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インビン(仁嬪金氏)とは?|ホジュンの描写と史実の最期を解説

仁嬪金氏(インビン・キム氏)は李氏朝鮮14代国王・宣祖の側室です。寵愛を集め信城君が世子候補になったり、孫(仁祖)が王になったことで影響力が注目される側室です。この記事ではドラマ「ホジュン」でインビンが最後どうなったのか。仁嬪金氏の史実、誕生から・家系・主要事件・最期(1613年)をわかりやすく紹介します。

インビンの要約

  • ドラマ『ホジュン』ではインビンは終盤で権力を失い、最後は曖昧にされる。
  • 史実の仁嬪金氏は宣祖の側室として長く影響力を持った。
  • 息子の信城君が世子候補になったこともある。
  • 史実の仁嬪金氏は1613年に死去。
  • 孫が仁祖になった。

 

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ホジュンではインビンの最後はどうなった?

許浚(ホジュン)を主人公とするドラマ「許浚 宮廷医官への道」「許浚 伝説の心医」では、仁嬪金氏がどのように描かれたかを見ていきましょう。

宣祖の寵愛を集めた仁嬪

物語の序盤では、宣祖の寵愛は恭嬪(コンビン)が独占していました。しかし、若い仁嬪(インビン)が後宮に上がると、宣祖の寵愛はすぐに仁嬪へと移っていきます。

仁嬪が王子を出産したことや、恭嬪が病気がちになったこともあり、恭嬪は寵愛を失ってしまいました。この頃の仁嬪は、恭嬪に対して態度の大きい、わがままな側室として描かれ、恭嬪を呪う行為に及んだことさえありました。

 

息子・信城君を世子にしようと画策

仁嬪の子である信城君は、宣祖から大変可愛がられ、その立場は光海君(宣祖の庶長子)を危うくするほどでした。仁嬪は、弟の金公諒(キム・ゴンニャン)とともに、我が子を世子の座に就かせようと画策します。

この世子の座を巡る争いから、宮中は信城君派光海君派に分裂します。しかし、この権力闘争の最中、日本との戦争(文禄・慶長の役)が勃発します。

 

存在感が薄くなる仁嬪

戦火を避けての避難に際し、仁嬪は弟の金公諒の勧めを受け入れ、光海君を世子として推薦することに同意し、宣祖とともに都を離れます。

しかし、避難先の義州(ウィジュ)で、待望の息子である信城君が病死してしまいます。この出来事を境に、ドラマの中での仁嬪の出番は減少していきます。

その後、新しく王妃になった仁穆王后(インモクワンフ)が永昌大君(ヨンチャンデグン)を産むと、仁嬪の存在感はさらに薄れます。弟の金公諒は永昌大君派の一員として光海君と敵対し続けますが、仁嬪自身はいつの間にか登場しなくなります。

結局、最期は曖昧なまま消える

ドラマ『許浚(ホジュン)』では、仁嬪の最期は明確に描かれることなく、曖昧なままで物語は終了してしまいます。

史実では、仁嬪は光海君の治世まで生存し、光海君5年(1613年)に亡くなっています。ドラマでは光海君時代に彼女の出番はなく、彼女の死が描かれないのは、許浚の物語の主軸とは関係のないところで亡くなったためと考えられます。

次に、ドラマ以上に興味深い史実の仁嬪金氏の生涯を紹介します。

 

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仁嬪金氏(インビン・キム氏)の史実

いつの時代の人?

  • 称号:淑媛→昭容→淑儀→貴人→仁嬪
  • 本貫:水原金氏
  • 生年月日:1555年
  • 没年月日:1613年10月29日
  • 享年:59
 

主な年表

  • 1555年 誕生
  • 1573年 宣祖の側室となる(淑媛)
  • 1577年 恭嬪の死後、寵愛を独占
  • 1592年 信城君が死亡
  • 1604年 仁嬪になる
  • 1613年 死没
 

家族

  • 父:金漢佑(キム・ハンオ)
  • 母:全州李氏(李孝成の娘)
  • 弟:金公諒(キム・ゴンリャン)
  • 夫:宣祖
  • 子供
    • 長男:義安君
    • 次男:信城君
    • 三男:定遠君
    • 長女:貞愼翁主
    • 次女:貞惠翁主
    • 三女:貞淑翁主
    • 四男:義昌君
    • 四女:貞安翁主
    • 五女:貞徽翁主
彼女は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に14代宣祖の側室です。
日本では戦国時代の人になります。

