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仁嬪金氏(インビン・キム氏)宣祖の寵愛を集め光海君親子と対立した

2 李氏朝鮮の妃・側室

 

仁嬪金氏(インビン・キム氏)は李氏朝鮮14代国王・宣祖の側室です。

ドラマでは貴人金氏(クィイン・キム氏)と呼ぶこともあります。

キム氏の息子を王の後継者にしようと活発に活動していた時期が貴人のころだったからです。

宣祖の寵愛を最も受けた側室だといわれます。光海君の母・恭嬪金氏(ゴンビン・キム氏)とは仲が悪くライバル関係にありました。自分の息子を王にしようともしました。

ドラマでは光海君と対立しているイメージで描かれることが多いです。確かに対立していたこともありました。

ところが意外にも仁嬪金氏は光海君の味方をしたこともありました。それはなぜでしょうか。

史実の仁嬪金氏(インビン・キム氏)はどんな人物だったのか紹介します。

 

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仁嬪金氏(インビン・キム氏)、貴人金氏(クィイン・キム氏)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1573年
没年月日:1613年10月29日

称号:淑媛→昭容→淑儀→貴人→仁嬪
本貫:水原金氏
父:金漢佑(キム・ハンオ)
母:全州李氏(李孝成の娘)
夫:宣祖

子供
長男:義安君
次男:信城君
三男:定遠君
長女:貞愼翁主
次女:貞惠翁主
三女:貞淑翁主
四男:義昌君
四女:貞安翁主
五女:貞徽翁主

彼女は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に14代宣祖の側室です。
日本では戦国時代の人になります。

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インビン・キム氏の生涯

彼女の父・金漢佑(キム・ハンオ)は司憲府監察。

彼女の母は3代国王・太祖の次男・孝寧大君の子孫です。
13代国王・明宗の後宮だった淑儀李氏(死後・慶嬪に追尊)の従姉妹でした。その縁で慶嬪李氏が宮廷によんで育てていました。

明宗の妃・仁順王后の目にとまって仁順王后付きの女官になりました。

仁順王后が14代・宣祖に側室にしてはどうかと勧めました。

1573年(宣祖6年) 従四品・淑媛になりました。

その後、
正3品 昭容
従2品 淑儀
従1品 貴人

と出世しました。

ライバルは光海君の母・恭嬪金氏

仁嬪金氏は恭嬪金氏(ゴンビン・キム氏)と仲がよくありませんでした。恭嬪金氏は光海君の母です。

宣祖の妃は懿仁王后朴氏(ウイインワンフ・パク氏)でした。しかし懿仁王后は病弱で子供が産めない体だったので形だけの王妃になり。側室たちの争いがはげしくなっていました。

仁嬪金氏が宣祖の寵愛を受ける前は恭嬪金氏が寵愛を集めていました。

恭嬪金氏が病気になったときのことです。「だれかが呪っている。王様が調べないから私は死ぬのです」と言いました。これを聞いた宣祖は他の側室に厳しくあたりました。やがて側室たちは宣祖を避けるようになりました。

そのとき唯一、宣祖を優しくもてなしたのが昭容金氏(後の仁嬪金氏)でした。昭容金氏は宣祖に恭嬪金氏の悪口を吹き込みました。

独占欲の強い恭嬪金氏に困っていた宣祖は、徐々に恭嬪金氏を気の毒だと思う気持ちが薄れていきました。

1577年(宣祖10年)。恭嬪金氏は病気が悪化して死亡しました。

宣祖の寵愛を独占

恭嬪金氏の死後。昭容金氏を阻むものはもういません。

昭容金氏は宣祖の寵愛を独占しました。その寵愛ぶりは恭嬪金氏のときよりも凄かったということです。

このあと昭容、淑儀、貴人と出世します。
以降は仁嬪と表示します。

仁嬪金氏は宣祖の寵愛を集め、4男5女を産みました。

1579年(宣祖12年)。仁嬪金氏の次男・信城君が産まれました。

1580年(宣祖13年)。仁嬪金氏の三男・定遠君が産まれました。定遠君は16代国王・仁祖の父親になります。

1588年。仁嬪金氏の長男の義安君が病気で死亡しました。

1589年(宣祖13年)。仁嬪金氏の四男・義昌君が産まれました。

1591年(宣祖24年)。宣祖は40歳をこえたので世子を決めようと重臣たちがいいだします。鄭澈(チョン・チョル)らは光海君を世子にしようと考えました。それを知った領義政の李山海は仁嬪金氏の弟・金公諒(キム・ゴンニャン)に伝えます。

