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朝鮮 粛宗 李焞の王妃と側室

粛宗王妃と側室 2 李氏朝鮮の妃・側室

粛宗(スクチョン) 李焞(イ・スン)は李氏朝鮮王朝の19代国王。

粛宗の時代には何度か派閥の交代劇が起こりました。そのたびに王妃の交代も起こりました。後宮をめぐる騒動も大きく、仁顕王后と禧嬪張氏の対立も有名です。

王が中心になって派閥ごと重臣を入れ替えたのか、妃嬪や重臣たちに振り回されて交代させたのかは様々な解釈があります。それだけに何度もドラマの題材にもなっています。

そこで粛宗の正室と側室をリストにしてみました。

ちなみに
粛宗の生没年は
生年:1661年(顕宗2年)
没年:1720年(粛宗46年)
享年:60(数え歳)

です。

参考にしてください。

 

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正 室

仁敬(インギョン)王后 金氏

生年 1661年(顕宗2年)
没年 1680年(粛宗6年)
享年 20

本貫:光山金氏

地位:世孫嬪→王妃

子供
長女:公主(1677年-1678年)
次女:公主(1679-1680年)

仁顕(イニョン)王后 閔氏

生年 1667年(顕宗8年)
没年 1701年(粛宗27年)
享年 35

本貫:驪興閔氏

地位:王妃→廢妃→王妃

1681年(粛宗7年) 15歳で王妃になりました。
粛宗の政敵だった閔維重の娘のため、最初から粛宗からは嫌われていました。
1689年(粛宗15年)仁顕王后は廃されて王宮を追放されます。約6年の貧しい生活の後。
1694年(粛宗20年)に王妃に復帰。
1701年(粛宗27年)持病が悪化して病死しました。

廃妃になっても復帰した王妃として知られます。
この事件のあと、粛宗は「側室は王妃になってはいけない」と決めました。

・仁顕王后の詳しい説明はこちら

仁元(イヌォン)王后 金氏

生年 1687年(粛宗13年)
没年 1757年(英祖33年)
享年 71

本貫:慶州金氏

地位:王妃→王大妃→大王大妃

仁顕王后の死後。1702年(粛宗28年)に王妃になりました。
粛宗の世子(景宗)より1歳年上。
延礽君(ヨニングン、英祖)より7歳年上なだけ。
若い王妃の誕生です。
少論の家系出身ですが、仁元王后は老論が支持する延礽君の味方をしました。

景宗の時代に王大妃。英祖の時代に大王大妃になりました。

仁元王后の詳しい説明はこちら

 

側 室

禧嬪(ヒビン)張氏

生年 1659年(顕宗10年)
没年 1701年(粛宗27年)
享年 43

本貫:仁同張氏

地位:宮女→淑媛→昭儀→禧嬪→王妃→禧嬪

本名は張玉貞(チャン・オクチョン)

朝鮮三大悪女のひとり。
中人(両班と平民の間の階級)の出身。両班以外で王妃になったのは張玉貞だけ。高くはない身分から王妃になって最後は処刑されるというドラマチックな人生を歩んだのでよくドラマや小説の題材になります。

荘烈大王大妃に仕える宮女でした。大変美しかったため粛宗の寵愛をうけ側室になりました。粛宗の母・明聖大妃とは仲が悪く宮中を追い出されます。

明聖大妃の死後。荘烈大王大妃と南人派の手引で 1686年(粛宗12年)に宮中に戻って男子・李昀(後の景宗)を出産。粛宗は大変喜んで張玉貞を禧嬪にしました。
李昀が世子になり世子の母として大きな影響力を持ちます。

南人派を味方につけて王妃になりましたが。その後、西人派の巻き返しにあって廃妃され禧嬪に戻ります。

1701年に仁顕王后が病死すると、西人派から仁顕王后を呪ったと訴えられて死罪になりました。

息子の景宗が即位後「玉山府大嬪」の称号が与えられました。

子供:
庶長子 李昀(景宗) 1688~1725年
庶二子 盛壽  1690年(早夭)