仁嬪の家系図

仁嬪金氏(インビンキムシ)家系図

仁嬪金氏の家系図

仁嬪金氏は水原金氏の一族。
父は司憲府監察の金漢佑。
仁嬪金氏の母は3代国王・太祖の次男・孝寧大君の子孫です。
仁嬪金氏の孫が16代国王・仁祖になります。

 

仁嬪(インビン)キム氏の生涯

おいたちと入宮

1555年に誕生した仁嬪金氏は、13代国王・明宗の後宮だった淑儀李氏(死後に慶嬪に追尊)の従姉妹でした。その縁で宮廷に入り、慶嬪李氏のもとで育ちました。

その後、彼女は明宗の妃であった仁順王后(インスンワンフ)付きの女官となります。仁順王后は彼女を見込み、14代国王・宣祖に側室として勧めた結果、1573年(宣祖6年)に従四品・淑媛として側室入りを果たします。

彼女はその後、昭容、淑儀、貴人と順調に位を上げていきました。

ライバルは光海君の母・恭嬪金氏

宣祖の正妃は懿仁王后朴氏(ウイインワンフ・パクし)でしたが、病弱で子がなかったため、側室たちの間で寵愛争いが激化します。

仁嬪金氏が寵愛を受ける前は、恭嬪金氏光海君の母)が寵愛を独占していました。この恭嬪と仁嬪は仲がよくありませんでした。

恭嬪金氏が病に倒れた際、「誰かが私を呪っている。王様が調べてくれないから私は死ぬのだ」と宣祖に訴えたことがありました。これを聞いた宣祖は他の側室に厳しくあたり、側室たちは宣祖を避けるようになります。

 

宣祖の寵愛を受ける

そのような中、昭容金氏(後の仁嬪金氏)だけが唯一、宣祖を優しくもてなしました。さらに、昭容金氏は宣祖に恭嬪金氏の悪口を吹き込んだと言われています。

独占欲の強い恭嬪金氏に困っていた宣祖は、徐々に恭嬪への同情を薄れさせていきました。

そして1577年(宣祖10年)、恭嬪金氏が病死すると、宣祖の寵愛を阻む者はいなくなりました。

宣祖の寵愛を独占

昭容金氏が宣祖の寵愛を独占するようになると、その寵愛ぶりは恭嬪金氏のときよりも凄かったと伝えられています。この独占的な寵愛により、彼女は昭容、淑儀、貴人と出世を重ねていきます。

仁嬪金氏は、この寵愛によって4男5女(計9人)を産みました。

  • 1579年(宣祖12年):次男・信城君が誕生。
  • 1580年(宣祖13年):三男・定遠君が誕生(後の仁祖の父)。
  • 1588年(宣祖21年):仁嬪金氏の長男の義安君が病気で死亡。
  • 1589年(宣祖22年)。仁嬪金氏の四男・義昌君が誕生。

光海君派と対立

1591年(宣祖24年)。宣祖は40歳をこえたので世子を決めようと重臣たちがいいだします。鄭澈(チョン・チョル)らは光海君を世子にしようと考えました。それを知った領義政の李山海は仁嬪金氏の弟・金公諒(キム・ゴンニャン)に伝えます。

光海君を世子にしようという重臣の動きは仁嬪金氏に伝わりました。

仁嬪金氏は泣きながら「鄭澈が信城君を排除しようとしている」と宣祖に訴えました。宣祖は怒って鄭澈や光海君を支持した重臣の官職を剥奪、流刑にしました。

宣祖も内心、信城君を世子にしようと考えていたのです。

戦争と信城君の最期

しかし直後に日本との戦争(朝鮮出兵・文禄の役、壬辰戦争)が起きました。

1592年。戦争が起きたときには宣祖は漢陽(ソウル)を棄てて逃げましたが、そのときは懿仁王后は同行させず、仁嬪金氏とその子供を同行させています。そのくらい仁嬪と子が大切なのですね。

このとき王に万が一のことがあった場合、国を立て直せるのは光海君ということで光海君が世子に決まりました。しかしまだ明の許可が出ていないので正式な世子ではありません。

