PR

ヌルハチ、挙兵から後金の建国まで

後金 1.1 清の皇帝

ヌルハチは後金(アイシングルン)の建国者。

「後金」は ホンタイジの時代に国名を 大清(ダイチン)に変えました。だからヌルハチは大清帝国(清朝)の実質的な建国者で大清帝国の初代皇帝といわれます。

ヌルハチはマンチュリア(満洲地方)にいた狩猟民族のジュシェン人の部族長でした。

ジュシェンは元や明の記録では「女直」、宋や朝鮮の記録では「女真」と書かれます。でも彼らは漢字を使いません。彼らは自分たちを「ジュシェン」とよんでいました。「女真」や「女直」はその発音を聞いた他の民族が漢字を当てはめたものです。

ジュシェン人はまとまった国をもたず部族ごとに暮らしていました。その一部族長にすぎないヌルハチがどうして自分の王朝を作ることができたのでしょうか?

史実のヌルハチはどんな人物だったのか紹介します。

 

PR

ヌルハチ の史実

いつの時代の人?

生年月日:1559年2月21日
没年月日:1626年9月30日

姓 :ギョロ→アイシンギョロ(愛新覚羅)氏
名称:ヌルハチ
ヌルハチが生きた時代は漢字を使っていませんでした。
漢字では「努爾哈赤」と書くことが多いようです。

国:マンジュ国→後金
地位:アイシン国ハン(王)
廟号:太祖

父:タクシ
母:エメチ(顕祖宣皇后)

異母弟:ムルハチ、シュルハチ、ヤルハチ

妻:トゥンギャ氏
グンダイ
アバハイ

子供:15男7女
八男ホンタイジ
十四男ドルゴンなど

彼はアイシン国(後金)の建国者です。

日本では戦国時代から江戸時代になります。

ヌルハチの生涯は清朝で編纂された漢文の「満洲実録」に載っています。日本では「満洲実録」の内容をもとに紹介されることが多かったです。清朝時代に満洲語で書かれた「先ゲンギュン・ハン賢行典例」(以下、賢行典例)を翻訳したものが近年日本で紹介されるようになりました。そちらの内容も合わせて紹介します。

おいたち

1559年(明の年号で嘉靖38年)

マンジュ(建州女直)のヘトゥアラ(現在の中国遼寧省撫順市)で生まれました。

当時のジュシェン人(明の記録では女直、朝鮮の記録では女真)が住んでいたのは以下の地域です。

満洲

当時のマンジュは5つの部族がいました。まとまりはありません。

ヌルハチの祖父ギオチャンガはスクスフ部の東半分を勢力範囲におさめる領主(ニングタ・ベイレ)でした。

父タクシはギオチャンガの四男。タクシも有力な領主でした。

ヌルハチはタクシの長男として生まれました。

母はヒタラ氏のエメチ。

ヌルハチは頭がよく満洲語・モンゴル語・漢語ができました。武術が好きでした。よく働いたので両親からも可愛がられました。

三国志を愛読したヌルハチ

ジュシェン人~満洲人は「三国志演義」が大好きです。「三国志演義」は元の時代に作られた小説です。史実ではありませんが歴史書よりも面白いです。日本人も「三国志=三国志演義」というくらい好きです。満洲人も難しい歴史書より人情や義兄弟が活躍する英雄物語の方が親しみやすかったのでしょう。日本人と似ています。

ヌルハチ時代には満洲語版の「三国志演義」が読まれていました。日本語版「三国志演義」が読まれるようになったのは5代将軍綱吉の元禄時代ですから。家康と同世代のヌルハチが読んでいたのは驚きです。もっとも日本には歴史書の「三国志(正史)」が遣隋使・遣唐使の時代に入ってきていたので曹操や孔明の活躍を知っている人はいます。

ヌルハチも「三国志演義」や「水滸伝」を読んでいました。ヌルハチが漢文の知識を得たのは李成梁に仕えるようになってからといわれます。漢字の書物に親しんだのは十代、二十代のころでしょう。ヌルハチが完璧に漢文を理解できたかどうかはわかりません。漢文が読める人が翻訳した満洲語版の三国志演義もあったようなので若い頃はそちらを読んでいたのかもしれません。

