愛新覚羅(アイシンギョロ)胤礼(いんれい)は18世紀の大清帝国の皇族。
允礼とも書きます。
第4代皇帝 康煕帝の十七皇子。
雍正帝時代に多羅果郡王になり、その後、和碩果親王になりました。
康煕帝の皇子たちは後継者争いを行い、何人かが犠牲になりました。でも胤礼は争いには関わらず、文化的な活動をしていました。
雍正帝の時代には様々な任務を与えられ無事にこなし、次の皇帝の補佐も任されました。
乾隆帝の時代に42歳で病死してしまいます。
果親王 愛新覚羅・允礼 の史実
いつの時代の人?
生年月日:1697年3月24日
没年月日:1738年3月21日
享年:42
姓:愛新覚羅(あいしんかくら、満洲語:アイシンギョロ)
名:胤礼、允礼(いんれい)
称号:多羅果郡王→和碩果親王
旗籍:正藍旗
父:康煕帝(こうきてい)
母:純裕勤太妃 陳佳氏
正室:嫡福普・鈕祜祿氏 阿霊阿の娘。
側室:側福普・孟氏 達色の娘。
子供
1男1女がいましたがいずれも幼い頃に死亡。
養子:多羅果恭郡王 弘曕(雍正帝の息子)
胤礼が生きたのは清王朝の第4代皇帝・康煕帝~第6代・乾隆帝の時代です。
日本では江戸時代になります。
おいたち
康熙36年(1697年)3月2日に生まれました。
名前は胤礼(いんれい)
父は康煕帝。
母は側室の陳氏(後の純裕勤太妃 陳佳氏)でした。
胤礼は順治帝の妃・淑恵妃 博爾濟吉特氏に育てられました。
康熙52年(1713年)。育て親の淑恵妃が死去。
胤礼は中元節ごとに孝東陵で養母の霊を祀り淑恵妃の墓で泣き叫ぶよう命じられました。
文化的な皇子
康熙帝は皇子の教育に熱心でした。でも漢文や経典を覚えるだけでなく、満洲人らしさを失わないように騎射(乗馬と弓矢)の練習にも力を入れさせました。
胤礼も学問熱心でした。兄たちは時期皇帝の座を巡って争いましたが、歳の離れた胤礼は争いには加わらず、文化的な活動に力を入れました。
書道や詩文が得意でした。手先が器用で彼が刻印した書物や彫刻は非常に精巧でした。チベット仏教の経典を研究し、チベット語の書物を編纂・翻訳ました。当時文壇や詩壇で高名だった方苞や沈徳潜などとも交流がありました。
康熙61年(1722年)。康煕帝が崩御。兄の胤禛(雍正帝)が即位しました。
雍正帝の時代
雍正元年(1723年)。雍正帝は兄弟に名前の「胤」を同じ読みの「允」に変えるよう命令。「胤礼」は「允礼」に変えます。
多忙な日々
允礼は「多羅果郡王(たら かぐんおう)」の称号を与えられ雍正帝から藩院の管理を命じられました。
雍正6年(1728年)。「和碩果親王」に昇進。
このころ十六皇子 允祥が病気になり允礼は允祥の仕事のいくつかを引き継ぎました。
正黄旗モンゴル都統、鑲紅旗満洲都統、鑲青旗漢軍都統、鑲青旗モンゴル都統を兼任しました。
雍正7年(1729年)には工部を兼任。
雍正8年(1730年)。戸部の事務を兼任することになりました。
雍正帝は兄弟たちに様々な役目を与えうまくいけば昇進や褒美を与え、うまくできなければ罰していました。允礼は役目を無事にこなしたようです。雍正帝からとくに罰を受けた記録はありません。
母と暮らす
康熙帝は生前、皇子たちが母と家で暮らすようにとの勅令を出していました。
雍正13年9月。果親王允礼は生母の純裕勤太妃を邸に迎えるよう奏請しましたが、雍正帝は遠回しに拒否しました。でも純裕勤太妃は毎年、臘月春節、節慶、誕生日に果親王の邸で過ごすことを許されました。
チベットに出張
雍正12年(1734年)にはチベットの甘孜泰寧惠遠寺を訪れるように命じられました。
雍正13年(1735年)。正月1日。チベット泰寧の恵遠寺で宴会が行われ胤礼と章嘉は招待されました。4月に北京に戻り雍正帝に泰寧での行動を報告しました。
允礼は康煕帝の第16皇子 荘親王 允祿と親しくしていました。
雍正帝が息子の補佐に任命
雍正13年(1735年)。雍正帝は病気が悪化。死期を悟った雍正帝は遺言を残しました。その遺言の中で若い新皇帝を補佐するために允礼とともに、荘親王 允祿、大学士 鄂爾泰、張廷玉、領侍衛内大臣 豊盛額、納親、内大臣戸部侍郎 海望入を指名しました。また允礼の待遇を悪くしてはならないと命令を残しました。
雍正帝は後継者争いをした兄弟には厳しかったですが、歳の離れた弟たちのことは気にしていたようです。
その後、雍正帝が崩御。乾隆帝が即位しました。
乾隆帝の時代
乾隆帝の即位後。允礼は先帝の遺言通り、総理事務大臣に任命されました。
また乾隆帝は「果親王(允礼)と荘親王(允祿)は、聖祖仁皇帝(康煕帝)の子であり、大行皇帝(雍正帝)の弟であり、朕の叔父である。彼らの身分は非常に尊い。だからこそ朕の前で常に礼を行うべきではない」と、允礼と允祿に便殿での礼拝を免除しました。
允礼は藩政大臣や刑罰省の責任者を歴任。「侵占銭糧罪」などの法律を作成しました。
しかし允礼は病気になってしまいます。
乾隆2年(1737年)2月12日、允礼は「世宗憲皇帝上諭」を完成させました。
乾隆3年1月2日(1738年)。乾隆帝は果親王 允礼の病気を心配し、和親王 弘晝を見舞いに行かせました。
しかし允礼が回復することはなく。
乾隆3年(1738年)2月2日、允礼が病死。享年42歳。
雍正帝の第6子である弘曕が後継者になりました。
允礼の園寢は河北省易縣清西陵の上岳各莊村北にあります。
テレビドラマ
宮廷の諍い女 2011年、中国 演:李東学 役名:果郡王・允礼
ドラマでは果郡王・允礼は女性たちから愛される皇子として描かれていて。史実と違いドラマでは雍正帝によって死に追い込まれてしまいます。
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