宋(北宋)の2代皇帝 太宗 趙炅(趙光義)の即位には疑惑があります。
976年11月14日の深夜。宋の太祖 趙匡胤(49歳)が死去。弟の趙光義(太宗)が即位。太宗は即位後に「趙炅」と改名しました。
宋の歴史書「宋史」には太祖 趙匡胤の崩御から太宗 趙光義の即位までは簡単にしか書かれていません。
太祖 趙匡胤には長男 趙徳秀(年齢不詳)、次男 趙徳昭(このとき25歳)、四男 趙徳芳(23歳) がいました。成人している息子がいるのに弟が即位しました。
でも太祖の死の直前の様子や死因。後継者が趙光義に決まった経緯などはわからないまま。
その後、趙徳秀は謎の死、趙徳昭は謀反を企んだとして自害に追い込まれました。
また中国では日本と違って皇帝が死んでも年内は改元せず。年が開けたら新しい元号を使います。ところが太宗 趙炅はその年の間に改元しました。
そのため宋太宗の即位には「疑惑」がつきまといます。
趙光義は兄の太祖 趙匡胤を殺害して自分が即位したのではないかというのです。
「千載不決の議(せんざいふけつのぎ)」と言って千年たっても答えが出ない議論だとされます。
どの王朝にも怪しい即位はあります。清朝や異民族王朝の場合だと中国人や朝鮮人が王朝を貶めるために根も葉もない噂話を広めました。
宋は漢民族王朝ですから王朝を貶めるためのプロパガンダとしてデマを広める必要はありません。でも王朝内部で疑惑がもたれていました。かといって皇帝の責任追及はできません。
限りなくクロに近い疑惑だから「答えが出ない」ことにするしかないのです。
結局、太祖の死や太宗の即位のいきさつは情報がないので様々な人が様々な噂を流しました。どれが本当でどれが嘘なのかわかりません。そのくらい人々の興味を掻き立てたのでした。
ではどんな噂があったのでしょうか。太宗は周囲の疑惑にどのように対応したのか紹介します。
金匱之盟(きんきのめい)
太宗 趙炅ははもともと軍部に強い人脈をもっています。趙匡胤が将兵に人望が厚かったのもあるかもしれませんが、趙匡胤を皇帝に即位させたのも趙炅(当時の名は趙匡義)が軍を説得したからです。
宋は文化的で中華王朝らしい王朝といわれます。でも最初からそうだったのではありません。最初は武装組織がクーデターを起こして国を乗っ取ってできた国でした。タリバンみたいなものです。軍部の者も強いボスには従いますが、ボスの子供への忠誠心はありません。自分たちの待遇がよくなればいいのです。
ですから太宗 趙炅が即位しても軍部には反対する者はあまりいなかったかもしれません。
でも正当性を気にする文官や後宮では太宗 趙炅の即位に疑問を持つ人も多かったでしょう。
太宗 趙炅も自分の即位に不満な人がいることはわかっていました。なんとしても周囲の疑惑を打ち消すため正当な理由が必要です。
太平興国6年(981年)。太宗が即位して6年。周囲の疑惑の声を放置できなくなったのでしょう。太宗はある遺言を発表しました。それが「金匱之盟」です。
「金匱之盟」とは太宗の母・杜皇太后が死の間際に残したという遺言です。
杜皇太后の遺言
宋の正史「宋史」には以下のようなやり取りが書かれています。
杜皇太后は晩年に病になりました。いよいよ病が重くなると太祖と趙普を呼んで遺言を残しました。
太后「お前はなぜ自分が天下を取れたかわかっているか?」
太祖「祖先と太后のおかげです」
太后「いいや周の世宗が幼子に天下を託したので皆が従わなかったからだ。もし周に年長の君主がいたらお前は天下を取れただろうか?(いやない)お前の後は弟に継がせなさい。年長の者を帝位することは国のためになるのです」
太祖「言いつけに背いたりしません」
趙普が遺言を記録して金匱に保管した。
というものです。
「金匱」とは金の箱(櫃)=金庫のこと。金庫に入れて保管していたので「金匱之盟」といいます。
「金匱之盟」は捏造?
趙普がこの遺言を太宗に見せると太宗は大変喜んだといいます。
でも。そんなに大事な遺言書をなぜ即位して何年も公開しなかったのでしょうか?太祖自身が崩御する前に公開していれば問題なかったはずです。
なぜ太祖は遺言のことを誰にも言わず、太宗の時代になって出てきたのでしょうか?
周の世宗の次はわずか7歳の柴宗訓が即位しました。でも宗の太祖 趙匡胤が死んだとき、子どもたちは成人していました。長男の趙徳秀は生年はわかりませんが。次男の趙徳昭は25歳。四男の趙徳芳も23歳。決して幼子ではありません。
太祖の時代にはそのような遺言があるとは誰も言いませんでした。
太宗と趙普が共謀して遺言をでっち上げたとしか考えられません。
弟が邪魔
ところが「金匱之盟」を出して自分の即位を正当化できたのはいいですが。問題がありました。太宗には同母弟の「趙廷美」がいます。遺言に従えば太宗は自分の子供ではなく弟の趙廷美に継がせなくてはいけません。
そこで太宗と趙普は相談。趙普は「太祖の間違いを正すべきです」と太宗に進言したことになってます。
つまり。親から子への継承が正しい。兄から弟への継承は間違い。だから太宗は弟にはあとを継がせない。というのです。
ずいぶんと都合の良い理屈です。
太宗は趙廷美に謀反の疑いをかけて抹殺しました。
本当に母の遺言があるなら太宗が遺言を破ったことになります。
結局「金匱之盟」は太宗の皇位継承を正当化するためのでっち上げだったのでしょう。
斧声燭影
宋太宗 趙炅の即位には怪しいところが多いので様々な噂話がながれました。
その中でも特に有名なのが「斧声燭影」です。
この話は僧の文瑩が書いた「湘山野録」という本に載っている話です。その内容を紹介します。
雪の夜。太祖が晋王(即位前の太宗 趙炅)を呼びました。太祖は側近を遠ざけて2人だけで万歳殿で酒を飲みました。夜中。側近は蝋燭の明かりで格子窓に映る晋王の姿を見ました。そして斧で雪をたたく音や、太祖の「よい、よい」と叫ぶ声も聞こえました。その後は太祖のいびきしか聞こえなくなりました。明け方近く。晋王が部屋から出て来て、太祖の死を皆に伝えました。
中国にはこうした噂話が多く、歴史的な出来事として伝えられていることもあります。でもどこまで本当なのかわかりません。
太宗が即位した経緯は何もわからないので漢字が書ける文人たちは想像を膨らませて好き勝手な物語を作って発表。人々は「事実」だと信じました。
太宗の即位に疑惑を持つ人達がそれなりにいたのでしょう。
こうして宋太宗は疑惑の中で即位しました。
でも宋太宗 趙炅も歴史に名を残す皇帝になります。 皇帝としては有能でした。だから歴史上は即位の経緯に疑惑はあるもののそんなに悪い皇帝だとは思われていません。趙炅がいったいどんな皇帝だったのか次回紹介します。
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