光海君を世子にしようという重臣の動きは仁嬪金氏に伝わりました。仁嬪金氏は泣きながら「鄭澈が信城君を排除しようとしている」と宣祖に訴えました。宣祖は怒って鄭澈や光海君を支持した重臣の官職を剥奪、流刑にしました。

宣祖も内心、信城君を世子にしようと考えていたのです。

しかし直後に日本との戦争(朝鮮出兵・文禄の役、壬辰戦争)が起きました。

1592年。戦争が起きたときには宣祖は漢陽(ソウル)を棄てて逃げましたが、そのときは懿仁王后は同行させずに仁嬪金氏とその子供を同行して避難しました。

信城君は義州に避難しているとき病気で亡くなりました。

王に万が一のことがあった場合、国を立て直せるのは光海君ということで光海君が世子に決まりました。しかしまだ明の許可が出ていないので正式な世子ではありません。

1600年(宣祖33年)。もともと病弱だた懿仁王后が死亡しました。

1602年(宣祖35年)。仁穆王后金氏(インモクワンフ・キム氏)が新しい王妃になりました。

1604年(宣祖37年)。正一品 仁嬪(インビン)になったのはこのときです。

新しい王妃が来ると側室は品階が一つ上がるという慣例がありました。王妃の徳を表すという意味があるようです。

ところが、仁穆王后の登場は仁嬪金氏の立場を危なくさせました。

敵の敵は味方・光海君の味方になった仁嬪金氏

1606年(宣祖39年)。仁穆王后が王子・永昌大君を産みました。

初めての嫡男に宣祖は大喜びしました(それまでの息子は側室の子)。内心では永昌大君を後継者にしようと考え始めました。

すると仁嬪金氏への寵愛も以前ほどではなくなりました。

仁嬪金氏は面白くありません。

仁嬪金氏は光海君の母・恭嬪金氏のライバルでした。次の王座を巡っても仁嬪金氏の子と光海君はライバルでした。しかしこのころから仁嬪金氏は光海君の味方をするようになります。

仁嬪金氏は宣祖から恨まれる光海君をかばいました。

敵(仁穆王后と永昌大君)の敵は味方というわけです。

永昌大君が王になれば仁穆王后は大妃です。仁嬪金氏の居場所はどこにもありません。光海君には母がいません。なので恩を売っておこうと考えたのかもしれません。

そのため、光海君は「仁嬪のおかげで今の私がある。義理をわすれてはならない」と話していました。

1613年(光海君5年)。死亡しました。享年59歳。

仁嬪金氏が死んだ後。光海君は3日間の喪に服そうと言いましたが、重臣たちが「仁嬪金氏は後宮にすぎません。法的にも認められません。個人的な恩で行うのは、礼節に反します」といって反対したといいます。そのくらい光海君は仁嬪金氏を信じていたようです。

 

孫は光海君を倒した仁祖

このあと光海君はクーデターで失脚します。その後、王になった仁祖は仁嬪金氏の三男・定遠君の息子。仁嬪金氏の望んだ王の母になるという夢は孫が叶えてくれたのです。

 

テレビドラマ

壬辰倭乱 MBC 1985年 演::オム・ユシン
許浚・宮廷医感への道 MBC 1999年 演:チャン・ソヒ
王の女 SBS 2003年 演:イ・ヘスク
不滅の李舜臣 KBS 2004年  演:キム・ミラ
許浚・伝説の心医 MBC 2013年  演:チョン・シア
火の女神ジョンイ MBC 2013年  演:ハン・コウン
王の顔 KBS 2014年  演:キム・ギュリ
懲毖録 KBS 2015年  演:キム・ヒェウン

 

コメント

  1. BIG-BIRD より:

    宣粗の寵愛は、宣祖の寵愛の誤りです。

  2. BIG-BIRD より:

    単純な質問で申し訳ありません。
    こんなに子沢山というか、愛情を注いだ女性を王妃に格上げしなかったのですか。
    理由が知りたいです。

    四行目の仁粗の寵愛を受けた側室は、宣粗の寵愛の間違いではありませんか。

    • Fumiya より:

      実家の家格と政治の都合でしょうか。
      既に息子のいる貴人(当時)・金が王妃になってしまうと。王位後継者と考えられている光海君の地位が危うくなります。当時は光海君は重臣たちの支持を集めていたので貴人(当時)・金氏の王后昇格は重臣たちが許しません。

      また、彼女の実家・水原金氏はあまり名家とはいえません。
      継妃になった仁穆王后の父・金悌男はそれほど官位は高くありませんが、一族の延安金氏は金安老(キム・アンロ)などの士林派の実力者をだしている名門です。

      側室は王の好みで選べますが王后は重臣たちの派閥の都合で選ばれることが多いです。王が好きな人が選ばれるとは限らないんですね。

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