陰興は後漢の武将。
初代皇帝・光武帝 劉秀の正室・光烈皇后 陰麗華の弟です。
陰麗華は劉秀が非常に愛した人で、陰家の人々も劉秀から信頼されていました。
ところが陰興は過剰な出世は望みませんでした。皇后になった姉の陰麗華にも、陰家は富や名誉を求め過ぎるべきではないと訴えました。
陰麗華といえば外戚の政治参加を防いだ賢后として知られます。陰麗華本人の意志というよりも陰興たち兄弟の考えだったようです。
史実の陰興はどんな人物だったのか紹介します。
陰興 の史実
いつの時代の人?
生年月日:西暦9年
没年月日:西暦47年
姓 :陰(いん)
名称:興(こう)
字:君陵
国:漢
父:陰陸
母:鄧氏
異母兄:陰識
同母姉:陰麗華
同母弟:陰訢、陰就
子供:陰慶、陰博、陰員、陰丹
日本では弥生時代になります。
おいたち
前漢が滅び、新が建国した西暦9年に誕生。
父は荊州南陽郡新野の豪族・陰陸
建武2年(26年)。黄門侍郎(皇帝の命令を伝える係)、守期門僕射になりました。
騎兵を率いて光武帝 劉秀の遠征に同行しました。劉秀に同行するときは雨風をしのぐために傘を持っていることが多く、泥だらけの足で真っ先に玄関にやってきました。劉秀が宿泊先に到着すると、真っ先に入って掃除をするので、劉秀から信頼されていました。
陰麗華に意見する
建武9年(33年)。「関内侯」の爵位を与えると光武帝が言いました。
ことろが陰興は「私は戦場では何の功績もありませんが、私の一族の何人かはその称号を得ています。でも世間では賞賛を得られていません。 私は陛下と貴人(陰麗華)の深いご好意に恵まれ財や地位は恵まれています。これ以上は必要ありませんので、陛下にはこれ以上増やさないでいただきたいと切に願います」と辞退しました。
陰麗華が陰興に辞退した理由を尋ねると
陰興「姉上は”亢竜有悔 ”を知らないのですか?高い地位にいればいるほど災いに遭いやすくなります。この外戚の家はどうしたらいいのかわからなくなっています。娘を嫁がせるときは諸王に、妻を娶るときは公主を求めます。そんな様子が私は不安です。富や地位には限りがあり、人はそれに満足すべきです。驕り高ぶることに世の人々は反対しています」
と言いました。
陰麗華は陰興の言葉に感銘をうけ、家族や友人のために官位や爵位を求めるのを控えるようになりました。
ここで陰興が言った「亢竜有悔(こうりょうゆうかい)」とは
「天まで上り詰めた龍はこれ以上昇るところはなく他には落ちるしかないので後悔する」という意味です。
ことわざとしては「名声を得た人、成功した人ほど慎まないと大きな失敗をして後悔する」という意味で使います。
後の時代の人からは陰麗華や兄の陰識は公私の区別をつけ、一族をできるだけ高い地位にはつけなかったと言われています。でも一族の中には驕り高ぶる者もいました。陰家に仕える者の中には主人の権威を振りかざして偉そうにする者もいたようです。
裕福な陰家は屋敷が野盗に襲撃されたこともあります。
陰興はもともと財力があるのに権威まで味方につけて世間の非難を浴びて災いを受けるのを心配していたのです。
陰麗華も最初から一族の地位を求めない、という人ではなかったようです。
大臣を辞退
建武19年(43年)。陰興は衛尉(護衛部隊の隊長)になりました。兄の陰識とともに皇太子 劉陽(後の明帝 劉荘)の教育を担当しました。
建武20年(44年)。劉秀の風眩病(めまい・立ちくらみ)がひどくなったので、陰興を侍従に任命。雲台の広間で劉秀の最後の遺言を受けるように言いました。ところが劉秀は病から回復しました。
そこで病死したばかりの呉漢に代わって陰興を大司馬(国防大臣)に任命しようとしました。
でも陰興は泣きながら頭を下げ、「私は自分の命は惜しみませんが、陛下の徳や名声を傷つけることを本当に恐れています。ですから高官になるつもりはありません 」と辞退しました。
陰興の必死の懇願は劉秀や周囲の人たちの心を動かし、彼の辞退を認めました。
建武23年(47年)。陰興が病死。享年39。
陰興は生前、いとこの陰嵩とは仲はよくありませんでしたが、彼の真面目さは尊敬していました。陰興が重病になったとき、劉秀が陰興のもとを訪れ時事問題の意見をかわしたり、官僚たちに能力があるかどうか訪ねた事がありました。
陰興の死後。劉秀は彼の言葉を思い出し、陰嵩を中郎将に任命しました。劉秀は最後まで陰興を信頼していたようです。
死後も称賛される陰興
陰麗華は一族を政治に引き込まずに外戚の横暴を阻止した皇后と言われます。でも陰興の記録をみると陰麗華は最初からそうだったわけではなく、陰興たち兄弟の意見を聞いて外戚を政治に参加させるのを控えるようになったようです。
兄の陰識もそうですが、陰麗華の兄弟は野心が少なかったで陰麗華もその影響を受けたのかもしれません。
永平元年(58年)。劉秀と陰麗華の息子、明帝・劉荘が即位しました。明帝は「陰興は先帝に従って世の中を平定した。その功績に名誉ある扱いをうけるべきである。また他の叔父たちも規則に従って恩恵を受けるべきである」と勅命を出しました。
そして明帝は「彼(陰興)は朕の相談相手であり、家庭では慈しもの心をもち孝行であった。賢人の子孫は相応の待遇を受けるべきである。陰興の息子・陰慶を「鮦陽侯」に陰慶の弟・陰博を「隱強侯」にする」と発表しました。
その陰興は家族がむやみに高い地位や爵位を与えられるのを嫌ったのですが。明帝・劉荘も身内に甘い父・劉秀と考え方は同じだったようです。
建中5年(80年)。殷興の妻が亡くなると章帝・劉炟(劉秀・陰麗華の孫)は、五官将に命じて墓前で儀式を行い、殷興を宜興侯とする死後の文書を授与したといいます。
テレビドラマ
秀麗伝 2015年、中国 演:茅子俊
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