと協力して溥儀を退位させるように要求。

隆裕皇太后は皇族会議を開いて宣統帝 溥儀の退位を決定。

1912年2月12日。宣統帝が退位。清朝は滅亡しました。

しかし中華民国政府との約束により、清朝の皇室は残されることになり。溥儀は紫禁城で暮らしました。

袁世凱の皇帝就任と張勲復辟事件

1515年12月12日。野心家の袁世凱(えん・せいがい)が中華帝国 皇帝に就任。溥儀は皇帝ではなくなりました。

しかし袁世凱の仲間だった北洋軍閥や日本政府などから反発を受け。1516年3月、袁世凱は皇帝を退任。年内に袁世凱は死亡。中華世界は混乱しました。

そのスキに清朝に忠誠心を持っている張勲(ちょう・どう)が溥儀を皇帝にかついで王政復古して政権を取ろうとしました。

1517年7月1日。溥儀は再び皇帝に即位しました。
ところが張勲の政権は仲間割れ。溥儀はわずか12日で皇帝を退任させられます。

ジョンストンと出会い西洋文化に触れる

1919年。清朝皇室はイギリス人のレジナルド・ジョンストンを帝師として招きました。西洋風の教育を受けました。自転車や洋服など西洋の物になじみ。このころ辮髪を止めています。プロテスタントのジョンストンからヘンリー(Henry)という名を与えられました。でも溥儀はキリスト教徒にはならず、欧米人と会うときだけヘンリーを名乗り、中国人相手には使いませんでした。

1922年。正妻の婉容、側室の文繡と結婚しました。

1923年9月1日。日本で関東大震災が起きたことをジョンストンから伝えられると、溥儀は紫禁城の宝石を義援金代わりに日本に送りました。日本では溥儀から贈られた宝石を換金せず皇室で保管。同額の現金を皇室の経費から捻出して溥儀からの義援金にしました。

 

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北京政変・紫禁城を追い出されて天津へ

1924年。中華民国内でクーデター(北京政変)が起こり。中国国内は内乱になりました。北京を占領した「清室優待条件」を廃止。北京を占領した馮玉祥たちによって清朝皇室は紫禁城を追い出されてしまいます。ジョンストンが帝師を退任しました。

イギリスやオランダ公使館に保護を要請するものの拒否されました。

ジョンストンは関東大震災の義援金の件で知り合った芳澤謙吉 特命全権大使に溥儀を受け入れるように相談。芳澤謙吉は溥儀を受け入れ、溥儀たちは北京にある日本公使館に移動しました。

日本政府は溥儀の受け入れが中華民国政府への内政干渉になるのではと恐れて及び腰でしたが。友好国のイギリスとの関係もあり受け入れを決定。溥儀たちは天津の日本租界に移り住みました。租界地は中華民国政府の権限が及ばない治外法権の土地。中国国内では内乱が続いていましたが、日本租界には内乱の影響は及びませんでした。

東陵事件

1928年。国民党の軍閥が乾隆帝や西太后の陵墓を破壊して亡骸が身につけていた衣服や宝物を略奪。溥儀は紫禁城を追い出されたこと以上にショックを受けました。

溥儀は国民党の行いに激怒して復讐を決意。皇帝復帰への思いをさらに強くします。

 

刀妃革命

天津での暮らしでは婉容と文繡は張り合うようになり。溥儀の「我が半生」では二人の買い物を「競争買い」と表現しています。婉容と文繡の喧嘩も増えました。

1931年。文繡は溥儀との生活が嫌になって「離婚」を発表。

側室が皇帝に離縁を要求というかつてない出来事は、新聞を巻き込んで国民的な関心事になりました。この事件を「刀妃革命」と言います。

最終的に溥儀は離婚を認めました。でも皇帝としてのメンツを傷つけられた溥儀は文繡が出ていったのは婉容のせいにしました。婉容との関係も悪化します。

 

皇帝への復帰を目指して日本軍と接触

1931年9月。満洲事変勃発。関東軍(日本陸軍の遼東方面を担当していた部隊)が満洲を占領しました。

満洲を日本領や植民地にすれば国際社会の反発を受けると考えた関東軍は満洲に親日国家の建設を計画。そこで天津で暮らしていた溥儀にめをつけ。満洲に建国する新国家の君主への就任を要請してきました。

関東軍の申し入れは皇帝復帰を目指す溥儀にとっても好都合でした。溥儀は新国家君主の要請を受け入れ、日本軍の手引きで天津を脱出。満洲へ移動します。

 

