ロンコド(隆科多)は清朝の政治家。
第4代皇帝康煕帝から雍正帝の時代に活躍しました。
康煕帝の後半におきた後継者争いには加わらず康熙帝の信頼を得ました。
康熙帝の死後、その遺言を伝え雍正帝の即位を実現させましたが。その決定には様々な噂がつきまといました。最終的には雍正帝からも危険視されて失脚してしまいます。
史実のロンコド(隆科多)はどんな人物だったのか紹介します。
ロンコド(隆科多) の史実
いつの時代の人?
生年月日:1658年
没年月日:1728年
姓:佟佳氏(トゥンギャ)氏
明:ロンコド(隆科多)
父:トゥングウェイ(佟国維)
母:不明
子供
長男:岳興阿、次男:玉柱
清王朝の第4代康煕帝~雍正帝の時代です。
日本では江戸時代になります。
出身一族は満洲族の名門 佟佳氏
ロンコド(隆科多)の家は満州鑲黄旗人。
佟佳氏(トゥンギャ)は 満洲八大姓のひとつ。満洲族でもとくに地位が高い一族です。
金(アルチュフ)国(ヌルハチではなくアクダが造った国のほう)の時代には「夾古」と名乗っていたといいます。「佟佳」は地名に由来する言葉。佟佳江流域に住んでいました。佟佳江は鴨緑江の支流。長白山の南を流れる河です。長白山一帯には女真族が住んでいました。佟佳氏もそこで暮らしていました。
漢人化して商売を生業にする者もいました。一族は明に服従していましたがヌルハチが挙兵すると配下になり満洲八旗の一員になりました。
皇帝の義理の家族
叔母は孝康章皇后 佟佳氏。
孝康章皇后 佟佳氏は順治帝の側室。康煕帝の母です。死後、孝康章皇后の称号を贈られました。
父は順治帝時代に大臣を務めたトゥングウェイ(佟国維)。
ロンコド(隆科多)はトゥングウェイ(佟国維)の三男。
姉に孝懿仁皇后 佟佳氏がいます。康熙帝の3番めの皇后です。
つまりロンコド(隆科多)と康煕帝は母方の従兄弟。そして義理の兄弟にもなるのです。
ロンコド(隆科多)の姉・孝懿仁皇后は貴妃時代に四皇子 胤禛を育てていました。
2代続けて皇帝と縁のある人物だったのです。
ロンコドの生涯
1688年(康煕27年)。一等侍衛、鑾儀使、正藍旗蒙古副都統になりました。
八皇子 胤禩を支持する父とは距離をおく
父のトゥングウェイ(佟国維)は佟佳氏を率いる一族の長。他の重臣たちも味方につけて朝廷内でも大きな影響力をもっていました。
このころトゥングウェイ(佟国維)は八皇子 胤禩を支持していました。
でも康煕帝は二皇子・胤礽を皇太子にしています。
トゥングウェイ(佟国維)たちの勢力は皇帝を脅かしそうなほど勢いがありました。
康煕帝の信頼を得る
ところがロンコド(隆科多)は八皇子を支持するトゥングウェイ(佟国維)たちの仲間にはならずに彼らとは距離をおいていました。
若いロンコド(隆科多)は父よりも康煕帝に尽くす立場でした。
1705年(康煕44年)。部下による違法行為が判明。ロンコドは職務を全うしていないとして鑾儀使、正藍旗蒙古副都統は解任。一等侍衛は引き続き務めました。
1711年(康煕50年)。步軍統領になりました。步軍統領とは首都を守る軍隊の指揮官です。
康煕帝はロンコドを步軍統領に任命するときこう言いました。
「おまえは慎重に行動しないといけない。この地位になると良い評判よりも悪い評判を得る方が簡単だ。兄弟・甥っ子・家族の言葉には気をつけろ。先代の步軍統領もこれに苦しんで評判を落とした。油断は禁物だ。気をつけろ」
一度は失脚したロンコドを康煕帝が昇格させたのは派閥争いに加わらなかったことが評価されたからです。康煕帝はロンコドが八皇子を支持する家族や親族とは距離をおくように改めて言いました。
1720年(康熙59年)。理藩院尚書になりました。歩軍統領は引き続き務めました。
このとき康煕帝は幽閉されている廃太子・胤礽や第一皇子・胤禔を監視するように命じました。他の皇族や重臣たちも見張るように命令しました。ロンコドは康熙帝の期待に応えました。
皇帝の遺言を伝える
康熙61年(1722年)。康熙帝が病気になりました。病気になった康熙帝がそばに置いたのもロンコドでした。当時、ロンコドは宮殿にいた最も地位の高い重臣でした。しかも最も高い軍事力を持っていました。
ロンコドは康熙帝の遺言を受け取りました。そこには「胤禛は人格が立派で、私に孝行であり、政治の才能もある。帝位に就くのに適している」と書かれていました。
皇子たちと臣下たちが集められ康熙帝の遺言が伝えられました。
康煕帝の死後。遺言に従って第四皇子・胤禛が次の皇帝になりました。
