花郞(ファラン、かろう)は新羅の国にいた青年集団。
王族や貴族の子弟が集まり、国や一族に貢献するために教育を受けました。
韓国時代劇「花郞(ファラン)」ではイケメン集団の親衛隊と描かれています。現代的な学園ドラマ風にアレンジされていて実際の花郞とは違います。
「善徳女王」にも花郎(ファラン)がでてきます。こちらは完全な戦闘集団。この花郎(ファラン)も正しくありません。
歴史の記録からわかる新羅時代に実際にいた花郞はどのようなものだったのか紹介します。
新羅時代の花郞(ファラン)とは
花郞(ファラン)のもとになった源花(ウォナ)
高麗時代に書かれた古代朝鮮の歴史書「三国史記」には花郎ができたいきさつが載っています。
西暦576年に新羅の真興王(24代国王)が源花制度を始めました。
人材登用に困っていた真興王が、南毛公主(ナム)と俊貞(チュンジョン)という二人の女性を源花(ウォナ)にしました。彼女たちに300人の若者を率いさせました。その若者の行いをみて人材を採用しようとしたのです。
しかし南毛と俊貞は互いに美しさを競い、嫉妬しあいます。
あるとき南毛は俊貞の家に招待されたくさんの酒を飲まされます。酔っ払った南毛は俊貞によって川に捨てられ溺死してしまいました。俊貞は南毛を殺したことがばれて処刑されます。
この事件があって、真興王は源花をやめて貴族の男子から選ぶ花郎に制度を変えました。
古代社会にはよくあった青年集団制度
古代社会では男子の集まりができることがよくありました。
新羅だけでなく古代中国や弥生時代の日本など、世界各地で似たような制度があったといわれています。現代でいう青年団のようなものです。集団の中で社会生活を学び、やがて組織を支える人材になるのです。
とくに戦が続く不安定な地域で男子の集団がつくられることがよくありました。血気盛んな若者が集まり、国や社会のために何か貢献しようと競い合うこともありました。
新羅の場合、当初は王女など有力氏族の娘に若者集団をまとめさせようとしました(新羅は朝鮮史上最も女性の地位が高い国でした)。しかし南毛と俊貞の事件があったので王族や貴族の子弟の中から有望な若者を選ぶようになりました。
花郞の組織
國仙と呼ばれる花郎をまとめる役人のもと、幾つかの花郎集団がありました。
花郎集団をまとめるリーダーが花郎(ファラン)。花郎集団の一員が郎徒(ナンド)です。
花郎は多くの郎徒を従えるリーダーです。花郎集団はいくつも存在しました。花郎は普通は3~4人、多いときには7~8人いました。
花郎のもとで働く若者は郎徒と呼ばれました。一つの花郎集団には300人から1000人の郎徒がいました。
真興王から真聖王までの350年の間に200人の花郎が存在したといいます。
花郎がリーダーになり郎徒をまとめ、お互いに切磋琢磨しました。花郎は将来国を背負う人材になります。
金庾信(キム・ユシン)のように、後に国を支える人材も花郎から出ています。
花郎の役目と変化
花郎集団は次のような役目がありました。
・貴族の子弟を国の役人にするための育成組織。
・若者のための教育機関。
・歌・踊り・芸能を楽しむ社交クラブ。
・戦が起これば戦士になる戦闘集団。
花郎は戦闘集団のようにいわれます。たしかに国を支える男子の勤めとして武術を訓練することはありました。そうでなければ将来、高い地位についたり軍人になったときに国を守れません。戦が始まれば出陣することもあったでしょう。
でも花郎が出陣するのは新羅が苦しいとき。
つまり花郎が出陣するときは新羅が追い詰められて戦う兵士が他にいないときです。最後の手段。学徒動員と同じなのです。
ですから王としては「新羅にはもう後がない」と認めるようなものですから。花郎は出陣させたくありません。でも中には血気盛んな若者が戦場に出たがることもあったようです。
いずれにしても普段から戦いや武術訓練だけを行っていたわけではありません。
どちらかというと世間知らずな若者を一人前の大人にするための教育や将来国を担う人材を育てる場でした。
主に儒教や仏教の道徳的な部分を若者に教育しました。その内容は忠義や親孝行、仲間を信じる心などです。
若者の集まりですから娯楽や芸能を楽しむことも多かったようです。
芸能といってもただの娯楽ではなく、一族や所属する集団の名誉をかけた試合のような場になっていました。クラブ活動のようなものです。こうして団結力や社会性を身に着けさせました。
ファランは親衛隊でも戦闘集団でもない
花郎(ファラン)の武術や戦いの集団、親衛隊というイメージは大韓民国でつくられたものです。
戦闘集団ではなくて、王家に仕える青少年の育成が目的だったから王女たちに若者を任せたのです。
戦士の組織なら最初から武人に任せるはずです。
三国史記を見ても真興王は人材登用のために始めたと書いています。最初から若者たちを戦いに駆り出すのが目的ではありません。
古代社会には世界各地に部族の青少年を育てるしくみがありました。でも同じ時期の高句麗や百済では中国風の組織造りを行っていたので古い習慣は廃れています。新羅は中国文化が伝わるのが遅かったので古代の部族習慣をアレンジしなから使っていたのかもしれません。
新羅以後の花郎の変化
没落して低俗なものになる花郎
新羅からあとの時代には花郎は存在しません。
高麗には仙郎という人々がいました。祭りや仏教の行事で踊りを行う人です。当時から仙郎の始祖は花郎だとされていました。花郎の制度が変化したものだといわれています。
李氏朝鮮時代には仙郎は廃止になります。
花郎という言葉は「妓生よりも格下の売春婦」や「ごろつき」を意味する言葉としても使われ、あまりいいイメージはありません。
花郎は芸能集団として考えられていました。男のシャーマンを花郎と呼んだり、男が女装して芸をする場合も花郎と呼ぶことがありました。賤民層の職業です。
李氏朝鮮では文官が偉く、武官の身分が低い時代。
肉体を使うのは卑しい身分の役目です。名家の若者たちが武術鍛錬する場を作るという発想はありません。
日本の武士道が入ってきて花郎が復権
日本統治時代。日本の武道が朝鮮に伝わります。朝鮮に「武を尊ぶ考え」「武士道精神」が伝わりました。
これがのちの花郎のイメージに大きな影響を与えます。
大韓民国になって花郎は注目されました。日本から伝わった武士道に影響されて花郎道が作られました。
つまり、新羅時代の花郎には花郎道はなかったのです。
もちろん王家に仕える者としての心構えなど、エリート幹部として守らなければいけないものはあります。でも花郎道というまとまった教えがあったわけではありません。
李承晩政権のもとで「花郎は国に忠誠を尽くし戦う若者の集団」のイメージが作られました。花郎は愛国心を高めるシンボルになりました。現代韓国では花郎という言葉は軍隊の部隊名などに使われています。
つまり現代韓国人が信じている「若者たちの精鋭部隊・親衛隊」というイメージは日本統治時代に伝わった武士道の影響を受けて、大韓民国初期の軍事政権が作ったものでした。
歴史として考えると、ドラマ「花郎」の「親衛隊」や「善徳女王」の「戦闘部隊」としての設定は正しくありません。
でもドラマ「花郎」は青春ドラマとしてつくられています。「若者たちの成長の場」というコンセプトは本来の花郎に近いのかもしれません。
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