若い頃のヌルハチは物語を読んで戦いの知識を得たり、自分の国を作りたいと思ったのかもしれません。

ヌルハチが10歳のとき母のエメチが死亡しました。

父タクシはナラ氏のコンジェルと再婚。

ヌルハチは継母のコンジェルとはうまくいきません。

結婚と独立

16歳の時、トゥンギャ氏と結婚。
「満洲実録」では19歳で結婚と書かれています。でも「賢行典例」では16歳で結婚になっています。結婚が決まったのが16歳で独立したのが19歳だったのかもしれません。

19歳で独立しました。
当時の狩猟・遊牧民の習慣では子は成人すると親から財産をもらって独立しました。財産の生前贈与です。

ところがヌルハチが与えられた財産は少なく、家族や使用人を養っていくのに苦労しました。行商や鷹狩(獲物は販売する)をして生計をたてていました。

ジュシェン戦国時代に名乗りをあげる

1583年。25歳のとき。

アタイ(阿台)の城を明の遼東鎮総兵官・李成梁(り・せいりょう)が攻めました。アタイはマンジュ(建州女直)の支配者だった王杲の息子でした。王杲は明の役人を殺したり地元の人々を苦しめていました。王杲は明に討たれましたが、王杲の子のアタイ(阿台)が生き延びて挙兵。そこで李成梁の軍とマンジュの人々が協力してアタイを討つことになったのです。

ヌルハチの祖父ギオチャンガと父タクシもアタイ討伐に参加しました。アタイの妻はギオチャンガの孫(ヌルハチのいとこ)だったので、ギオチャンガとタクシはアタイを説得しようと城に入って行きました。

ところが、マンジュのニライ・ワイランという者が李成梁をそそのかして祖父ギオチャンガと父タクシを殺害してしまいます。

ニライ・ワイランはスクスフ部のベイレ(王)になりました。

怒ったヌルハチは李成梁に「祖父と父は孫娘を助けたかっただけです。明に背いたことはありません」と抗議しました。李成梁は二人を殺したのが間違いだったと認めました。

李成梁は祖父と父の遺体と30(20の説もあります)の勅書と30頭の馬をヌルハチに届けました。勅書は交易の許可書です。許可書がたくさんあるとそれだけ多くの商いができるのです。当時のジュシェンでは狩猟採集で得た毛皮や薬用人参を明に売って稼ぐのが流行っていました。明は商売の権利書を発行してジュシェン人を手なづけていたのです。

ところがヌルハチの怒りは収まりません。ヌルハチは挙兵しました。

ヌルハチは明朝を打倒するために挙兵したのではありません。ジュシェン人同士の領地争いのため挙兵したのです。

16世紀末から17世紀最初のジュシェン人には王朝はありません。それでも「自分たちは漢人やモンゴル人、朝鮮人とは違う言葉を話す者、その集まりがジュシェンだ」というおおまかな認識はありました。ジュシェンには過去にハン(君主)がいた(金朝のこと)。今はハンがいないので他の民族の支配を受けている。という知識もありました。

漠然とした人の集団としてのジュシェンはあってもひとつにまとまるつもりはありません。それぞれの部族に主がいて、お互いに攻め合い大いに乱れていたと「満洲実録」は書いています。地域で地縁や血縁で集団を作り勢力争いをしている。ジュシェン戦国時代でした。

父や祖父を失ったヌルハチは自分の力で家族や家臣を養い生きていかなくてはなりません。ジュシェン戦国時代のいち領主として出発したのです。

ヌルハチはギョロ(覚羅)氏の一族でした。でも傍流の家です。分家にすぎないヌルハチが一族の長になって「ベイレ」を名乗っているのが気に入らない人たちもいました。

そのため挙兵したヌルハチには十数騎の手勢しかいませんでした。

ところが戦いに優れたヌルハチは快進撃。

そのヌルハチを支援したのが明の遼東鎮総兵官・李成梁。

李成梁はジュシェンの事情に詳しくギオチャンガの代から親交がありました。部族ごとにバラバラだと戦力として使いものになりません。李成梁は最初はハダ部にジュシェンをまとめさせようとしました。でもハダ部は内輪もめばかりします。そこで李成梁はハダ部に見切りをつけてヌルハチに建州女直をまとめさせ、それを利用しようと考えたのです。

1586年。ヌルハチはニライ・ワンランの居城を攻めて捉え、斬首しました。

 