・禧嬪張氏の詳しい説明はこちら

淑嬪(スクピン)崔氏

生年 1670年(顕宗10年)
没年 1718年(粛宗27年)
享年 43

本貫:海州崔氏

地位: 淑媛→淑儀→貴人→淑嬪

7歳で宮女になり針房に入ったあと仁顕王后に仕えました。仁顕王后が廃妃になると針房に戻り、時期は不明ですが粛宗の側室になります。

昑(クム:延礽君、後の英祖)を出産すると西人派からの支持を得て彼らに協力。禧嬪を訴えます。その結果、禧嬪は死罪になりました。

もともと地位が低かったこともあり、宮中では目立たないようにしていたといいます。晩年は宮殿を出て延礽君とともに暮らしました。

英祖の時代。反乱勢力が流したデマでムスリ(水汲み女)だったことにされてしまい。現代でも風評被害にあっています。

かつての時代劇では禧嬪張氏 対 仁顕王后の対立が中心になって淑嬪崔氏は目立たない脇役でした。

ドラマ「トンイ」のヒロインのモデルになって注目が集まりました。その後は「チャンオクチョン・愛に生きる」「テバク」などでは印象的なキャラクターとして登場するようになっています。

子供:
庶三子 永壽  1693年
庶四子 李昑(延礽君・英祖) 1694~1776年
庶五子 王子  1698年

「延礽君の兄・永壽がもし生きていたら?」という設定が「テバク」

・淑嬪崔氏の詳しい説明はこちら

寧嬪(ヤンビン)金氏

生年 1669年(顕宗10年)
没年 1735年(英祖11年)
享年 67

本貫:安東金氏

地位: 淑儀→昭儀→貴人→庶人→貴人→寧嬪

金昌国は西人派の重臣。仁顕王后と同じ西人派に所属。宮中の様子を父に報告していました。禧嬪張氏を支持する南人派から訴えをおこされ仁顕王后といっしょに廃されます。庶人にされて自宅に戻されました。仁顕王后が復帰すると一緒に宮中に戻り貴人になります。

仁顕王后派の淑嬪崔氏とも親しく。淑嬪崔氏の死後は延礽君(ヨニングン、英祖)の母親がわりになりました。

古い時代劇には仁顕王后の仲間として登場していましたが。現代のドラマでは登場しなくなりました。

䄙嬪(ミョンビン)朴氏

生年 不明
没年 1703年(英祖11年)
享年 不明

本貫:密陽朴氏

地位: 宮女→淑媛→淑儀→貴人→䄙嬪

宮女出身。最初に粛宗の寵愛を受けたのは張玉貞が宮中から追放されていたころ。それから10年あまり経った後。1698年(粛宗24年)に懐妊して淑媛になりました。
延齡君が5歳のときに病死しました。

延齡君は粛宗が最もかわいがった王子です。延齡君も20歳で急死しました。

子供:
庶六子 延齢君(ヨルリョングン) 1699~1719年。

延齢君は「ヘチ」でヨニングンと仲のよい弟として登場します。

貴人 金氏

生年 1690年(粛宗16年)
没年 1735年(英祖11年)
享年 46

本貫:慶州金氏

地位: 淑媛→淑儀→貴人

宮女出身。粛宗が䄙嬪朴氏の死後に寵愛した側室。
1705年(粛宗31年)に 淑媛になりました。
1735年(英祖11年)に病死。

昭儀 劉氏

生年 不明
没年 1707(粛宗33年)
享年 不明

本貫:江陵劉氏

地位: 淑媛→淑儀→昭儀

両親不明。宮女出身。
1698年(粛宗24年)に 淑媛になりました。粛宗は昭儀 劉氏のために土地と家を与えました。儒学者から無駄遣いと批判されています。当時は粛宗の寵愛を受けていたようです。
1707年(粛宗33年)に死亡。祭祀(死者の供養)を行う子供や親類がいなかったので奴婢(宦官と宮女)が祭祀を行いました。正祖の時代に土地と奴婢は国庫に没収されました。

 

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