愛新覚羅 弘時は18世紀の清朝の皇族。
第5代皇帝 雍正帝の第三皇子です。
こどものころから勉強には熱心ではなく、浅はかで問題のある皇子でした。
雍正帝の即位後。皇籍を奪われ監禁。死亡しました。
史実の弘時はどんな人物だったのか紹介します。
弘時の史実
いつの時代の人?
生年月日:1704年3月18日
没年月日:1727年9月20日
享年:24
姓:愛新覚羅(あいしんかくら、満洲語:アイシンギョロ)
名:弘時(こうじ、ホンシー)
称号:なし
父:雍正帝(ようせいてい)
母:斉妃 李氏
正室:嫡福普・董鄂氏
側室:妾鍾氏、妾田氏
子供
男子1人、女子2人
弘時が生きたのは清王朝の第4代皇帝康煕帝~第6代皇帝・乾隆帝の時代です。
日本では江戸時代になります。
弘時の生涯
1704年3月18日(康熙43年)に誕生。
父は雍親王 胤禛(雍正帝)
母は雍親王の側室 李氏(斉妃)
弘時の幼いころは鑲白旗の何清が教育を担当していました。
弘時は学問には熱心ではなく、何清の教え方にも問題があったようです。
5年後。雍親王 胤禛は何清の性格や行いが悪いのを理由に解雇しました。胤禛は即位した後になっても何清は文句ばかり言って皇子の教育を台無しにしたとぼやいていたといいます。
1722年12月27日。父の雍正帝 胤禛が即位しました。
雍正帝の時代
弘時は雍正帝の第三皇子。第一皇子 弘暉(皇后 烏拉那拉氏の子)や弘昀(斉妃 李氏の子)は早くに亡くなっていて。
雍正帝が即位した時、胤禛は最年長の皇子でした。わがままで、節度がなく慎重さにかけました。弟の第四皇子 弘暦よりも劣り、何も功績をあげられず爵位は与えられませんでした。
また父の政敵である允禩とは親しくして連絡を取り合っていました。
允禩はかつて雍正帝と後継者争いをした人物です。
1726年3月21日(雍正4年)。雍正帝は弘時の行いが怪しいと考え、允禩の養子にしました。
紫禁城から出して履親王 允祹(雍正帝の弟)に監視させました。
1727年(雍正5年)。弘時は罪を働き皇籍から除外され監禁され。獄中で死亡しました。享年24歳(数え年)。
雍正帝の死後、皇族に復活
1735年。乾隆帝が即位後。
乾隆帝は弘時を皇籍に戻しました。
このとき乾隆帝は次のように言いました。
「かつて三兄は若く無知で気質がわがままで無頓着であったので。先帝は厳しい刑罰を科し、私の兄弟や他の者に注意すべきことを教えました。 三兄が亡くなって何年も経った今。兄弟の情を思うに、やはりここで系図に載せるべきだと思われる。」
乾隆帝も弘時がわがままで皇族にふさわしくない行いをしていたことは認めましたが。兄弟の情から皇籍だけは残すことにしたようです。でも爵位は与えられていません。何も肩書のない皇族です。
テレビドラマ
宮廷女官若曦 2011年、中国 演:瞿澳暉
宮廷の諍い女 2011年、中国 演:鄔立鵬
瓔珞 2018年、中国 演:顧天天
如懿伝 2018年、中国 演:李解
乾隆帝の時代にはいないはずですが、なぜか「瓔珞」や「如懿伝」でも問題のある皇族として登場します。
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