PR

マンジュグルン建国

1587年。ヌルハチははじめての居城フェアラを築城。

1589年。ヌルハチはマンジュ五部を統一しました。

ヌルハチは明から「建州左衛都督」の地位を与えられました。李成梁の働きかけがあったともいわれます。明との交易利権も大幅増加。交易で財を増やしたヌルハチは武器を購入。軍を強化しました。

ヌルハチの弟シュルガチには「右衛都督」の地位を与えられ、ヌルハチを補佐しました。

ヌルハチ兄弟が家臣団を率い、マンジュの部族を従える体制ができました。

マンジュグルンの誕生です。(グルン=国)

李成梁もヌルハチの勢力拡大を認めていました。ヌルハチは李成梁に貢物を贈ってごきげんをとっていたので李成梁は油断していました。

フルンとの対立

マンジュ(建州女直)を統一したヌルハチの次の目標はフルングルン(西海女直)でした。フルングルンはウラ・イェヘ・ホイファ・ハダの4つの部族の連合体。同盟のようなものでマンジュグルンのように一つにまとまってはいません。フルン四国とも書きます。

フルングルンの首長ナリンブルがヌルハチに服従を求めました。ジュシェン人の中ではフルンが名門。マンジュは田舎者と思われていたのです。

ヌルハチは服従を拒否。フルン攻略にとりかかります。

ジュシェンと日本軍との戦闘(文禄・慶長の役)

ところが1592年4月。朝鮮半島に日本軍が上陸。

1592~98年の間。朝鮮半島で日本軍と明・朝鮮軍が戦いました(文禄・慶長の役)。

1592年7~8月。加藤清正が率いる日本軍は豆満江(トゥメン江)を超えジュシェン人の城を占領しました。翌日、ジュシェン兵が反撃して日本軍を撤退させました。

加藤清正は豊臣秀吉に「オランカイ(満洲)は朝鮮の倍ほどの広さ。オランカイから明に入るにはモンゴルを通らねばならず、無理」「畑ばかりで秤量米が手に入る見込みはない」「守護のような統治者がおらず伊賀者・甲賀者(現代人が考える忍者ではなく、砦を作り武装した半武士半農民の集団、伊賀武士・甲賀武士のこと)のように砦をかまえ、まるで一揆国のようだ」と報告しました。

加藤清正は領土を占領するのが目的ではなく、明に入るルートを探していました。

当時の日本人は満洲地方とその土地の人々をオランカイと呼んでいました。朝鮮人が「野蛮人」という意味で ジュシェン人を兀良哈(オランケ)と呼んでいたからです。

でも、豆満江(トゥメン江)の周辺は野人女直(ワルカ部?)の地域。ヌルハチは加藤清正とは戦っていないようです。

9月。ヌルハチは朝貢馬匹的貿易(貿易が主目的の朝貢、モンゴル・オイラトが馬を大量に売りに来るのでこの名がつきました。ヌルハチが売っていたのは毛皮や人参)のため明に行きました。そのとき「日本軍が朝鮮に上陸して建州女直や西海女直と交戦した」と聞きました。

ヌルハチはジュシェンが攻撃されたので怒っていたのでしょう。ヌルハチは明の兵部尚書・石星(せき・せい)に手紙を書きました。

その内容は「建州衛部(ヌルハチは明から建州左衛都督の役職をもらっている)には3~4万の馬と4~5万の兵がいます。皆精鋭で戦いなれています。朝鮮に倭軍が侵入したと聞きました。皇朝(明)のため倭奴(日本軍)征殺に尽力します」というもの。

でも、明は「ヌルハチは日本といっしょになって西海(フルン四国)を攻撃するつもりではないか」と考え。

朝鮮王の宣祖や大臣の 柳成龍(リュ・ソンニョン)も「狼を呼び込むようなものだ」とヌルハチの協力を拒否しました。

もしヌルハチが加藤清正ら日本軍と戦っていたらどうなっていたでしょうか?歴史が変わっていたかもしれません。

フルン四国との戦い

ヌルハチは朝鮮半島に出兵する必要もなくなり、フルン攻略に全力を注ぐことにしました。

日本との戦いで忙しかった明はジュシェンの争いにあまり介入する余裕がありません。

1593年。フルン四国はモンゴルのホルチン部と同盟。3万の大軍でマンジュ国を取り囲み攻撃してきました。

ところがヌルハチはフルンとモンゴルの連合軍を撃破。戦いに勝ちました。

この勝利でマンジュとフルンの力関係が逆転します。

1599年。ヌルハチはフルンのハダ部に攻め込んで攻略。

このころヌルハチはそれまでの部族的な組織を改革してグサ制度を作りました。部族ごとにバラバラだったマンジュの兵や領民を4つに分けて組織的に運用できるようにしたのです。後の八旗制の元になった制度です。