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満洲国時代

1932年3月1日。「満洲国」建国と元号が「大同」と定められました。新国家建設の計画は関東軍と張景恵たち地元有力者の間で進められ、溥儀には知らされませんでした。

3月9日。溥儀は満州国の君主「執政」に就任。溥儀は「皇帝」でないのが不満でしたが、皇帝は時期尚早と言われ我慢しました。また溥儀は新国家名には「清」か「後清」を希望していましたが「満洲国」になりました。

清朝復活を目指す溥儀の思惑と現実はズレ始めました。

 

3度めの皇帝になる

1934年3月1日。溥儀は念願の「皇帝」になりました。元号が「康徳」になりました。そのため満洲国時代の溥儀は「康徳帝」と呼ばれます。

また溥儀が皇帝になったので「満州帝国」と呼ばれるようになりました。

即位式の前には清朝伝統の「告天礼」が行われ溥儀は清朝皇帝の着る龍袍を着用しました。満洲国政府関係者は困惑しました。

しかし溥儀は皇帝とはいっても権限が限られてていました。大臣の任命権はありますが。それ以下の人事権は関東軍が権限を持っていました。常に関東軍から派遣された将校が溥儀に付き添い、溥儀の行動や発言には彼らから注文がつきました。満洲国軍も設立されましたが。関東軍の支配下にありました。

関東軍は日本政府や日本陸軍の思惑を超えてさらに介入を続け、満洲国は独立国とはいえない有様でした。

もともと関東軍は日本政府や軍の方針を無視して独断専行で行動することの多かったのですが。関東軍の傀儡になっている満洲国の有様に日本国内で反発が起こります。関東軍を止められず曖昧な態度を取り続ける日本政府にも不満は向けられます。

1935年。溥儀は日本を公式訪問しました。溥儀は日本では大変な歓迎を受け、追っかけが出るほどの騒ぎになりました。溥儀は歳の近い君主の昭和天皇には親近感を持っていたといいます(溥儀は昭和天皇の5歳年下)。

 

支那事変(日中戦争)

1937年7月7日。盧溝橋で日本軍と中華民国軍が武力衝突。支那事変が勃発します。

国民党と共産党は同盟。アメリカやソビエトも国民党を援助。中華民国と日本軍は戦争に突入しました。といっても日本軍と戦っているのは主に国民党軍です。

満州国内にいた日本軍は南部に移動しましたが満洲国は満州国内にとどまり、国内の防衛に専念しました。そのため満州国には直接は日中戦争の戦禍は及んでいません。溥儀は日中戦争についてはあまり発言をしていません。

その間、溥儀は2度めの日本訪問。伊勢神宮も訪問しています。

第二次世界大戦

1941年12月7日。日本とアメリカが開戦。太平洋戦争が始まりました。

満州国は宣戦布告は行わず。日ソ中立条約があるので日本の同盟国の満洲国にはソ連軍の攻撃もなく。戦争には関わってませんが。国民党軍や共産党軍のゲリラが侵入。散発的な戦闘はありました。

1944年ごろになると日本の敗色が濃厚になり。満洲国内の農作物は日本に輸出されたり南方戦線に送られたりして物資が不足するようになります。

1945年になると工業地帯や軍の施設が中華民国経由で飛んでくるアメリカ軍の空襲を受けるようになりました。

ソビエト軍侵攻

1945年8月8日。ソ連は日ソ中立条約を破り日本に宣戦布告。ソ連軍が満洲国に攻めてきました。満洲国には宣戦布告せず、満洲国内の日本軍を叩くという名目ですが実際は大規模な満洲国への侵攻です。もともと装備の貧弱な満州国軍や日本軍はソ連軍になすすべなく敗退。満洲国内は大混乱になり大きな被害が出ます。

1945年8月10日。溥儀と満洲国閣僚は首都・新京を放棄。朝鮮との国境に近い通化省臨江県の大栗子に移動しました。

1945年8月15日。日本が降伏。

1945年8月17日。満洲国解体を決定。

1945年8月18日未明。溥儀は大栗子で満洲国の解散を宣言。満洲国皇帝を退位しました。

日本政府から亡命を打診された溥儀は亡命を決意。奉天の飛行場から日本に向かう予定でした。溥儀と弟の溥傑たちが奉天で日本軍機を待っているとソ連軍が侵攻。溥儀はソ連軍に捕らえられてしまいます。

皇后の婉容や浩(溥傑の妻)たちは飛行機には乗れず陸路経由で日本に向かうことになっていましたが、移動もままならず取り残されていた所に八路軍(中国共産党軍)が攻めてきて捕虜になってしまいます。

