「オクニョ・運命の女」に登場する王様は13代朝鮮王・明宗(ミョンジョン)です。
父は中宗。母は文定大妃。権力を握る怖い母親とは違い、心優しい人物として描かれます。ドラマでは権力を握り続ける母親との葛藤に悩みます。
歴史上の明宗も母と一族のために悩まされる日々の多い王様だったようです。
史実の明宗はどんな王様だったのか紹介します。
明宗(ミョンジョン)の史実
プロフィール
生没年・在位期間
彼が生きたのは1534年~1567年。朝鮮王朝(李氏朝鮮)の第13代国王です。
日本では戦国時代まっただ中。織田信長(1534~1582)と同時代の人です。
生年月日:1612年2月5日
没年月日:1645年5月21日
在位期間:1545〜1567年
名前
名前:李峘(イ・ファン)
廟号:明宗(ミョンジョン、めいそう)
慶源大君(キョンウォンテグン)
家族
父:中宗(第11代国王)
母:文定王后
異母兄:仁宗(第12代国王)
妻:仁順王后
子供:順懐世子(13歳で死亡)
明宗の家系図
明宗(ミョンジョン)の生涯
1534年(中宗29年)。李峘(イ・ファン)が誕生。
父は中宗。
母は文定王后
中宗の継妃です。
中宗の次男。文定王后が産んだ唯一の男児。
イ・ファンが生まれたころはすでに異母兄のイ・ホが世子になっていました。
1539年(中宗34年)。イ・ファンには慶源大君(キョンウォンテグン)の称号が与えられます。
大尹派対小尹派の対立
中宗時代の終わりごろになると、朝廷の重臣たちはイ・ホを支持する派閥 大尹派(テユン)とイ・ファンを支持する派閥 小尹派(ソユン)にわかれて対立していました。
大尹派(テユン) 前の王妃章敬王后の一族とその仲間 世子 イ・ホを支持 |
小尹派(ソユン) 今の王妃 文定王后の一族と仲間。 慶源大君 イ・ファンを支持 |
イ・ファンの母・文定王后とイ・ホの母・章敬王后は同じ尹一族。中宗の時代には曽曽祖父の代までさかのぼらないと血がつながらないくらい遠い親戚になってました。
中宗が亡くなりイ・ホが12代国王仁宗になると派閥争いは収まったかのように思えました。
1545年。仁宗は王になってわずか9ヶ月で亡くなってしまいます。子供はいません。そこで慶源大君が13代国王となりました。
第13代朝鮮国王に即位
文定大妃の垂簾聴政
慶源大君 イ・ファンは王(明宗)になりました。でもまだ12歳(数え歳)です。
幼い明宗は玉座に座ってるだけ。母・文定大妃(ムンジョンテビ)が垂簾聴政(すいれんちょうせい)を行いました。文定大妃は摂政となり幼い王の代わりに政治を行ったのでした。
幼い王が即位したとき。王の母・祖母・伯母・叔母が代理(摂政)として政治を担当すること。中国王朝から始まりました。女性は直接臣下の前には出ず、簾(すだれ)を垂らしてその後ろにいたことから垂簾の名があります。
乙巳士禍
文定大妃と尹元衡は、大尹を朝廷から排除しようと考えます。仁宗の母方の叔父・尹任(ユン・イム)が「桂林君を王位につかせようとした」といいかがりをつけて、尹任や彼と交流のあった者たちを処刑しました。
垂簾政治は8年間続きました。
明宗の親政が始まるものの混乱
文定大妃の介入は続く
1553年。明宗が20歳になり親政を開始。文定大妃の摂政は終了。
慈聖大妃は親政が始まると政治に口出しはしませんでしたが。文定大妃は明宗の親政が始まっても政治に口を出しました。伯父の尹元衡(ユン・ウォニョン)も強い権力を持っています。
文定大妃は紙に意見を書いて明宗に渡し、思い通りにならないと「母を卑しめていると」騒いで明宗に暴言を吐いたり暴力をふるいました。
李樑に対抗させるものの失敗
そこで明宗は仁順王后の母方の叔父・李樑(イ・リャン)を司諫院に採用。李樑を後押しもあって李樑は順出世して仲間を増やし、明宗の思惑通り尹元衡たちの対抗勢力になりました。
ところが李樑たちの勢力が強くなってしまい、彼らが横暴になってしまいます。
1563年。そこで明宗は仁順王后の弟・沈義謙(シム・ウィギョム)に弾劾を起こさせ、李樑を追放しました。
結局、尹元衡が領議政になり彼の勢力が復活してしまいます。
味方に恵まれない王でした。
政治の腐敗
尹一族が実権を握っていた間。尹元衡は官職や位を売買。不正に蓄財しました。尹元衡の財産は王よりも多かったといいます。
金で位や役職を買った役人たちは使った分の金を民から搾り取りました。
田政(税)、軍政(軍役)、還穀(穀物を国が民に貸し出す制度)で不正が横行。
生活に困った民たちは田畑を捨てて流人となりました。彼らは盗賊になって各地を襲いました。