1606年。モンゴルのハルハ部から、ヌルハチに「クンドゥレン・ハン(恭敬汗)」の称号が与えられました。モンゴルもヌルハチを手強い勢力と思い始めたのです。

ジュシェン人は経済的には明と結びつきが強いですが、文化面ではモンゴルの影響を強く受けています。普段使用する文字もモンゴル文字です。この時代にも元朝は存在しています。遊牧・狩猟民社会では正当なモンゴル王家から称号を与えられるのは名誉なことでした。これ以降、ヌルハチは「ハン(君主)」を名乗ります。

1607年。ホイファ部の内乱につけこんでホイファ部を制圧。

朝鮮半島での戦争が終わり一息ついていた明ですが。このころになってようやくヌルハチの勢力拡大に危機感をもちました。

1608年。ヌルハチに友好的だった李成梁が失脚。処分理由は汚職です。

明はイェヘ部を援助。ヌルハチに対抗させようとします。

しかし内乱や戦争で疲弊した明にヌルハチを止める力は残っていませんでした。

シュルガチとの確執

ヌルハチの弟・シュルガチはヌルハチの片腕として軍を率いて勢力拡大に貢献していました。

ところがシュルガチはヌルハチがしだいに王としてふるまうようになるのが気に入りません。またヌルハチも自分の思い通りにならないシュルガチが疎ましくなります。

1607年。シュルガチは3人の息子と共謀してイェヘ部と密通、明に近づこうとしました。それを知ったヌルハチはシュルガチの財産を没収、2人の息子を処刑しました。シュルガチは謝罪。ヌルハチは一度は許しました。

その後、シュルガチがヌルハチへの不満を言っていると知り、シュルガチを幽閉。1609年にシュルガチは死亡しました。

ヌルハチに友好的だった李成梁がいなくなり、明はヌルハチと対立するようになりました。明との貿易で利益を得ていたヌルハチにとっては死活問題です。

明に対抗するためにもシュルガチが持っていた指揮権をヌルハチのものにして、マンジュを強力な組織にしなければいけません。

こうしてヌルハチは強力な王が統治する国造りを目指します。

この前後。ヌルハチは自分の姓を「ギョロ」から「アイシンギョロ(愛新覚羅)」に変えました。

1613年。ヌルハチはウラ部を制圧。フルン4部のうちハダ・ホイファ・ウラがヌルハチの配下になりました。残るはイェヘ部だけです。

こうしてマンジュの人々をまとめ、新しい組織を作ったヌルハチはいよいよイェヘ部とそれを援助する明と戦う決意を固めます。

 

黄金の一族・アイシンギョロ(愛新覚羅)

「アイシン」の意味は「金」。金国の金です。ギョロ(覚羅)は出身地の地名です。

モンゴルなど遊牧民の王家が「黄金の一族」と呼ばれていたのも意識したでしょう。「金」を意味する姓を名乗るのは遊牧民にとってステータスなのです。

アイシンギョロ(愛新覚羅)を名乗ることができるのはヌルハチと兄弟、その子孫だけです。ヌルハチは「アイシンギョロ」を名乗ることで他のギョロ一族とは違う王族としての地位をはっきりさせました。日本の「徳川」と「松平」の違いに似ています。

 

 

 

 

 

続きはこちら
・ヌルハチ(2) 後金国の建国とサルフの戦い

 

TVドラマのヌルハチ

王の顔 2015年、韓国KBS 演:宋英奎
皇后の記 2015年、中国 演:于榮光
孤高の皇妃 2017年、中国 演:景崗山
王家の愛 2018年、中国 演:徐少強

ホンタイジやドルゴンの父。朝鮮に攻めてくる後金の王として描かれることが多いです。

 

参考文献

・石橋崇雄、”大清帝国への道”、講談社学術文庫。
・杉山清彦、”大清帝国の形成と八旗制”、名古屋大学出版会。

 

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました