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ヌルハチ(2) 後金の建国とサルフの戦い

後金 1.1 清の皇帝

ヌルハチは後金(アイシングルン)の建国者。

1616年。ヌルハチは後金を建国。

八旗制度や満洲文字の作成。さまままな制度をとりいれて。部族社会だったジュシェン人(女直、女真)の社会をハンを中心にした王朝に作り変えていきました。

そして明に宣戦布告します。

明もヌルハチに敵対するイェヘ(葉赫)や朝鮮によびかけ兵を出させ。
公式発表では47万(実際に集まったのは12万~16万)の大軍で後金に攻めてきました。

ヌルハチは後金の建国以来最大の危機を迎えました。

 

後金建国までのいきさつはこちら。

・ヌルハチ、挙兵から後金の建国まで

 

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後金の建国

1616年(天命元年)。ヘトゥアラでゲンギュン・ハン(英明汗)を名乗りました。ベイレたちから推される形でのハンへの即位です。

国号を「金(アイシン)」にしました。かつて女真の完顔部(ワンヤン、ワンギャンとも)のアクダ(阿骨打)が建国した金国と区別するため。歴史上は「後金」とよばれます。

「金」は主に外国との交渉で使い、国内では「マンジュ」の国名も使い続けました。金とマンジュの二つの国名が存在していました。

グサ制度を改良して八旗制度を創設。配下のジュシェン人を8つの軍団にまとめました。

またこのころモンゴル文字を改良してマンジュ文字が作られました。

こうしてマンジュの人々をまとめ、新しい組織を作ったヌルハチでしたが。食糧問題は深刻でした。

そこで、農地を広げ収穫量を増やすため明側への領土を拡大。マンジュを統一するためには残るイェヘ部を征服しなければいけませんが。明がイェヘ部を援助しているので明とイェヘ部の連携を断たないといけません。

そこでヌルハチは明と戦う決意を固めます。そこでホンタイジの提案した作戦を採用して撫順を占領することにしました。

決起前の天命3年(1618年)4月13日。ヌルハチは「七大恨」をかかげ明に宣戦布告しました。

七大恨(しちだいこん)

そのときのヌルハチの檄文は「七大恨」とよばれます。

第一の恨み。明は、理由もなくわが父や祖父を殺した。
第ニの恨み。明は、互いに国境を超えないと誓った約束を破った。
第三の恨み。明は、誓いを破った越境者を処刑した報復に、我が使者を殺し威嚇した。
第四の恨み。明は、われとイェヘ部の娘との結婚を妨げ、その娘をモンゴルに与えた。
第五の恨み。明は、国境近くでわが女直の民が作った穀物を収穫させず、軍で追い払った。
第六の恨み。明は、悪辣なイェヘ部族を信用して、われらを侮辱した。
第七の恨み。明は、天の公平な裁きにそむき、悪を善、善を悪とする不公平をおかした。(イェヘ部を助けた)

数を吉数の「7」にあわせるためか重複した内容も含まれます。

撫順の戦い

4月15日。撫順で馬市が開かれる日にあわせてヌルハチは800の兵を商人に変装させて街に潜入させ。ホンタイジ率いる5000の兵が襲撃。撫順の街を内と外から攻めました。撫順を守る明の将軍・李永芳は勝てないと判断して降伏。抵抗を続ける明の部隊もいましたが。ヌルハチの援軍が到着する前に撫順が陥落しました。さらにやってきた明の援軍も撃退しました。

撫順があっけなく陥落したので明の朝廷は衝撃を受けました。

サルフの戦い

戦いの準備

ここにきて明はヌルハチの勢力をもう放置できないと判断。大軍を送りヌルハチの討伐を決定しました。

明は海西女直(フルングルン)で唯一ヌルハチに抵抗していたイェヘ(葉赫)部と朝鮮にも出兵を要求。

もともとヌルハチと争っていたイェヘ部は派兵を決定。

明と後金の間で中立をたもっていた朝鮮の光海君は明の出兵を断ろうとしました。でも朝鮮の重臣たちは「文禄・慶長の役」で明に助けてもらった「恩」があるので出兵すべきと譲らず、光海君は都元帥の姜弘立を派遣することにしました。

天命4年(1619年)。明はイェヘ部、朝鮮の兵を集めて16万あまり(自称47万)の大軍で後金に攻め込みました。対抗する後金軍は8旗軍(最大でも6万)を総動員して迎え撃ちます。

 

満洲

ヘトゥアラとサルフの位置

後金軍

ヌルハチは八旗軍をすべて動員。
このような編成で挑みました。
ヌルハチ:正黄旗、鑲黄旗
ダイシャン:正紅旗、鑲紅旗
ホンタイジ:正白旗
ドゥドゥ:鑲白旗
マングルタイ:正藍旗
アミン:鑲藍旗

このときの八旗の定数は6万(7500✕8)。6万は八旗に所属する青年男子の数。実際に戦闘に参加するはこの一部。作戦によって参加する兵の数は変わります。千人あまりの騎馬隊を編成して様々に組み合わせて作戦を行っていました。

この時期の後金は銃などの火器は装備していません。後金軍は騎馬隊が主力。飛び道具は騎馬からの短弓による射撃(騎射)です。

明軍

総司令は楊鎬(よう・こう)

47万と号する軍を編成。中国の記録で「号する」といった場合、書類に書かれている部隊の数を合計した数字。書類に書いてある部隊がすべて実在して定員100%集まればこのくらい。という架空の数字です。実際に集まる数はもっと少ないです。ハッタリで多く言いふらしていることもあります。このときも47万と号していますが出陣したのは12~16万の兵力だったといわれます。中国の記録は書類上のトリックが多いので注意が必要です。

明は軍を4つに分けて4方向から後金の首都ヘトゥアラ(興京)を目指しました。

左翼中路軍(本隊):杜松(3万)
左翼北路軍:馬林(3万)、イェヘ部:ブヤング、ギンタイシ(1万)。
東路軍:杜松(3万)
右中路軍:李如柏(2万5千) 
右翼南路軍:劉綎 (1万)、朝鮮: 姜弘立(1万)

明軍はスペイン・ポルトガル式火縄銃、露密銃(オスマン帝国式火縄銃)、鳥銃(日本式火縄銃)を装備。ヨーロッパから購入した様々な種類の大砲も装備していました。
朝鮮軍も鳥銃(日本式火縄銃、先の戦争で日本から捕獲した火縄銃を使用)を装備。

明と朝鮮は、朝鮮半島での日本との戦闘で火縄銃を集中して使った軍隊の強さを実感。火縄銃を大量に装備した部隊を編成しました。明は大砲も用意して後金との戦いに挑みました。鉄砲を持たない騎馬隊中心の後金軍を圧倒できるはずでした。

サルフの戦い

サルフの戦い

ヌルハチは明の大軍を相手に一度に相手するのは不利と考え。騎馬軍団の機動力を生かして臨機応変に出動して敵部隊を個別に叩く作戦をとりました。

明軍は積雪で進軍が遅れました。一番早く到着したのが本隊の杜松軍。

3月1日。杜松軍がサルフ山近郊に到着。

サルフ山と川を挟んで対岸のジャイフィアン山には後金は陣地を作りつつありました。それを見た杜松は他の部隊が来るのを待たずに進軍を開始。

明軍が来たことを知るとヌルハチはその部隊が明の主力だと判断。八旗全軍を率いて出動して杜松軍を叩きました。杜松軍は後金軍の予想外の動きについていけず不意を突かれて壊滅。将軍の杜松以下主な武将が戦死しました。翌日、遅れてやってきた2千の部隊も全滅させました。

シャンギャンハダの戦い

北路の馬林・イェヘ軍は杜松と合流するため進軍していました。

3月2日。杜松軍の壊滅を知ると馬林はジャンギャンハダという場所で塹壕を掘り火砲を準備しました。そこにヌルハチ指揮する八旗が襲撃。乱戦になって火砲の火力を活かせないまま壊滅。馬林軍の壊滅を知ったイェヘ軍は逃走しました。

アブダリ・フチャの戦い

3月2日。南からやってきた劉綎軍は後金の守備隊と戦って勝利。更に北に進んでいました。

ところが、北路・西路の敗戦を知った総司令の楊鎬は李如柏と劉綎に撤退を命令。

もともと遅れていた李如柏軍は撤退。先に進んでいた劉綎軍には撤退命令が届きませんでした。

3月4日。アブダリの付近でダイシャン軍が北上中の劉綎軍と遭遇。劉綎軍が陣地をつくるとダイシャンはホンタイジ、ヌルハチ配下のフルハンとともに劉綎軍を三方向から包囲して攻めて明軍を壊滅させました。この戦いで劉綎は戦死しました。

そのころ。進軍の遅れていた朝鮮軍はフチャという所にいました。朝鮮軍は鳥銃を装備していましたが、風で砂埃が舞い上がったときにダイシャンが朝鮮軍に突撃。火縄銃の火力を活かせないまま朝鮮軍の半数ほどが失われました。ダイシャンは残った朝鮮軍に投降を呼びかけ。朝鮮軍は降伏。姜弘立たちは捕虜になりました。

韓国ドラマ「華政(ファジョン)」の中盤で描かれる朝鮮軍と後金の戦闘が「フチャの戦い」です(実際にはドラマほど朝鮮軍は活躍してません)。

李如柏はアブダリ・フチャで最後の部隊が敗北したことを知ると自害しました。残った軍は撤退しました。

この戦いで明軍は16万のうち4万6千が戦死。
後金の損失は6万のうち2千だったといいます。

明軍の武将は仲が悪く、功を焦って先に行ったり、いがみあっていて連携がとれていませんでした。また火力に頼りすぎた編成のため移動速度が遅く、急な戦闘や乱戦になった場合に対応できないという難点がありました。明軍は有力な将兵を失いこのあと後金との戦いでは防戦一方になります。

建国して間もない後金はひとまず滅亡の危機は去りました。

しかしヌルハチにはまだジュシェン(女真)統一の夢が残っていました。

 

 

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