康煕帝が倒れて雍正帝が即位するまでのいきさつ

大清1.1 清の皇帝

大清帝国4代皇帝康煕帝から雍正帝の時代は様々な出来事がありました。

皇位継承問題もおきました。中国では有名な事件なので何度もドラマになっています。「宮廷女官 若曦」「花散る宮廷の女たち」「宮廷の茗薇」など日本でもおなじみのドラマのネタにもなりました。

ドラマなんかでは康熙帝から雍正帝の時代に移り変わる途中でよく事件がおこります。四皇子胤禛と八皇子胤禩、十四皇子胤禵のトラブルがあるように描かれます。日本で発売されている清朝の本を見ても虚実ふくめていろいろあったように書かれています。

でも実際はどうだったのでしょうか?

康煕帝が倒れてから雍正帝が即位するまでを「清実録」から再現してみましょう。「清実録」は清朝時代に書かれた記録。皇帝一代ごとにいつ何があったかを記録したものです。一般的に清朝時代の参考にされる「清史稿」よりも詳しいです。もちろん「清実録」がすべて正しいとは限りません。

でも記録にはどのように書かれてているのか知っておいて、そのうえで記録とドラマとの違いを比べてみるのも面白いです。

ドラマとは一味違う、歴史の記録にある康熙帝の死から雍正帝即位までを紹介します。

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康煕帝が倒れてから雍正帝に引き継がれるまで

離宮の暢春園にいた康煕帝の体調が悪くなる

康熙61年11月7日(西暦1722年12月14日)

暢春園(ちょうしゅんえん)の離宮に滞在していた康煕帝は体調が悪くなりました。暢春園は紫禁城から南西約15kmの所にある離宮です。

康熙61年11月9日(12月16日)

明・清では旧暦11月の冬至の日に天壇で天の神を祀る儀式が行われていました。この儀式は皇帝が行わなくてはいけません。康煕帝も毎年行っていました。

ところがこのとき康煕帝の体調が悪く儀式ができそうにありません。康煕帝は四皇子胤禛を呼んで代わりに儀式を行うように命令しました。

胤禛は康煕帝のそばにいて看病したいと言いました。

康煕帝は「天の神を祀ることは何よりも大事なこと。儀式を行うには誠意と厳格さが必要だ。それが私への礼儀を示すことだ」と言って胤禛を送り出しました。

胤禛は齋所に行って儀式の準備に取りかかりました。この儀式がけっこう大変で準備に時間がかかります。

胤禛は12月17、18、19日と3日続けて暢春園に使者を送りました。康熙帝の容態は安定しているとの報告でした。

康熙61年11月13日(1722年12月20日)運命の日

丑刻(午前1時~午前3時ごろ)

康煕帝の容態が悪化。天壇で儀式を行っていた皇四子胤禛に使者が派遣されました。

でも康煕帝のいる暢春園と天壇の距離は約20km。自動車のない時代ですからすぐには到着できません。

寅刻(午前3時~午前5時ごろ)

三皇子 誠親王 胤祉、七皇子 淳郡王 胤祐、八皇子 貝勒 胤禩、九皇子 貝子 胤禟、十皇子 敦郡王 胤䄉、十二皇子 貝子 胤祹、十三皇子 胤祥、そして理藩院尚書 隆科多(ロンコド)が集められ、康熙帝の寝所に呼ばれました。

そして大臣の隆科多(ロンコド)が康熙帝の遺言を受け取りました。

その場で隆科多(ロンコド)が康熙帝の遺言を発表しました。

その内容は「雍親王 皇四子 胤禛は人格が立派で、親孝行で、皇帝を継承する能力がある。皇帝位を継ぎなさい」というものでした。

胤禛が後継者に選ばれたのです。

その後、天壇で儀式をしていた 四皇子 胤禛も到着しました。
使者から連絡を聞いて儀式を中断、他の者に引き継ぎしてきたので他の皇子より時間がかかったようです。

他の記録にはこのとき胤禛と九皇子 胤禟が口論になる場面も記録されています。

でもその場では他の皇子もしぶしぶ従ってるようです。武力を使った衝突までは起きていません。

巳刻(午前9時~午前11時ごろ)

康煕帝の容態が悪化。四皇子 胤禛がお見舞いに行きます。この日、3回めの見舞いでした。

戌刻(午後7時~午後9時ごろ)康煕帝 死去

寝所で康煕帝が死去。享年69(数え歳)。

皇子は声をあげて泣きました。

大臣の隆科多は「今後のことを決めましょう。そうしないと葬儀ができません」と言い。皇子と大臣たちは葬儀について話しあいました。

やはり重臣で年長者の隆科多が皇子たちを引っ張ってるようですね。

雍親王  胤禛は皇帝になりました。このとき胤禛は46歳。歴代の皇帝の中では比較的遅い(年齢が高い)即位です。まだ即位式は行ってませんが、実質的な皇帝として命令を出しはじめます。

