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ジョンミョン公主の夫ホン・ジュウォンは実在した!生涯や子孫を徹底解説

ホンジュウォン 6 李氏朝鮮の人々

洪柱元(ホン・ジュウォン)は韓国時代劇「華政(ファジョン)」に登場する人物。ジョンミョン公主の夫になる人です。

聡明で公主を支える姿は印象的ですが「本当に実在した人物なの?」と疑問に思う方もいるかもしれません。

実はホン・ジュウォンは李氏朝鮮王朝時代に活躍した実在の人物です。この記事では彼の生涯、貞明公主との結婚、そして子孫について史実に基づき詳しく解説します。

ドラマとの違いもご紹介しますのでドラマに興味のある方にも呼んでほしいです。

 

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洪柱元(ホン・ジュウォン)の史実

ホンジュウォンはどんな人?

名前:洪柱元(ホン・ジュウォン)
生年月日:1606年
没年月日:1672年

 

家族構成

父:洪霙(ホン・ヨン)
母:貞敬夫人延安李氏
妻:貞明公主

子供
息子・ホンテマン(洪台望、1625〜?)
息子・ホンマンヨン(洪萬容、1631〜1692)
息子・ホンマンヒョン(吏曹左郞洪萬衡、1633〜1670)
息子・ホンマンフイ(洪萬熙、1635〜1670)
息子・ホンテリャン(洪台亮、1637〜?)
息子・ホンテユク(洪台六、1639〜?)
娘・ホンテイム(洪台妊、1641〜?)
息子・ホンマンカイ(洪萬恢、1643年〜1709)

 

ホンジュウォンの生きた時代背景

洪柱元(ホンジュウォン)が生きたのは1606年から1672年までの間です。朝鮮王朝(李氏朝鮮)の第14代国王・宣祖の治世末期から、第18代国王・顕宗の治世にかけての時代になります。

この時代は朝鮮王朝にとって激動の時期でした。1608年に宣祖が崩御して光海君が即位しますが彼の治世は親明政策と中立外交の間で揺れ動き国内の政争も激化しました。

1623年には西人派によるクーデター(仁祖反正)が起こり、光海君は廃位され仁祖が新たな国王となります。

仁祖の時代は後金(後の清)との関係が重要な課題になりました。1636年には、後金が国号を清と改め朝鮮に臣従を迫ります。これに対し朝鮮は抵抗を試みますが、結局は清の支配下に入ることになります。

続く孝宗の時代には、清への復讐を目指す北伐計画が計画されますが、実現しませんでした。顕宗の時代も清の影響下で国内の政治や社会の安定が図られる一方、礼訟問題といった党派間の対立が表面化しました。

洪柱元はこのような激動の時代を生き抜き王室の一員の貞明公主の夫として、その生涯を送りました。

家系と出自

洪柱元は名門として知られる豊山洪氏(プンサンホンシ)の出身です。豊山は現在の慶尚北道安東市豊山邑にあたる地名。多くの洪氏が存在しますが、本籍地を豊山とする一族が豊山洪氏として区別されます。

父の洪霙(ホン・ヨン)は、官僚として礼曹参判(イェジョチャムパン:従二品)という役職を務めました。礼曹は、祭祀や外交、教育などを行う重要な官庁です。

洪霙(ホンヨン)は礼曹のナンバー2にあたる礼曹参判は重職でした。

 

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洪柱元(ホンジュウォン)の生涯

洪柱元の生い立ち

洪柱元(ホンジュウォン)は宣祖末期の1606年に生まれました。

幼いころは、祖父である李廷龜(イ・ジョングィ)金瑬(キム・リュ)から学問を学びました。李廷龜(イジョングィ)は朝鮮中期の文臣であり学者として知られ、多くの弟子を育成しました。

また、金瑬(キムリュ)は、宣祖から仁祖にかけて活躍した重臣で、後に仁祖反正で大きな功績を挙げた人物です。

ドラマ「華政」や「花たちの争い・宮廷残酷史」にも登場するように、当時の政界で非常に重要な存在でした。

洪柱元はこのような高名な祖父と政治の中心人物であった金瑬から学問を学び高い教養を身につけたと考えられます。

洪柱元(ホン・ジュウォン)は郷試(科挙の前に行われる地方の試験)に合格しました。

この次点ではまだ科挙の本試験に合格していないので役人にはなっていません。

 

貞明公主(ジョンミョンコンジュ)と結婚

1623年9月26日。18歳のとき貞明公主(ジョンミョンコンジュ)と結婚。府馬(王女の夫)になりました。

貞明公主は第14代国王・宣祖の娘。仁穆大妃の唯一の娘です。光海君の時代に幽閉生活を送り大変な苦労を経験しましたが、仁祖反正によって復権しました。

洪柱元は王女の夫となったことで「府馬(プマ)」という特別な身分を得ました。

府馬(プマ)
中華圏で用いられる王の娘の夫の呼び方。朝鮮では高い地位を与えられる一方で、王室の姻戚という立場上、政治の中枢に関わることは原則として許されませんでした。

 

洪柱元は結婚の翌日に崇德大夫永安尉(スンドクテブヨンアンウィ)という称号を授けられました。

また仁穆大妃は洪柱元に対し、馬に乗って宮殿に入る権利を与えました。

通常は国王のみに許される特権で当時の朝廷内では問題視する声も上がりました。でも仁祖は自身を王位に就けた仁穆大妃の意向を尊重してこの特例を認めました。

この出来事は洪柱元が王室、特に仁穆大妃から厚い信任を得ていたことを意味しています。

 

貞明公主は当時21歳だったので姉さん女房になります。しかも相手は前の王の娘なので身分は妻のほうが上。
だからでしょうか、ドラマの「華政」でもジュオンはジョンミョンに頭が上がりませんでしたね。

 

イ・グァルの反乱での功績

1624年(仁祖2年)。李适(イ・グァル)の反乱が起こりました。これは仁祖反正の功臣だった李适が、自分の功績が正当に評価されていないと不満をもって起こした反乱です。

このとき洪柱元は右議政・申欽(シン・フム)や書評府院君・韓浚謙(ハン・ジュンギョム)らと共に仁穆大妃仁烈王后(インリョルワンフ)を守るという重要な役割を果たしました。この功績が認められ、洪柱元は昇進を果たしています。

昇進

1629年(仁祖6年)。仁祖は仁穆大妃を慰めるために洪周元の父・洪英の官職を礼曹参判にあげました。

1631年。仁穆大妃が病気がちになったので、仁祖は洪柱元(ホン・ジュウォン)の位を高めました。娘婿のジュオンを昇進させて喜ばせようとさせたのです。

1647年から1648年の間。清に使者として派遣されました。

孝宗の即位と告訃請諡請承襲正使

1649年(孝宗即位年)。仁祖が死去、孝宗が即位しました。

すると洪柱元(ホン・ジュウォン)は告訃請諡請承襲正使(コクホセイシシンショウシュウセイシ)に任命されました。

これは先王(仁祖)の崩御を清に報告して王の諡号(死後の称号)と後継者の承認を求めるという非常に重要な任務を担う使節団の正使です。

この役目を任されたということは洪柱元が朝廷内で高い信頼を得ていたのでしょう。

晩年と最期

洪柱元は1672年(顕宗13年)に生涯を閉じました。享年は67歳でした。

王女の夫という特別な立場でありながら激動の時代を生き抜きました。

当時は王の娘と結婚した人は朝廷の役職につくことができないのが普通でした。ジュオンは位はそれなりに高いものがありましたが、直接政治に関わることはありませんでした。

でも大妃や王からの信頼もあり朝廷においても一定の役割を果たしました。

 

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ホン・ジュオンの子孫

ジュオンとジョンミョン公主の夫婦仲はよかったらしく、8人の子供ができました。

 

洪柱元・貞明公主 家系図

貞明公主家系図

貞明公主の家系図

 

繁栄した子孫たち

洪柱元と貞明公主の間に生まれた8人の子供たちは豊山洪氏の繁栄の礎を築きました。

豊山洪氏はもともと名門の家柄でしたが、王族との婚姻はあまりありません。洪柱元が貞明公主と結ばれたことで、その地位と影響力は大きく上がりました。

一族を発展させた次男・萬容(マンヨン)

長男の台望(テマン)は早くに亡くなったようですが、次男の萬容(マンヨン、1631〜1692)は、官僚として才能を発揮し、第19代国王・粛宗の時代に礼曹判書(イェジョパンソ)という高位の役職にまで上り詰めました。

