PR

朝鮮 顕宗(ヒョンジョン)・父の悲願を反故にして国作りを優先した現実派

1 李氏朝鮮の国王

 

馬医に登場する、心優しい王様は顕宗(ヒョンジョン)。

馬医がドラマになるまでは、歴史の隙間に埋もれた地味な王様だと思われていました。

この時代とくに大きな問題はなく平和な時代でした。

だから注目されなかったのです。

でも、顕宗は混乱から立ち直って安定な世の中にするために力を尽くした王様でした。

史実の顕宗(ヒョンジョン)どんな人物だったのか紹介します。

 

PR

顕宗(ヒョンジョン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1641年3月14日
没年月日:1674年9月17日

名前:李棩(イ・ヨン)
称号:顕宗(ヒョンジョン)
清式諡号:荘恪王
父:孝宗 17代国王
母:仁宣王后
妻:明聖王后

子供

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の18代国王です。日本では江戸時代の人になります。

おいたち

 1641年。清の都・瀋陽で生まれました。朝鮮は清との戦に破れて人質を出していました。人質となった父・鳳林大君は清で暮らしていたからです。

顕宗は李氏朝鮮王朝で唯一の外国で産まれた国王です。

王世孫(ワンセソン)になりました。

1645年。伯父・昭顕世子が死亡したため、父・鳳林大君が世子になりました。李棩は王世子(ワンセジャ)になりました。

1649年。祖父・仁祖が死去。父・鳳林大君が即位して孝宗となりました。

1659年。父・孝宗が死去。李棩は19歳で国王になりました。18代国王・顕宗の誕生です。

父・祖父の悲願だった北伐を中止

顕宗は孝宗が進めてきた北伐を中止しました。清を倒すのは祖父や父の悲願でした。そのため孝宗は兵を増やし城を作り軍事力を強めていきました。しかし財政的に負担になっていました。民衆も兵役や城の工事に駆り出されて不満がたまっていました。孝宗在位中からこれは問題だと言われていましたが、孝宗は反対意見を無視して軍事力を高めていきました。

しかし清が中国大陸を統一。現実的には朝鮮が清に抵抗するのは不可能でした。そこで顕宗は清に服従するのは仕方ないと考え。軍事費を減らしました。

隣に強大な統一国家が誕生したおかげで異民族の侵入もありません。清のご機嫌さえとっていれば平和に暮らせるのです。久々に平和な時代がおとずれました。

税収を増やす

国の財政を立て直すため農業の発展に力を入れ新田開発を進めました。戸籍が減ると税収がへります。そこで、減るのを防ぐために良民が僧になるのを禁止。山地にいる流民を戸籍に入れました。国境を超えて逃げるのを禁止しました。

税収を安定させるため大同法を実施しました。大同法は光海君のときに作られた制度です。土地を持つ人から年貢を米で治めさせる法律です。それまでは労役や特産物などでおさめていました。両班や商人の反対にあって仁祖の時代に廃止されていました。孝宗時代に一部復活しました。しかし、まだまだ反対が強く広まっていませんでした。大同法が全国に広まるのは粛宗の時代になりますが、顕宗は大同法の普及を進めました。

 

派閥争いの始まり・礼訟論争(喪服問題)

世の中が平和になり、国が安定すると別の問題が起こります。重臣たちが理屈で争うようになったのです。きっかけは些細な問題でした。礼訟論争(れいしょうろんそう)といわれる争いです。喪服問題ともいいます。

第一次礼訟論争

1660年。孝宗が死んだあとのことです。慈懿大妃(莊烈王后)の喪服を着る期間を何年にするか問題になりました。朝鮮は儒教の国です。儒教では家族に死者が出ると残った家族はある期間、喪服を着ることになってました。長男が死んだら3年、それ以外の息子が死んだ場合1年喪服を着ることになっていました。

孝宗は次男だったので儒教の規定では喪の期間は1年です。ところが南人派の許穆などが、反対しました。孝宗は王位を継いでいるので長男と同じ。だから3年にすべきと主張しました。西人派の宋時烈たちは、次男なので1年が正しいと反論。南人派と西人派の争いは全国の両班を巻き込んだ大きな争いになりました。

結局、このとき朝廷で力を持っていた西人派の主張が通りました。敗北した南人派の尹善道は流罪になりました。

第二次礼訟論争

二回目は1674年に孝宗の妃・仁宣王后が亡くなったときです。またしても、慈懿大妃(莊烈王后)の喪服を着る期間をどうするか問題になりました。仁宣王后が長男の妻か、長男以外の妻かによって喪服を着る期間が変わるのです。

西人派は9ヶ月。南人派は1年を主張しました。このときは、西人派の一部も南人派に味方しました。顕宗は南人派を支持。最後まで抵抗していた宋時烈たちを島流しにしました。

この争いでは南人派が勝ちました。孝宗の晩年から粛宗の初期にかけては南人派が権力を持つことになりました。

若くして王妃なった慈懿大妃(莊烈王后)が孝宗や仁宣王后より年下だったという原因はあります。でもなぜ喪服でそれほど揉めるのでしょうか。

 

なぜ些細なことでモメるのでしょうか

普通に考えれば孝宗は次男、仁宣王后は次男の妻です。規則があるならそのとおりにすればいいですよね。なぜ屁理屈を言って問題にするのでしょうか?

この論争の裏には、西人派と南人派の派閥争いがありました。どちらが権力を握るかがかかっているのです。

西人派も南人派もかつては儒学者の集まりだった士林派です。学者ですから屁理屈が得意なんですね。相手を落としいれるのも理屈で陥れるのです。議論に勝った負けただけのように思えますが、議論の勝ち負けは政治生命まで変えてしまうのです。

それまで西人派と南人派は同じ士林派の一員として活動してました。表立って対立はしてなかったのです。この争い以後、西人派と南人派の対立が激しくなりました。

喪服問題は片付いたものの、西人派と南人派の争いはつづいていました。西人派と南人派の争いは粛宗の時代まで続きます。

1674年。顕宗は病に倒れます。そのまま34歳で亡くなりました。

人間は良くも悪くも派手なことをした者が目立ちます。平和を維持して安定な世の中をつくるのは地味ですが難しいです。でも歴史的には目立ちません。衰退した朝鮮を立て直し地道な国作りをしたのが顕宗でした。

 

テレビドラマ

チャン・ヒビン 2003年 KBS 演:ヤン・ジェソン
馬医 2012年 MBC 演:ハン・サンジン
チャン・オクチョン-愛に生きる 2013年 SBS 演:チョン・インテク

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました