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錦城大君(クムソンテグン)とは 端宗を守ろうとして処刑された世宗の六男

錦城大君(クムソンテグン)は朝鮮王朝4代 世宗の六男、7代 世祖 首陽大君 の弟、端宗の叔父にあたる王族です。

兄の世祖(首陽大君)が幼い端宗から王位を奪ったあとも錦城大君は端宗を守ろうとして対立。復位計画に関わった末に1457年に処刑されました。

この記事では錦城大君の家系、生涯、世祖に対抗した理由、端宗復位計画との関係、ドラマでの描かれ方まで順番に分かりやすく紹介します。

 

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錦城大君(クムソンテグン)の史実

錦城大君はどんな人?

錦城大君は世宗の六男として生まれた朝鮮王朝の王族です。兄の首陽大君が金宗瑞らを粛清して権力を握ると、錦城大君はその動きに反対して甥の端宗を守ろうとしました。そのため流罪となり、1457年の端宗復位計画に関わったとして命を落とします。

錦城大君のプロフィール

  • 名前:李瑜(イ・ユ)
  • 称号:錦城大君(クムソンテグン)
  • 生年月日:1426年
  • 没年月日:1457年

 

家族

  • 父:世宗
  • 母:昭憲王后
  • 妻:崔氏(崔士康の娘)
  • 子供
  • 花原君
  • 咸原君
  • 春城君

錦城大君は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の4代国王 世宗の6男。7代国王 世祖(首陽大君)の弟になります。

日本では室町時代の人になります。

 

錦城大君(クムソンテグン)の家系図

朝鮮 4代世宗~5代文宗6代~端宗~7代世祖
錦城大君は世宗と昭憲王后の息子。文宗や首陽大君(世祖)の同母弟です。端宗から見ると叔父にあたり、王家内部の争いの中で端宗に味方した人物です。

朝鮮 4代世宗~5代文宗6代~端宗~7代世祖 家系図

錦城大君は世宗と昭憲王后の息子。文宗や首陽大君(世祖)の同母弟です。6代国王 端宗から見ると叔父にあたり、王家内部の争いの中で端宗に味方した人物です。

 

錦城大君の年表

  • 1426年 世宗と昭憲王后の子として生まれました。
  • 1433年 錦城大君に封じられました。
  • 1437年 崔氏と婚姻しました。
  • 1452年 端宗の即位後、王を補佐する立場に入りました。
  • 1453年 癸酉靖難ののち首陽大君と対立しました。
  • 1454年 流配されました。
  • 1457年 端宗復位運動に関わり、賜薬で処刑されました。
  • のちに名誉が回復され、諡号「貞愍」を贈られました。

 

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錦城大君(クムソンテグン)の生涯

おいたち:世宗の六男として生まれる

1426年(世宗8年)。世宗の6男として産まれました。

1433年。7歳のとき、錦城大君の称号を与えられました。

1437年。11歳で崔士康の娘と結婚しました。

宜安君(李芳碩:イ・バンソク)の養子になりました。宜安君は李成桂(イ・ソンゲ)の8男です。李芳遠(イ・バンウォン)が起こした第一次王子の乱で殺害されました。宜安君は既に亡くなっていましたが、家系を継いで宜安君の供養を任されました。

世宗に可愛がられた錦城大君

祖父の世宗は錦城大君をとても可愛がっていました。

錦城大君が疱瘡にかかり危篤状態になったことがありました。心配した世宗は医官の崔濕(チェ・スプ)を派遣しました。治療の効果があったのでしょうか錦城大君は無事回復しました。世宗は大変喜んで、治療を行った医官と関係者に褒美を与えました。

1452年(文宗2年)。兄・文宗が死亡して端宗が即位しました。

端宗即位後に首陽大君とともに忠誠を誓う

錦城大君は首陽大君と端宗に呼び出されます。錦城大君はその場で首陽大君とともに端宗への忠誠を誓いました。

1453年(端宗1年)。首陽大君が安平大君に謀反の疑いをかけて粛清し、金宗瑞(キム・ジョンソ)たち重臣を殺害しました。この事件を癸酉靖難といいます。

首陽大君は自ら領議政になって政治を行いまいました。

それに対して錦城大君は、王以外の者が政治を動かして王をないがしろにしているという点では首陽大君もキム・ジョンソと変わらない。と思うようになります。

癸酉靖難のあと首陽大君に反発する

錦城大君は首陽大君から幼い王を守ろうと決意しました。

しかし端宗を守ろうとする錦城大君の行いは首陽大君の反感を買います。

1455年2月(端宗2年)。錦城大君は親しい者たちを集めて自宅で弓矢の試合を行いました。これを首陽大君は謀反だと口実をつけて錦城大君を捕らえまました。しかしこのときは無罪になりました。

世祖即位後に流罪となる

その後、端宗は首陽大君の圧力に負けて譲位してしまいます。

1455年(世祖1年)。首陽大君は即位して世祖になりました。
錦城大君は再び謀反の罪で捕らえられ順興府(現在の慶尚道栄州)に流罪になりました。財産はすべて没収されました。

錦城大君とともに端宗を補佐しようとしていた恵嬪楊氏、漢南君、永豊君も弾劾を受け。漢南君、永豊君は順興府に、恵嬪楊氏は清州に流罪になりました。

錦城大君はなぜ世祖に対抗したのか?

端宗が即位したあと首陽大君は癸酉靖難で重臣を排除。実際の政治を握るようになります。これに対して錦城大君は王ではない者が政権を動かし、幼い王をないがしろにしていると考えました。

錦城大君にとって問題だったのは兄そのものよりも、王位の正統性が崩れていくことでした。

端宗復位計画の失敗

順興府で復位計画に加わる

1457年(世祖3年)。錦城大君は順興府使の李甫欽(イ・ボフム)らとともに端宗を再び王にしようと檄文を作り兵を集めようとしました。

計画発覚で安東へ移される

この計画は世祖にばれてしまい錦城大君たちは捕らえられてしまいます。イ・ボフムたち関係者は斬首になり、錦城大君は安東に流罪になりました。

端宗は王族の身分を奪われ庶民に格下げになりました。

その後も重臣たちは錦城大君と魯山君の処分を求めて訴えを起こします。

 

錦城大君(クムソンテグン)の最後

1457年に毒薬で死亡する

世祖は錦城大君と端宗に死罪を言い渡します。錦城大君は毒薬を飲み死亡しました。

イ・ボフムが治めていた順興府の住民も反逆者とされ、住民が虐殺されます。順興府は廃止になり他の郡や県に吸収されました。

世祖と側近たちは端宗の復位に関わっていたものには厳しい処分を行い大勢の人々が犠牲になりました。その中には関わっていないものも大勢処刑されています。

この事件が端宗に与えた影響

このころまでに端宗は王から魯山君に降格、さらに王族の地位を剥奪され庶人にされていました。しかし錦城大君たちの復位計画が明らかになると、臣下たちから端宗の処刑の要請があり。世祖は錦城大君だけでなく、端宗の処刑も決定します。

錦城大君の死から1ヶ月後。端宗は王命により賜薬を渡され命を絶ちました。享年16。端宗の遺体は川に投げ込まれました。

 

錦城大君はどのような人物だったのか?

錦城大君は重臣が力を持ちすぎるのは良くないと考えてはいた点では他の兄弟たちと似ています。しかし兄のように自分自身が政治を行おうという野心はなく、祖父・世宗や兄・文宗の教えに忠実であろうとしました。

そんな錦城大君にとっては兄・首陽大君も王位を脅かす存在に思えたのでしょう。

しかしそうした彼の想いは裏目に出てしまい、自分や端宗も死に追いやってしまうことになるのです。

 

テレビドラマの錦城大君

端宗から世祖の時代には癸酉靖難があったため、錦城大君はいくつものドラマに登場しています。

  • ハンミョンフェ KBS 1994年 演:ゴ・インベ
  • 王と妃 KBS 1998年 演:ウォン・ソクヨン
  • 王女の男 KBS 2011年 演:ホン・イルグォン
  • インス大妃 JTBC 2011年 演:チョン・ヒョン

 

王女の男のクムソン大君(錦城大君)

特に最近のドラマファンが注目しているのは「王女の男」でしょう。

ドラマ王女の男 のクムソン大君はスヤン大君に対抗する王族として描かれます。史実でも端宗側の人物でしたが、ドラマではさらに活動的になり、端宗を守るため自ら危険な計画に加わる人物として存在感を強めています。

ドラマ「王女の男」のクムソン大君の役割

ドラマのクムソン大君はスヤン大君の勢力拡大に強い危機感を持つ王族です。アンピョン大君の処刑後、スヤン大君が次は端宗に手を出すと考え、キョンヘ王女やチョン・ジョンとともに行動を起こします。

スヤン大君暗殺計画と失敗

計画の内容は、スヤン大君の長女セリョンとシン・ミョンの婚礼の日に刺客を送り込み一気にスヤン大君を討つというものでした。

でもこの計画はスヤン大君側に知られてしまいます。さらにスンユがセリョンを連れったためスヤン大君を討つ事はできませんでした。スヤン大君はセリョン誘拐の責任をクムソン大君とチョン・ジョンに負わせ二人を捕らえます。

