孝端文皇后はホンタイジの妃。
大清帝国の皇后です。
本名はジェルジェル。
大清にはモンゴル出身の妃が何人かいます。ジェルジェルはモンゴル出身の妃の中で最初に皇后になった人物です。
史実の孝端文皇后(ジェルジェル)どんな人物だったのか紹介します。
孝端文皇后(ジェルジェル)の史実
いつの時代の人?
生年月日:1599年
没年月日:1649年5月28日
姓:ボルジギト(博爾済吉特)
名前:ジェルジェル(Jerjer、哲哲)
称号:孝端文皇后(こうたんぶんこうごう)
父:マングス
母:
夫:ホンタイジ
子供
固倫温荘長公主(マカタ:馬喀塔)
固倫靖端長公主
固倫淑哲長公主
日本では江戸時代の人になります。
清の第2代皇帝ホンタイジの皇后。
おいたち
ジェルジェルは1599年に生まれました。
出身はモンゴル・ホルチン部。ホルチンの祖先はチンギス・ハンの弟ジョチ・カサル。
父マングスはホルチン部の首長でした。ホルチン部はモンゴルの中では最も早くマンジュ国のヌルハチと同盟を結んだ部族でした。
同盟の証としてマングスの娘をヌルハチの息子に嫁がせることになりました。
そこでジェルジェルがホンタイジと結婚することになったのです。
兄弟に後にホルチン部の首領になるジャイサンがいます。
ホンタイジと結婚
万暦42年(1614年)。ジェルジェルはヌルハチの8男ホンタイジと結婚しました。
ホンタイジはすでに鈕祜禄(ニオフル)氏、烏喇那拉(ウラナラ)氏と結婚していましたが、1612年に鈕祜禄(ニオフル)氏が死去していました。
当時の女真族は一夫多妻制。ホンタイジの妻はみな福晋(フジン=夫人)と呼ばれていました。
1616年。ヌルハチが後金(アイシン国)を建国。
夫のホンタイジはベイレ(貝勒=王)になりました。
1623年。ホンタイジは烏喇那拉(ウラナラ)氏を離縁。ジェルジェルが事実上の第一夫人になります。同じ年、姪のブムブダイがホンタイジと結婚しました。
1625年。長女・固倫温荘長公主 を出産しました。
姪のブムブタイがホンタイジのもとに嫁いできました。ブムブタイは、ジェルジェルの兄ジャイサンの娘です。
1626年。ヌルハチが死去。夫・ホンタイジがアイシン国(後金)のハン(君主)になりました。
このころのホンタイジの後宮がどのようになっていたかはわかりません。
先代のヌルハチはアバハイを大福晋と呼んで第一夫人にしていました。ホンタイジが妻達にどのような地位を与えていたかは分かっていません。
1628年。次女・固倫靖端長公主 を出産しました。
1632年。このころまでにはホンタイジの後宮に中宮福晋と西宮福晋がいました。ジェルジェルが中宮福晋だった可能性が高いです。西宮福晋がブムブタイでしょう。
1633年。このころジェルジェルは大福晋と呼ばれていました。大福晋はハン(君主)の妻の中で最も地位の高い夫人の呼び名です。
1634年。三女・固倫淑哲長公主 を出産しました。
この年、姪のハルジョル(海蘭珠)がホンタイジのもとに嫁いできました。ハルジョルはブムブタイの姉です。
ホンタイジはボルジギト家から3人も妃を迎えることになりました。
大清帝国の皇后になる
1636年。ホンタイジが大清帝国(ダイチン)を建国。皇帝(ハーン)に即位しました。ホンタイジは5人の夫人たちに称号を与えました。
8月。ジェルジェルには「中宮国君福晋」の称号が与えられました。事実上の 皇后になりました。
このあたりから一夫多妻制の部族社会の延長のような社会から、皇后と側室が存在する中華的な後宮制度にかわっていきました。
ホンタイジは既に故人になっていたジェルジェルの父マングスに「和碩福親王」、存命中の母に「和碩福妃」の称号を与えました。それぞれ「皇后の父」「皇后の母」を意味する称号です。
順治帝の時代、皇太后になる
1643年。ホンタイジが死去。ブムブダイの生んだフリンが即位しました。順治帝の誕生です。
順治帝はまだ8歳。ホンタイジの弟・ドルゴンが摂政になりました。
順治帝はジェルジェルに「中宮太后」「母后皇太后」の称号を与えました。
順治帝の生母はブムブタイですが。形の上ではジェルジェルが嫡母になります。
ジェルジェルはブムブダイは叔母です。つまり、ジェルジェルは順治帝の大叔母になります。
満洲文字で書かれた文書の中には「母親国君福金(晋)」の言葉も使われており、中華王朝的な称号はまだ定着していなかったようです。
3月。ドルゴン率いる大清軍は万里の長城を越えました。李自成の軍を破り燕京(北京)に入りました。
10月。北京を制圧したドルゴンは順治帝を北京に迎え入れます。
ジェルジェル、順治帝の母・ブムブダイも北京の紫禁城に移り住みました。
1644年。ジェルジェルの母・和碩福妃や親族が北京にやって来て順治帝に挨拶しました。その後、宮廷では宴が行われジェルジェルの母たちは歓迎をうけました。
1649年5月28日。病気で死去。享年51。
「孝端」の諡(おくりな)が与えられました。
後に、夫の諡を重ねて「孝端正敬仁懿哲順慈僖荘敏輔天協聖文皇后」の称号が与えられました。
テレビドラマ
王家の愛 2018年、中国 演:岳麗娜
コメント