倭寇の襲来(乙卯倭変)
朝鮮の軍は徴兵制なので軍役に就くはずだった民が減ると国を守る兵も減ります。
明宗の時代、日本は戦国時代の真っただ中。日本国内の治安が悪化して海賊の活動も活発な時期でした。
1555年。倭寇が70隻の船で全羅道(朝鮮南西部)を襲撃。各地で大きな被害が出ます。
最終的に漢城府の兵や各地から集めた兵を動員してなんとか鎮圧したものの、この反乱で朝鮮軍が弱体化してることが暴露されてしまいました。
父・中宗までの時代に国を守る軍隊は形骸化していたところに、兵隊の数も士気も下がっていたのです。
そこで戦争のときだけおかれていた備辺司という部署を常に置くことになりました。
海賊が朝鮮を襲ったことを知った対馬の宗義調は海賊を捕らえて首を切って朝鮮に謝罪すると、そのかわりに貿易船の増加を要求。
この事件の背景にはもともと朝鮮側が行った貿易量の制限に不満があった対馬側の思惑もあったようです。
明宗は宗義調の要求を受け入れ貿易を増やしました。
林巨正の反乱
こうして国内外で混乱が続く中。明宗時代最大級の反乱が発生します。
京畿道楊州の白丁・林巨正(イム・コッチョン)は中宗時代に盗賊になったといいます。
朝廷と地方役人の横暴によって田畑を失い流人になった人々が増えると彼らを集めて盗賊団を作り各地の民家を略奪していました。
1559年ごろから黄海道·京畿道一帯の役所を襲撃、奪った米を貧しい人に配り支持を集めていました。
兵を派遣しても民が知らせるため林巨正を捕らえることは出来ませんでしたが。1562年に官軍の大規模な討伐作戦で林巨正を九月山に追い詰めてようやく鎮圧に成功します。
後継者問題
明宗には息子の順懐世子がいました。
しかし1563年に13歳の若さで亡くなります。
明宗には他には子供はいません。
そこで明宗は後継者として半兄・徳興君の息子・河城君を養子に迎えました。子供をなくした明宗は河城君を可愛がったといいます。河城君は後に14代国王・宣祖になります。
文定大妃の死亡
母や伯父一族の悪いうわさも聞こえてきます。でも権力を握られているので思うようにできません。心労が重なって病気がちになりました。「涙の王」と呼ばれるのはこのためです。
1565年。母・文定大妃が亡くなりました。明宗は尹元衡を解雇して故郷に返しました。それでも家臣や民衆の怒りは収まりません。
尹元衡とその妻・鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)を捕まえて処分しようとしましたが、彼らは捕まる前に自殺しました。
明宗の最期
明宗は宮中の人選をやりなおして政治をよくしようとしました。
1567年。6月には危篤になりました。今までのストレスで体が弱っていたのに加え、赤痢にかかりました。病死しました。母が亡くなって2年後。34歳でした。
明宗は学問を好む聡明な人物でした。でも母と一族のために自分の思うような政治はできませんでした。
記録では母親とその一族に権力を握られて、思うような政治ができませんでした。
明宗のテレビドラマ
チャングムの誓い 2003 演:子役
女人天下 2001 演:イ・フドク
オクニョ 2016 演:ソ・ハジュン
韓国ドラマ「オクニョ」で明宗が登場するころは垂簾政治が終わっていますが、まだまだ文定大妃が権力を持ってるようです。
ドラマ「オクニョ」では最後には母親達と対決し、自立した王様としての姿を見せます。大人しい王様がどのように変わっていくのか見どころです。
魔女宝鑑 2016 演:イ・デビッド
コメント
こんにちは。
韓国歴史ドラマ好きで楽しく拝見させて頂いています。
朝鮮王朝の王の中には君号のない王様がいますが、
これはどうしてなのでしょうか?
名前などを眺めていてふと疑問に思いました。
小野佳恵さん、こんにちは。
君号のない王様というと◯◯君という称号のない人のことでしょうか?
朝鮮王朝の場合、◯◯君が付くのは世子でない男性王族です。世子には付きません。「世子」という地位があるからです。王になると◯◯君という称号は外れます。世子から直接王になった人は一生「◯◯君」という称号のない人生を送ることになります。没後、普通は廟号が与えられます。「太祖」や「太宗」などが廟号です。燕山君や光海君は王を廃されてしまったので廟号がありません。そのため王でない王族時代の称号で呼ばれています。「◯◯君」で呼ばれるのは王扱いされていないということです。
こんな説明でよろしいでしょうか?わからないことがあったら遠慮なく言ってくださいね。