仁穆王后(インモク王妃・大妃)は李氏朝鮮 第14代国王・宣祖の2番めの妃。
永昌大君(ヨンチャンテグン)の母です。息子と父が光海君と大北派に殺され、自分も幽閉されてしまいます。その後は仁祖反正で解放され大妃に復帰します。
この記事では、史実をもとに仁穆王后(インモク王妃)の波乱に満ちた生涯をくわしく紹介します。
仁穆王后(インモク王妃)の史実
仁穆王后はいつの時代の人?
- 姓:金氏(キム氏)
- 名:不明
- 本貫:延安 金氏
- 称号:仁穆王后(インモクワンフ)、昭聖王后、昭聖大妃、明烈大王大妃
- 生年月日:1584年12月15日
- 没年月日:1632年8月13日
家族
- 父:金悌男
- 母:光州盧氏
- 夫:宣祖
- 子供
- 長女:貞明公主
- 次女:死産
- 長男:永昌大君
仁穆王后の家系図

仁穆王后の家系図
おいたち:宣祖の妃になるまで
仁穆王后は1584年12月15日、名門・金氏の家に生まれました。父は吏曹正郞の金悌男(キム・ジェナム)。
母は光州盧氏です。盧氏は、昭顕世子嬪姜氏の外祖母 盧氏といとこになります。
懿仁王后は次女でした。
1600年。宣祖の妃・懿仁王后が亡くなったあと。3年の喪が開けた1602年に宣祖の正妃として迎えられました。
壬申,卯正,上具遠遊冠、絳紗袍,御別殿,行冊妃禮。正使金命元、副使韓應寅,將命以出。
(7月13日。卯の刻、定刻に上(宣祖)が遠遊冠と絳紗袍を身につけ、別殿に進み王妃冊封礼を執り行った。)「朝鮮王朝實錄/宣祖實錄/三十五年」
当時、彼女は19歳でした。
貞明公主と永昌大君の誕生
1603年。貞明公主が誕生。
1606年。長男の李㼁(永昌大君)が産まれました。宣祖は喜んで永昌大君を世子にしようと考えます。
重臣たちも意見が別れました。当時朝廷で力を持っていた北人派は光海君を支持する大北と、永昌大君を支持する小北に分裂して争いました。

北人派の分裂
結局、李㼁を世子にできないまま宣祖は老いていきます。
宣祖の死と光海君の即位
1608年。宣祖は死亡。懿仁王后は光海君に言教旨を出して光海君の王位継承を認めました。光海君が即位すると王大妃となります。
以後、大北派が政権を握るようになります。
光海君の妃・朴氏とは仲が悪かったといいます。朴氏は義理の娘になりますが、仁穆王后の方が8歳年下でした。
1611年(光海君3年)。長男の李㼁に永昌大君(ヨンチャンテグン)の称号が与えられました。
光海君時代に朝廷で力のあった大北派は永昌大君は光海君を脅かす存在になると考えました。
仁穆大妃(インモク大妃)を襲った悲劇
父・金悌男と兄弟たちは処刑
1613年。李爾瞻(イ・イチョム)ら大北派は政敵を粛清しました。この事件を癸丑獄事といいます。
大北派は「金悌男が永昌大君を王にしようとした」と主張。父 金悌男、兄 金鼐、弟 金珪、金璿、および義兄の沈廷世が囚えられました。
兄弟たちは拷問の後に処刑され、父は死毒薬を飲まされ死に追いやられました。
このとき母の盧氏は裸足で仁穆大妃の宮殿にかけつけ「◯◯(大妃の名前)よ、なぜ父を助けないのか!」と叫びましたが、仁穆大妃にはどうすることもできませんでした。
母の盧氏は流刑
母の盧氏は自宅に監禁されました。食べ物がなくて困っていると、近隣住民が夜にひそかに食べ物を届けてくれて命をつなぐことができました。その後、仁穆王后が廃されると済州島に囲籬安置(家の周囲に柵をめぐらしその中に閉じ込める流刑)されました。
息子・永昌大君が殺害される
永昌大君は位を奪われ庶民にされ江華島に流刑になってしまいます。
1614年、大北派の手により永昌大君は密かに殺害されました。方法はオンドルで蒸し焼きにされたとも、毒殺されたともいわれています。
李爾瞻は永昌大君は病死したと報告しましたが、仁穆大妃が信じるはずがありません。