ところが仁嬪を大きな悲劇が襲います。

信城君は義州に避難しているとき病気亡くなってしまいます。

期待していた息子だけに仁嬪の悲しみは大きかったでしょう。

仁穆王后の登場

1600年(宣祖33年)。もともと病弱だた懿仁王后が死亡。喪が開けた1602年(宣祖35年)に仁穆王后金氏(インモクワンフ・キム氏)が新しい王妃になりました。

1604年(宣祖37年)。正一品 仁嬪(インビン)になったのはこのときです。

新しい王妃が来ると側室は品階が一つ上がる慣例がありました。王妃の徳を表すという意味があるようです。

ところが仁穆王后の登場は仁嬪金氏の立場を危なくさせました。

敵の敵は味方・光海君の味方になった仁嬪金氏

1606年(宣祖39年)。仁穆王后が王子・永昌大君を産みました。

初めての嫡男に宣祖は大喜びしました(それまでの息子は側室の子)。内心では永昌大君を後継者にしようと考え始めました。

すると仁嬪金氏への寵愛も以前ほどではなくなりました。

仁嬪金氏は面白くありません。

仁嬪金氏は光海君の母・恭嬪金氏のライバルでした。次の王座を巡っても仁嬪金氏の子と光海君はライバルでした。しかしこのころから仁嬪金氏は光海君の味方をするようになります。

仁嬪金氏は宣祖から恨まれる光海君をかばいました。

敵(仁穆王后と永昌大君)の敵は味方というわけです。

永昌大君が王になれば仁穆王后は大妃です。仁嬪金氏の居場所はどこにもありません。光海君には母がいません。なので恩を売っておこうと考えたのかもしれません。

そのため、光海君は

「仁嬪のおかげで今の私がある。義理をわすれてはならない」

と話していました。

仁嬪(インビン)の最後

1613年(光海君5年)。仁嬪が死亡しました。享年59歳。

仁嬪金氏が死んだ後。光海君は3日間の喪に服そうと言いましたが、重臣たちが「仁嬪金氏は後宮にすぎません。法的にも認められません。個人的な恩で行うのは、礼節に反します」といって反対したといいます。そのくらい光海君は仁嬪金氏を信じていたようです。

ドラマ「ホジュン」では光海君時代の仁嬪は出てきませんが。ホジュンが「東医宝鑑」を完成させた後~ホジュンが死ぬまでの間に仁嬪も亡くなっているはずです。

 

孫は光海君を倒した仁祖

仁嬪金氏が亡くなった後、光海君は暴政によりクーデターで失脚します。

その次に王位に就いたのは、仁嬪金氏の三男・定遠君の息子である仁祖です。皮肉にも仁嬪金氏が生涯で最も望んだ「王の母になる」という夢は彼女自身ではなく、彼女の孫が王になるという形で実現したのでした。

 

テレビドラマ

仁嬪金氏は、多くの歴史ドラマに登場しています。

  • 壬辰倭乱 MBC 1985年 演::オム・ユシン
  • 許浚・宮廷医官への道 MBC 1999年 演:チャン・ソヒ
  • 王の女 SBS 2003年 演:イ・ヘスク
  • 不滅の李舜臣 KBS 2004年  演:キム・ミラ
  • 許浚・伝説の心医 MBC 2013年  演:チョン・シア
  • 火の女神ジョンイ MBC 2013年  演:ハン・コウン
  • 王の顔 KBS 2014年  演:キム・ギュリ
  • 懲毖録 KBS 2015年  演:キム・ヒェウン

 

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王妃・側室
この記事を書いた人

 

著者イメージ

執筆者:フミヤ(歴史ブロガー)
京都在住。2017年から韓国・中国時代劇と史実をテーマにブログを運営。これまでに1500本以上の記事を執筆。90本以上の韓国・中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを史料(『朝鮮王朝実録』『三国史記』『三国遺事』『二十四史』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。類似サイトが増えた今も、朝鮮半島を含めたアジアとドラマを紹介するブログの一つとして更新を続けています。

詳しい経歴や執筆方針は プロフィールページをご覧ください。
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コメント

  1. BIG-BIRD より:

    宣粗の寵愛は、宣祖の寵愛の誤りです。

  2. BIG-BIRD より:

    単純な質問で申し訳ありません。
    こんなに子沢山というか、愛情を注いだ女性を王妃に格上げしなかったのですか。
    理由が知りたいです。

    四行目の仁粗の寵愛を受けた側室は、宣粗の寵愛の間違いではありませんか。

    • フミヤ Fumiya より:

      実家の家格と政治の都合でしょうか。
      既に息子のいる貴人(当時)・金が王妃になってしまうと。王位後継者と考えられている光海君の地位が危うくなります。当時は光海君は重臣たちの支持を集めていたので貴人(当時)・金氏の王后昇格は重臣たちが許しません。

      また、彼女の実家・水原金氏はあまり名家とはいえません。
      継妃になった仁穆王后の父・金悌男はそれほど官位は高くありませんが、一族の延安金氏は金安老(キム・アンロ)などの士林派の実力者をだしている名門です。

      側室は王の好みで選べますが王后は重臣たちの派閥の都合で選ばれることが多いです。王が好きな人が選ばれるとは限らないんですね。

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