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洪国栄(ホン・グギョン)正祖に信頼され力を持ちすぎた男の転落人生

朝鮮重臣 5 李氏朝鮮の重臣

洪国栄(ホン・グギョン)は李氏朝鮮の重臣。

字(あざな)は徳老(ドンノ)

英祖~正祖時代に活躍しました。

王世孫時代から正祖には敵が多くいました。洪国栄は正祖の敵を排除するのに貢献します。正祖が王になってからは大きな権力を持たされ朝廷内でも大きな影響力を持ちました。妹を王の側室にして親戚になりました。

ところが正祖は大きくなりすぎた洪国栄のちからを警戒。やがて洪国栄は辞職に追い込まれ流罪になります。

史実の洪国栄どんな人物だったのか紹介します。

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洪国栄(ホン・グギョン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1748年
没年月日:1781年
享年43

姓:洪(ホン/こう)
名:国栄(グギョン/こくえい)
字:徳老(ドンノ/とくろう)
本貫:豊山洪氏

父:洪楽春(ホン・ナクチュン)
母:牛峰 李氏
妻:德水 李氏

妹:元嬪

子供

彼が生きたのは朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に21代英祖~22代正祖の時代です。

日本では江戸時代の人になります。

家系図

14代・宣祖の嫡女·貞明(チョンミョン)公主洪柱元(ホン・ジュオン)の6代孫。

洪氏・貞明公主~恵慶宮 家系図

正祖の生母・恵慶宮洪氏とは遠い親戚。
恵慶宮からみれば洪国栄は主流から離れた傍流の家系です。

洪国栄(ホン・グギョン)の生涯

おいたち

祖父の洪昌漢(ホン・チャンハン)は全羅道の観察使を務めていました。

父の洪楽春は官職に付けず、娘の元嬪が正祖の側室になってようやく官職にありつけたといわれます。恵慶宮洪氏の日記「恨中録」にも「洪楽春は狂人」と書かれています。洪国栄の父はあまり有能ではなかったようです。

洪国栄は都城の人びとと交流を重ねました。洪国栄は顔が美形で詩を作るのが上手く、詩を朗読するのも名人だったといわれます。

1772年。24歳のとき、科挙の文科に合学。

1773年。承文院副正字(従九品相当)になりました。

恵嬪の日記「恨中録」によると。英祖は洪国栄を「私の孫」と呼んで大事にしていたといいます。恵嬪とは遠い親戚とはいえ、名門・洪氏の一員です。顔もよく有能な洪国栄は若いころから英祖から目をかけられていたようです。

1774年。世子侍講院説書(正七品相当)になりました。このころから王世孫・李祘(イ・サン)に仕えるようになりました。

世孫は「賢閣法語」という本を書きました。その本には洪国栄の語った言葉が多く載っています。洪国栄は世孫にかなり影響を与えた人物だったようです。

1775年。英祖は王世孫に代理政聴をさせようとしました。洪麟漢たち重臣が反対しました。そこで洪国栄は洪麟漢を排除しようとします。洪国栄は徐明善に洪麟漢を弾劾させます。洪麟漢も沈翔雲を使って弾劾しました。英祖は沈翔雲を処分。王世孫の代理政聴を行いました。

1776年3月5日 。英祖が死去。

正祖の時代

1776年3月10日 正祖が即位。

このころ朝廷で最も力があったのは老論派の洪麟漢でした。そこで正祖は洪国栄に力をもたせて洪麟漢たち老論の重臣たちを排除しようとしました。

洪国栄は正祖の即位3日後に承政院の同副承旨になりました。王命を取り次ぐ役職です。7月6日には 都承旨になりました。

正祖は11月には軍事権をもつ、守禦庁の長官、守禦使(正二品)を洪国栄に任せました。

洪国栄は王の文官と軍事力の両方の権力を持ちました。こうして正祖は老論達重臣に対抗させようとしました。

正祖の意向をうけて、洪国栄は洪麟漢(ホン·インハン)と鄭厚謙(チョン·フギョム)を弾劾させました。

英祖時代の末期。「洪仁漢・鄭后謙が世孫の代理政聴を阻止しようとした」という罪です。洪麟漢と鄭厚謙を賜死に追い込みました。洪麟漢の兄・洪鳳漢も処分になり、洪一族の多くも処分になりました。

1777年5月。正祖は洪国栄への信頼をますます強めました。洪国栄は首都の防衛を行う禁衛営大将(従二品)も兼任することになりました。

1777年7月。追い詰められた洪一族は洪相範が中心になって正祖を暗殺しようとしました。洪相範の命令を受けた姜龍輝が正祖の寝所に忍び込んで暗殺しようとしましたが失敗。