礼曹判書は、礼儀や外交、教育などを担当する礼曹の長官。朝廷では非常に重要なポストです。洪萬容の成功は洪一族の地位をさらに高めることになりました。

王室の長老となった貞明公主

また貞明公主自身も、18代国王・顕宗19代国王・粛宗の時代には、一族の年長者として非常に尊敬を集めました。

その強い影響力と王室との繋がりによって洪一族は朝廷内で大きな力を持つようになっていきました。

権力を持つも没落した一族

洪柱元から数世代後。豊山洪氏はさらに大きな権力を握るようになります。

第21代国王・英祖の時代に権勢を誇った洪鳳漢(ホン・バンホン、生年不詳〜1778)洪麟漢(ホン・インハン、1709〜1776)兄弟は、洪柱元の5代後の子孫にあたります。

彼らは、英祖の信任を得て朝廷内で大きな影響力を持っていました。ところが洪麟漢(ホン・インハン)は王世子だった思悼世子(サドセジャ)と激しく対立しました。

1776年に正祖(イ・サン)が即位すると父である思悼世子を死に追いやったとして、洪麟漢をはじめとする洪一族の多くが処罰されることになります。

これにより勢力を拡大していた豊山洪氏は大きな打撃を受けました。

洪国栄(ホン・グギョン)は三男の子孫

一方で、洪柱元の三男・洪萬衡(ホン・マンヒョン、1633〜1670)の5代後の子孫である洪国栄(ホン・グギョン、1748〜1781)は、正祖の側近として一時的に絶大な権力を握りました。

しかしその強引な政治手法は多くの反発を招き、最終的には追放されるという結末を迎えました。

また同じく洪萬衡の5代後の子孫には正祖の側室となった元嬪洪氏(ウォンビン、生年不詳〜1779)もいます。彼女は正祖の寵愛を受けましたが、若くして亡くなりました。

このように、洪柱元と貞明公主の婚姻によって隆盛を極めた豊山洪氏でしたが、その後の子孫たちは権力を持ちすぎたために党派間の争いに巻き込まれたり、国王の不興を買ったりして、最終的には衰退の道を辿ることになりました。

せっかく洪柱元と貞明公主が築き上げた一族の繁栄を、子孫たちは長く守り続けることができなかったのです。

 

テレビドラマ「華政」での描かれ方

ドラマでのホン・ジュウォンの紹介

洪柱元(ホン・ジュウォン)は、韓国ドラマ「華政(ファジョン)」にも登場します。このドラマは宣祖の娘・貞明公主が、波乱の生涯を生き抜く姿を描いた作品です。

ドラマ「華政」でホン・ジュウォンを演じたのは、少年時代を「ユン・チャンヨウン」、成人後を「ソ・ガンジュン」という人気俳優です。

ソ・ガンジュン演じるホン・ジュウォンは聡明で正義感の強い青年として描かれ、貞明公主と深い絆で結ばれる重要なキャラクターとなっています。

ドラマと史実の比較

ドラマ「華政」ではホン・ジュウォンは常に貞明公主の側にいて彼女を支え、共に数々の困難を乗り越えていくとても重要な役割です。

史実でも二人の夫婦仲は良かったと伝えられていますが、ドラマではさらにロマンチックで劇的な要素が強調されています。

光海君のもとで働く

成人したホン・ジュウォンはドラマでは光海君が作った火器都監(ファギトガム)の役人として働きます。

光海君は軍備の再建に熱心に取り組みましたが、火器都監(ファギトガム)は架空の組織なので実在しません。

ホン・ジュウォンは光海君を憎みつつも王の理想を理解してともに国を強くしようと奮闘します。その結果、政敵のカン・ジュソンたちの陰謀に巻き込まれたりします。

ドラマでは貞明公主が日本に行って長崎の硫黄鉱山で働くという大胆な脚色がされています。ジュウォンは日本に硫黄を買い付けに行ってファイと名乗っていた貞明公主に出会いました。その後、ファイ(貞明公主)の帰国にも協力します。

史実では二人が結婚したのは仁祖時代ですが。ドラマではそれ以前から結婚相手に選ばれ、恋愛関係に発展するなど大胆な脚色が加えられています。二人の出会いや恋の過程などもすべて架空です。

 

府馬として活動

史実では王女の夫になった府馬は政治に関わることが原則として禁じられていました。ドラマのホン・ジュウォンも高い地位は与えられず、直接政治には関わってません。

でも世子の教育係になったりと、間接的に政治に関わる場面も描かれています。

これはドラマをより面白くするための演出なのでしょうね。

 

テレビドラマ

華政 MBC、2015年 演:ソ・ガンジュン、ユンチャンヨウン

 

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