深夜 康熙帝の遺体が紫禁城に運び込まれる

皇子と大臣たちは今後のことを話し合って役割を分担。まずは離宮から紫禁城に康熙帝の遺体を運ぶことになりました。

淳郡王(七皇子)胤佑は暢春園の警備。
固山貝子(十二皇子)胤祹は乾清宮で式の準備。
十六皇子 胤祿と 恆親王(五皇子)胤祺の子・弘升は宮殿の警備。
十三皇子 胤祥、尚書 隆科多は道中の警備。

新しく皇帝になった胤禛が先頭に立ち、諸王や大臣たちによって康煕帝の遺体は紫禁城の乾清宮に運ばれました。

でもここで面白いのは警備を担当しているのが胤禛に味方している皇子か、皇位争いに加わっていない皇子たち。十三皇子を除けばドラマには出てこない皇子ばかり。

八皇子 胤禩とその派閥の皇子は警備担当になっていません。

もちろん親の遺体を運ぶのは息子たちにとっては重要な役目です。でも兵を動かせる立場にいるのが胤禛の味方か、中立の皇子なのは意味がありそうです。

康熙61年11月14日(1722年12月21日)葬儀と新人事発表

この日は一日中、葬儀についての様々な準備や打ち合わせが行われました。皇帝の葬儀は61年ぶりなので経験者がいません。過去の記録をもとに葬儀の手順を決めたようです。妃嬪や役職についていない若い皇子・公主(皇女)たちは喪に服しています。

戌刻(午後7時~午後9時ごろ)葬儀が始まりました。

人々は皆地面に向かって泣いていました。

葬儀の後。

貝勒(八皇子)允禩、十三皇子 允祥、大学士 馬齊、尚書 隆科多が総理事務に任命されました。そして「今後はこの四人の大臣を通して報告を行うように。そしてすべて記録に残しなさい」と命令します。

雍正帝を支える4人の大臣に八皇子 允禩、十三皇子 允祥という2人の皇子。馬齊、隆科多のベテラン重臣が選ばれたのです。

更に雍正帝は甘州に使者を派遣。大将軍王の十四皇子 允禵と弘曙(七皇子 胤祐の息子)を都に呼び戻し。総督の年羹堯(ねん・こうぎょう)に役目を引き継がせるよう支持しました。

軍団の総大将は十四皇子 允禵ですが、実際に軍を動かしていたのは 将軍の年羹堯。業務上は允禵がいなくても問題ありません。しかも年羹堯は 雍正帝の側室・年氏の兄。軍団まるごと雍正帝の味方です。

しかも首都を守る軍隊を指揮しているのは大臣の隆科多(ロンコド)。隆科多も雍正帝の味方なので首都の中と外に雍正帝を支持する軍団がいます。

隆科多と年羹堯に軍を動かす権限を与えたのは康煕帝です。もちろん年羹堯の妹が胤禛の側室なのは康煕帝も知っていますから、兄弟に軍事的な衝突をさせないための人事だったのかもしれません。

康熙帝の決定が胤禛を皇帝にさせたことになりますね。

ドラマ「宮廷の茗薇」のように十四皇子 允禵が軍団を率いて紫禁城を包囲なんてできません。個人的に従う僅かな兵を連れて帰ってくるしかないのです。

貝勒允禩と十三皇子 允祥を「親王」に。二皇子 允礽の子・弘晳に「郡王」の爵位を与えました。

康熙61年11月20日(1722年12月27日)皇帝に即位

清朝皇帝服(出典:楽天)

※イメージ(本文と直接関係はありません) 

胤禛が正式に皇帝に即位しました。雍正帝の誕生です。
臣下たちは雍正帝に 三跪九叩頭(さんききゅうこうとう:1回ひざまづいて3回頭を下げる、これを3セット行います)。

雍正帝は生母の烏雅氏(徳妃)に「恭上皇太后」の称号を贈ります。

その後、様々な儀式や行事、日常業務の記録が続きます。これといった事件は起きていません。

康熙61年11月25日(1722年12月31日)

康煕帝に対して
諡号:合天弘運文武睿哲恭儉寬裕孝敬誠信功德大成仁皇帝
廟号:聖祖

が贈られます。

景陵に埋葬されるのは年があけて雍正元年9月です。それまでは遺体は棺に入れて保管されます。

ドラマみたいにはいかない

こうして康熙61年(1722年)はとくに大きな問題もなく過ぎていくのでした。

このあと雍正帝は重臣や皇子たちを粛清し、様々な改革を行っていきます。その活動が盛んになるのは年があけて雍正年間(1723~1735年)になってから。

今はまだ組織作りと先帝時代からの引き継ぎに忙しかったようです。

ドラマなんかでは康煕帝の死と雍正帝の即位前後で様々な陰謀劇があって大きな事件が起きてるような印象を受けます。

歴史の記録を見る限りではとくに大きな争いもなく新体制に移ったようです。

逆に言うと、他の皇子が納得できるかどうかはともかく。

四皇子 胤禛が皇帝になるのは仕方ない、それを覆せる力もない。そんな雰囲気だったのでしょう。

でも納得のいかない人たちはある噂を流します。そうした噂が現代のドラマのネタになっているのです。

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