ソビエト連邦での扱い

溥儀たちはソ連の強制収容所にに抑留されました。中華民国への引き渡しを恐れた溥儀はソ連共産党への入党とソ連での永住を希望しますが却下されます。

1946年。東京裁判が行われ。溥儀はソ連から連合軍に有利な発言を強制され。「私は日本の傀儡」「本当はやりたくなかったが強制された」「日本は満洲を植民地化しようとした」「妻は日本に毒殺された」「責任は全て日本にある」などと興奮しながら発言。溥儀の発言は感情的だったため信憑性は低いと判断されました。

晩年。溥儀は東京裁判での発言について「あのときの証言を思い返すと残念に思う。私は処分されるのを恐れて自分の罪業を隠した。歴史の真相について秘匿してしまった」と振り返っています。

ソ連抑留中に中国共産党軍にとらわれていた正妻の婉容が死去したことを知らされましたがとくに関心は示さず。後に「思い出すのはアヘンを吸っていたことと、許せない行いをしたことだけだ」と回想してます。許せない行いとは侍従と不倫して子を儲けたことと思われます。

中華人民共和国での扱い

囚人扱いされて洗脳(再教育)を受ける

1950年。溥儀の身柄は中華人民共和国に引き渡されました。

中華人民共和国では裁判は行われず一方的に「戦犯」扱いされました(ただし溥儀が敵対していたのは国民党の中華民国)。

溥儀は弟の溥傑や他の日本兵とともに収容所に入れられ囚人として扱われました。

そして徹底した再教育という名の「洗脳」が行われ共産党に忠誠を誓わされます。

共産党にとって清朝と満洲国の皇帝の溥儀は目玉商品。思想改造(洗脳)して共産党の支配下におくのは共産党の凄さを見せつけるためにも重要でした。

溥儀は大人しく従っていたものの、自分で着替えたり靴を履くことができないなど。一般人としての生活力のなさにはまわりの囚人からも不満が出ました。

1959年釈放。市民体験の一環として動植物園の庭師を一時的に務めました。

中国共産党の一員になる

その後は中国共産党の指示で全国政治協商会議の文史研究委員会専門委員になりました。

しかし文化大革命で反乱分子あつかいされ。癌を患っていましたが満足な治療を受けられませんでした。闘病生活の後、死去。

1962年。一般人の李淑賢と結婚。

その後。周恩来のはからいで満洲族代表として政協全国委員(国会議員みたいなもの)のメンバーになりました。毛沢東と違い、教養のある周恩来は元皇帝の溥儀にはそれなりの同情心はもっていたといわれます。

晩年。溥儀は癌になりました。溥儀は政協全国委員という要職でしたが入院させてくれる病院はありません。

当時は文化大革命の真っ最中。過激派が滅茶苦茶に王朝時代や西洋の物を攻撃破壊・殺人をしている時代でした。元皇族が入院しているというだけで紅衛兵(毛沢東を支持する過激派)に襲撃されるかもしれないと病院側が恐れたのです。

ようやく周恩来によって病院が手配され溥儀は入院しました。ところが紅衛兵が病院に乱入、病院は治療をしませんでした。

周恩来はその報告を受けると溥儀を治療するよう病院に指示を出しましたが、時すでに遅く。

1967年10月17日。溥儀は北京の病院で亡くなりました。享年61歳。

最後に食べたいものはと聞かれて溥儀は「チキンラーメン」と答えたといいます。

溥儀が最後に食べたいと望んだのは清朝の豪華な食事でもなく、中華料理でもなく日本のインスタントラーメン。いったいどういう心境だったのでしょうか。

 

映画「ラスト・エンペラー」でその生涯が描かれ有名になりましたが脚色されているので事実と違う部分もあります。「市民として暮らし植物園の庭師として死亡した」というのは間違いです。

 

テレビドラマ

映画

火龍 1986年、中国・ 香港 演:レオン・カーフェイ。
ラストエンペラー(The last Emperor) 1987年、伊・中・英・仏・米 合作。 演:ジョン・ローン
末代皇后 1987年、香港 演:姜文

 

ドラマ

流転の王妃・最後の皇弟 2003年、日本 演:王伯昭
走向共和 2003年、中国 演:王培文
李香蘭  2004年、日本 演:王偉華
男装の麗人—川島芳子の生涯 2008年、日本 演:高島政伸
末代皇妃  2014年、中国 演:李亜鵬
金枝慾孽貳 2012年、香港 演:曹啓謙
末代皇帝傳奇 2014年、中国 演:陳鴻錦/余少群/趙文瑄
東方戦場 2014年、 中国 演:張魯一
巾幗梟雄之諜血長天 2016年、香港 演:朱敏瀚

 

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