首都で圧倒的軍事力をもっていたロンコドのもとで譲位が速やかに行われました。皇子たちによる後継者争いもおこりませんでした。
でも、この決定には様々な噂が飛び交いました。胤禛ですらロンコドの行動に疑念をもっていたといいます。
雍正帝時代
朝廷で一番力を持っている重臣
ロンコドは総理事務大臣、吏部尚書、太保になりました。そしてロンコドの長男・岳興阿を後継者にさせました。ロンコドの次男・玉柱には鑾儀使になりました。雍正帝に最も重く用いられていた重臣でした。
このころ。雍正帝はロンコドのことを「舅舅隆科多」=”叔父”と呼んでいました。ロンコドはひきつづき大きな力をもっていたので雍正帝もロンコドには気を使わないといけません。
雍正帝時代のはじめのころ。朝廷の権力はロンコドに集中していました。ロンコドの思惑で人事を決めることもできたので当時の朝廷では「佟選」と呼ばれていました。
当然、雍正帝は面白くありません。なんとか自分が主導権をとれるように考えました。
力を奪われるロンコド(隆科多)
雍正3年(1725年)。ロンコドは歩軍統領を解任されました。次男の玉柱も日頃の行いが悪いので解任されました。玉柱はロンコドの指揮下におかれました。
ロンコドのもつ力のひとつ。軍事力が弱くなりました。
当時、ロンコドは重臣で八皇子派の鈕祜祿 阿霊阿(ニオフル アリンガ)、納蘭 明珠(ナーラン ミンジュ)の次男・揆叙、年羹堯(ねん ぎょうこう)らと親しくしていました。
かつて康煕帝からは「派閥には加わるな」と言われました。でもこのころには彼らと行動をともにしていました。派閥の力を抑えたい雍正帝にとっては邪魔な存在になっていました。
雍正帝は阿霊阿、明珠、年羹堯らを次々に処刑。そしてロンコドには「過去の教訓を忘れるな、慎重に行動しろ、そうしないと破滅をもたらすぞ」と忠告しました。
雍正4年(1726年)。ロンコドの家僕がその権力を利用して賄賂をとっていることがわかりました。裁判の結果、ロンコドの家僕は処刑されました。
ロンコドは中央の役職を解任され、地方の属領の管理を任されました。そしてすぐに雍正帝から清とロシアの国境を調査するように命じられました。
雍正5年(1727年)。「四十一大罪」を理由にロンコドを無期懲役にしました。長春園に小屋を建てロンコドはそこに幽閉されました。長男・岳興阿は解任され、次男・玉柱は黒竜江に送られました。財産は募集され、妻子は辛者庫おくりになりました。
雍正6年(1728年)。ロンコドは幽閉先で死亡しました。
若い頃、派閥をつくり康煕帝に対抗している父に反発して康熙帝の味方になりました。でも自分が歳をとってみると派閥をつくり父を同じようなことをしています。その結果、身を滅ぼすことになってしまったのでした。権力の魅力には勝てないということでしょうか。
ロンコドをめぐる噂話
雍正帝の即位には雍正帝の在位中から様々な噂が飛び交いました。満洲人に支配されるのを快く思わない漢人たちが様々な文章を書いて広めたからです。
雍正帝はそうした漢人たちに向けて書いた文書に「康熙帝が允禵に引き継ぎたいと思っていたのにロンコドが遺命を改ざんして私に継がせてたという噂がある。だがこれは私と康煕帝に対する侮辱である」と書いてあります。
また、清朝時代に作られた逸話では。
康熙帝の死後。ロンコドが一人で雍正帝を擁立した。ロンコドは乾清宮に掲げられた“正大光明”の額の後ろに隠された「密勅」に「傳位十四子」にロンコドが「十」に線を継ぎ足して「傳位于四子」にした。
という噂が広まりました。この噂は湖南、広西地方から広まり各地に広まりました。
しかし額の後ろに密勅を置くのは雍正帝時代に始まったことです。康煕帝時代にはありません。また密勅は漢文と満洲語の両方で書かれているので「漢字に線を継ぎ足す」方法は漢字にしか使えません。満洲語まではごまかせないのです。この噂は明らかな間違いなのです。
でもこの種類の噂は様々なバリエーションを生見出しながら広まりました。
ドラマなどではロンコドは第四皇子・胤禛と結託して康熙帝の遺言を捏造して胤禛を即位させた。あるいは胤禛の手先として働いた。という描かれ方をすることが多いです。でも実際はロンコドの方が大きな力を持っていた。雍正帝はそれが不満だったようです。
テレビドラマ
宮廷女官 若曦 2011年、中国 演:趙家林
宮廷の諍い女 2012年、中国 演:張 毅
花散る宮廷の女たち 2017年、中国
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