永昌大君殺害の経緯については 永昌大君(ヨンチャンテグン)は蒸殺?それとも毒殺? をご覧ください。
息子は殺され実家が没落してしまいます。
仁穆王后の幽閉と「大妃」の身分剥奪
仁穆大妃と娘の貞明公主は西宮に幽閉になりました。
大北派はその後、永昌大君の死罪を要求しましたが光海君は断りました。
大北派は仁穆大妃の廃妃を要求。光海君自身は廃妃には反対。光海君は「大妃」と呼ばないことで影響力を排除しようとしました。王族としての身分は残したまま、大妃としての影響力をなくそうと考えたのです。
以後、仁穆大妃は「西宮(ソグン)」と呼ばれました。
しかし大妃を幽閉して「大妃」の称号を取り上げたのは事実です。敵対する西人派からみたら廃妃も同然の扱いでした。
幽閉中は貞明公主に慰められる
仁穆大妃は生きる気力を亡くしそうになりながら幽閉生活をおくりました。娘の貞明公主が書道で母を慰めたといいます。娘の書は夫・宣祖の筆跡によく似ていたのです。
仁穆大妃は仁祖の時代に名誉回復
光海君失脚と仁穆王后の名誉回復
1623年。幽閉生活を耐え忍ぶ仁穆大妃に朗報が届きました。綾陽君と西人派が反乱を起こし、光海君が捕らえられたのです。仁穆王后は幽閉を解かれ、「大王大妃」の称号を得て王室に復帰しました。
大王大妃になって最初の仕事は光海君の廃位の宣言と綾陽君を王に指名することでした。
(「朝鮮王朝實錄/仁祖實錄/元年」)
綾陽君は即位して仁祖になりました。光海君は流刑となります。庶民に落とされていた永昌大君も身分を回復しました。既に生きてはいませんが名誉が回復したのはせめてもの救いでした。
仁穆王后が光海君に求めた“最後の復讐”
身分が回復しても仁穆大妃の気持ちは晴れません。息子と父の仇・光海君はまだ生きています。仁穆大妃は仁祖に光海君の死罪を要求しました。
でも仁祖は光海君を処刑しようとはしませんでした。「王を殺すと悪評がたつのではないか」と心配して生かしたままにしていたのです。
仁穆大妃の要求は聞き入れられませんでした。仁祖にとっては仁穆大妃の存在は光海君を倒すための大義名分に過ぎません。仁穆大妃はとくに大切にされるわけでもなく、息子の冥福を祈りつつ静かに余生を送りました。
いつまでたっても光海君が死んだという報告は届きません。
1632年。仁穆大妃は亡くなりました。享年49歳。
光海君が死んだのはそれから9年後の1641年でした。
仁穆大妃としてはなんともやりきれない後半生だったことでしょう。
仁穆王后の呼び名
仁穆王后の生涯を通じて、彼女には時代ごとに複数の称号が与えられました。
- 王妃時代:昭聖王后
- 光海君政権下:貞懿王大妃(名のみ)
- 仁祖政権下:明烈大王大妃
- 死後:仁穆王后(追号)
「仁穆王后」という名は死後に贈られた追号で、現在ではこの名で広く知られています。
テレビドラマの仁穆王后・大妃
- 宮廷女官キム尚宮 KBS 1995年 演:イ・ボヒ
- 許浚 MBC 1999年 演:ホン・ウニ
- 雷鳴 KBS 2000年 演:イ・ヒョンギョン
- 王の女 SBS 2003年 演:ホン・スヒョン
- 許浚・伝説の心医 MBC 2013年 演:ソ・イアン
- 王の顔 KBS 2015年 演:コ・ウォニ
- 華政 MBC 2015年 演:シン・ウンジョン
- ノクドゥ伝 KBS 2019年 演:オ・ハニ
- ポッサム MBN 2021年 演:ユン・ヨンミン
コメント
大妃の身分を奪われ幽閉生活の3行目
永昌大君はDVDではオンドルの部屋に監禁されて蒸し殺されました。
蒸刑という刑罰らしいのですが、
殺害方法についてはオンドルの温度を極端に上げて蒸し焼きにした。というのがよく知られているようです。他にも毒殺したという記録もありますね。光海君には事後報告だったので刑罰としてやったわけではなく暗殺でしょう。