洪国栄は事件の調査を行い計画に参加した者たちを洪相範たちを逮捕しました。

洪国栄が調べていくと、洪楽全が正祖の異母弟・恩全君を担いで王にしようとしてたことがわかりました。重臣たちは恩全君の処刑を要求。正祖は死刑だけは避けようとしましたが、恩全君は死刑になってしまいます。

正祖としては恩全君の命は守りたかったのですが、重臣たちの要求を拒否できませんでした。

1777年11月。正祖は国王の護衛組織・宿衛所を創設。洪国栄にその長官を任せました。

正祖の親戚になる

1778年。洪国栄は妹を正祖の後宮に入れました。

洪国栄の妹は最初から「嬪」の地位を与えられ、元嬪 洪氏とよばれました。男児を産んでいない側室が「嬪」になるのは珍しいです。洪国栄の妹の入宮には恵慶宮も賛成したようです。

ところが元嬪 洪氏は1年で死亡してしまいます。

「恨中録」には元嬪洪氏の死を毒殺と考え関係者を拷問したことが書かれています。洪国栄は孝懿王后を疑っていました。

洪国栄は恩彦君の子・李濬を元嬪 洪氏の養子にしました。洪国栄はことあるごとに「常渓君は自分の甥だ」と言っていた。という噂もあります。

李濬が養子になった時期は元嬪の生前と死後の二つがあってよくわかっていません。

正祖に跡継ぎがいないことを問題にして、正祖に跡継ぎを決めるように。と配下のものに上訴させました。

これには朝廷内で反対する意見も出ました。正祖もそこまでするつもりはなかったようです。

失脚

正祖は臣下たちに洪国栄を弾劾させました。

1779年9月。批判を集める中、洪国栄は辞職届けを出しました。極刑を言い渡される前に自ら身を引こうというのです。

正祖は洪国栄の辞職を認めました。宿衛所も廃止しました。

でも朝廷内には洪国栄を慕う勢力もいました。つまり洪国栄の元手下です。もしかすると弟子たちを使って上奏文を書かせていたのかもしれません。洪国栄はその方法で洪麟漢や鄭厚謙たち敵対勢力を弾劾してきましたから。

理由はともかく、洪国栄の復帰を願う上奏文が正祖のもとに集まるようになりました。正祖は洪国栄を庇う者たちを処罰していきます。

正祖は金鐘秀に洪国栄を弾劾させます。その内容は「元嬪が亡くなったときに後宮を決めようとしました。ところが洪国栄が反対しました。殿下(正祖、朝鮮では国王の呼び名は殿下)は洪国栄の顔色を伺ってばかりいます。それは国を軽んじていることでないでしょうか。洪国栄の力を恐れているのだとしたら殿下は自由でないということです。洪国栄を流罪にしてください。」というものでした。

正祖は洪国栄の流罪を決定しました。

すると重臣たちは手のひらを返したように洪国栄の死罪を訴えるようになりました。もはや洪国栄を庇うものはいません。

正祖はさすがに死刑にするつもりはありません。最後は傲慢になったかもしれませんが、正祖のためによく働いたのは確かですから。

流罪になって1年後。

1781年4月。洪国栄は流刑先で病死しました。 

まとめ

ドラマでは下っ端役人から王世孫の信頼を得て成り上がっていく様子が描かれます。でも歴史上の洪国栄は洪一族という家柄のおかげもあり、若い頃から英祖から気に入られ。英祖の信頼を得て、世孫の教育係に抜擢された人物のようです。そして正祖の信頼を得て大きな権力を持たされました。

正祖からの信頼は揺るがないかのように思えました。

ところが洪国栄は辞職した後流罪になってしまいます。

洪国栄が辞職した理由はよくわかりません。跡継ぎ問題に介入したこと。元嬪の死を王妃のせいにしたこと等がよくいわれます。でも確かなことはわかりません。

正祖は洪国栄に力をもたせて先代からの重臣を排除した。そして力を持ちすぎた洪国栄を排除しました。しかしその翌年正祖は死亡します。

テレビドラマ

大王の道 1998年、MBC  演:
洪國榮 2001年、MBC  演:キム・サンギョン
イ・サン 2007年、MBC 演:ハン・サンジン
風の絵師 2008年、SBS 演:チョン・インギ
ペク・ドンス 2011年、SBS 演:チェ・ジェファン
赤い袖先 2021年、MBC 演: カン・フン 役名:ホン・ドンノ

 

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