その結果、端宗は退位へ追い込まれました。スヤン大君はその後に即位し、世祖となります。

ドラマではクムソン大君たちの失敗がそのまま端宗失脚へつながる形で描かれており政変の重さが分かりやすく表現されています。

流刑と最期

クムソン大君は流刑地へ送られます。しかし流罪になったあともスヤン大君への抵抗をやめません。流刑先でも世祖を討つ計画を進めますが、その計画も漏れてしまい、最後にクムソン大君は流刑先で賜死となりました。

ドラマでは最後まで端宗を守ろうとしたために命を落とした悲劇の人物として描かれています。

史実との違い

史実の錦城大君も世祖に対抗して端宗復位をめざした王族です。この点ではドラマの描き方と大きく外れていません。

ただし婚礼の日にスヤン大君暗殺を計画したのはドラマの演出です。具体的にどのような形で端宗の復位を進めようとしたのかはわかりません。

ドラマではキョンヘ王女やチョン・ジョンとの連携が強く描かれていますが、どこまで協力し合っていたのかは不明です。

ドラマのクムソン大君を見るときのポイント

癸酉靖難から起こる首陽大君の王位簒奪に抵抗した人物といえば、死六臣などの忠臣達が有名ですが。ドラマでは王族の中にも端宗を支えた人物がいたことをえがいいていて。様々な人物が端宗の正統性を認めて守ろうとしたことが分かります。

 

まとめ

ドラマ王女の男 のクムソン大君は、端宗を守るためにスヤン大君に対抗した王族です。暗殺計画や流刑後の抵抗まで描かれ、史実以上に行動力の強い人物として表現されています。

 

錦城大君 FAQ

Q.錦城大君(クムソン大君)はどんな人物ですか

錦城大君は朝鮮王朝4代王・世宗の息子。端宗の叔父になる王族です。
兄の首陽大君が後に世祖として即位する中で錦城大君は端宗側に立って端宗の地位を守ろうとした人物です。

Q.錦城大君と端宗の関係は?

錦城大君は端宗の叔父です。
端宗は文宗の子、錦城大君は文宗の同母弟にあたります。
王家の中でも近い立場にいたため、端宗即位後の政変では重要な存在になりました。

Q.錦城大君はなぜ世祖 首陽大君 に反対したのですか

A.錦城大君は首陽大君が実権を握り、やがて端宗から王位を奪うと考え反対しました。自分が王になろうとしたのではなく、正統な王である端宗の立場を守ろうとしました。

錦城大君は実際に端宗復位運動へ関わったのですか

A.史実でも錦城大君は端宗復位運動に関わった人物として知られています。
そのため世祖から危険な存在と見なされ流罪となり、最終的には命を落としました。

Q.錦城大君の最期はどうなりましたか

A.錦城大君は流刑にされたあと、最終的に賜死となりました。

Q.王女の男のクムソン大君は史実通りですか

A.完全に同じではありません。
ドラマ 王女の男 ではクムソン大君は記録よりもさらに行動的で。スヤン大君の暗殺を計画する人物として描かれています。
史実でも端宗側の人物なのは同じですが、ドラマは対立や計画の進み方を分かりやすく見せるため、人物の役割を強めて描いています。

 

Q.錦城大君と安平大君の違いは何ですか

A.どちらも世宗の息子で首陽大君の同母弟です。

安平大君は端宗即位直後から首陽大君とともに影響力のあった人物。大臣たちと協力して端宗を支えようとしましたが、癸酉靖難で首陽大君によって排除されました。

一方の錦城大君は安平大君死亡後に端宗復位運動に関わった王族です。重臣が力を持つ体制が良くないと考えるのは首陽大君と似ていますが。首陽大君のように力を持ちすぎて王の権限を圧迫するのは彼らが否定する重臣たちと同じと考えました。

つまり同じ世宗の息子でも、政変の前から注目されていた人物と、政変後に動いた人物という違いがあります。

 

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執筆者:フミヤ(歴史ブロガー)
京都在住。2017年から韓国・中国時代劇と史実をテーマにブログを運営。これまでに1500本以上の記事を執筆。90本以上の韓国・中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを史料(『朝鮮王朝実録』『三国史記』『三国遺事』『二十四史』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。類似サイトが増えた今も、朝鮮半島を含めたアジアとドラマを紹介するブログの一つとして更新を続けています。

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