オボイ(鰲拝)勇者と独裁者の二つの顔をもつ奸臣

大清1.5 清の重臣・役人・男達

オボイ(鰲拝)は清朝の重臣。

「オーバイ」ともいいます。

ホンタイジに仕え後金から清朝の発展に貢献しました。

奸臣(よこしまな家来)として知られるオボイですが。

若いころはさまざまな戦場で手柄を立てた勇猛な武将でした。

ホンタイジの死後、ドルゴンによって左遷。でもドルゴンの死後、順治帝に呼び戻されて仕えました。順治帝からは信頼され重要な役職を任されます。

順治帝の死後に即位したのは8歳の康煕帝。

オボイはドルゴンのような独裁的な力をもつようになりました。

でも成長した康煕帝とその仲間によって捕らえられ獄中死しました。

清のために勇敢に戦った前半生と独裁者になった後半生で評価が全く違うのがオボイです。

史実のオボイはどんな人物だったのか紹介します。

 

スポンサーリンク

鰲拝(オボイ)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1610年ごろ
没年月日:1669年

姓:瓜爾佳(グワルギャ)
名:鰲拝(オボイ、オーバイ)
旗:満洲鑲黄旗
父:ウイチ(衛齊)
母:不明
妻:不明

子供:ナムフ(納穆福)

彼が活躍したのは清朝(後金)の2代崇徳帝(ホンタイジ)~4代康煕帝の時代です。

日本では江戸時代の人になります。

オボイの生まれた瓜爾佳氏とは

グワルギャ・ハラ(瓜爾佳氏)は満洲八大姓のひとつ。
ヌルハチが挙兵した初期のころから付き従っている有力な一族です。

祖父ソルゴはグワルギャ・ハラ(瓜爾佳氏)の族長でした。

1588年。ソルゴは一族を引き連れてヌルハチの軍に合流しました。

ヌルハチはジュシェン(女直)の組織をグサ(旗)に再編成。グワルギャ(瓜爾佳)の一族は鑲黄旗に所属になりました。

鑲黄旗はヌルハチのホンタイジが指揮しました。

父 ウイチ(衛齊)はムクデン(盛京、現在の中国瀋陽市、かつての後金の首都)の駐屯地司令官でした。

叔父 フィオンドンはヌルハチの最も信頼できる将軍の一人でした。

オボイのおいたち

オボイがいつ生まれたのか記録はありません。1600~1610年ごろに生まれたと考えられています。

オボイは三男でした。

1616年。ヌルハチがアイシングルン(後金)を建国。

1626年。ヌルハチが死去、ホンタイジが2代目ハン(王)になりました。

「英雄」と呼ばれたホンタイジ時代

1632年。オボイは明への奇襲作戦に参加。手柄をたてました。

1634年。騎兵隊隊長になりました。その後、何度も明と戦い勇敢な武将として知られるようになります。

1633と34年におきたモンゴル・チャハル部との戦いにも参戦しました。

1636年。ホンタイジは ハーン(皇帝)を名乗り国名を ダイチン(大清)に変更しました。

1637年。朝鮮との二度目の戦争「丙子之役」の期間中。オボイは遼東半島で戦いました。鴨緑江の南にある皮島(現在の北朝鮮・椵島)をめぐって明と戦いました。島への上陸作戦を成功させ、明軍を全滅させました。皮島は小さな島ですが明との戦いを続けるためにも重要な島でした。

この戦いでオボイは三等男爵になり バトゥル(巴圖魯、満州語で英雄の意味)の称号が与えられました。

1641年。「松錦之戦」が行われました。遼東に残る明の最後の拠点が陥落。明にとっては大きなダメージになりました。オボイはこの戦いでも手柄をたてました。

ドルゴンに陥れられ失脚

1643年。ホンタイジ(崇徳帝)が死去。

ホンタイジの長男ホーゲとホンタイジの弟ドルゴンの間で後継者争いが起こりました。

オボイは自分が所属する鑲黄旗の旗王だったホーゲを支持しました。

ドルゴンを支持する派閥が優勢でしたが。最終的にホンタイジの末子フリンが即位することで決着。ドルゴンが摂政になりました。

6歳のフリン(順治帝)の代わりにドルゴンが国を動かしました。

1644年。李自成が反乱を起こして明が滅亡。すると山海関を守っていた呉三桂が清に投降。ドルゴンは李自成を破って北京を占領しました。

1644年から1648年の間、オボイは英親王アジゲに従って明の残党との戦いを続けました。

1548年。ドルゴンは摂政王を名乗るなど独裁を強めました。政敵への追求を止めません。ドルゴンはホーゲを陥れて投獄しました。

オボイも「嘘の戦勝報告をした。ホーゲを担いで皇帝にしようとした」などの罪で死刑の判決が出ました。

当時、オボイは明と戦場で戦って功績を残していたので死刑は取り消し。身分と称号が剥奪されました。

1650年。ドルゴンが死亡。順治帝フーリンが自ら政治を行うようになりました。

順治帝を支える大臣になる

1651年。それまでの働きと旗への忠誠が認められ。オボイへの処分は取り消しになりました。オボイへの訴えはドルゴンがでっち上げた嘘の罪状だったようです。

オボイは順治帝フリンから議政大臣に任命されました。

1652年。オボイは二等公、領侍衛内大臣(首都防衛の責任者)に任命されました。首都防衛部隊を任されたオボイは順治帝のやりたい政治を実現するため、ドルゴン派の力を抑える働きをしました。

少傅兼太子太傅などを任命され、順治帝の腹心として地位を高めました。

順治18年(1661年)。順治帝が天然痘のため死去。享年24。

順治帝の四男で8歳の玄燁(げんよう:康熙帝)が即位しました。

順治帝の遺言で、ソニン・オボイ・スクサハ・エビルンの4人が輔政大臣に任命されました。幼い康熙帝を助けて政治を行いました。順治帝は幼い頃ドルゴンの独裁に苦しめられました。そこで一人に権限を集中させるのではなく4人の大臣を任命して権力を分散させたのです。

康煕帝時代・ドルゴン化するオボイ

ソニン・オボイ・スクサハ・エビルンの輔政大臣四人体制は最初は上手く行っていました。正黄旗のソニン、鑲黄旗のオボイ・エビルン、正白旗のスクサハはそれぞれ所属するグループが違います。

もともとホーゲの部下だったオボイとドルゴンの部下だったスクサハは仲がよくありません。順治帝の信頼が厚かったオボイは大きな力を持っていました。

でも年長者のソニンが生きている間はオボイとスクサハの対立をうまく抑えていました。

ソニンが高齢のため病気になり休みがちになります。するとオボイがエビルンを味方にひきこみ自分の派閥を大きくします。そして政治の意思決定の場からスクサハを追い出そうとしました。

危機感をもったソニンは14歳の康煕帝に親政(皇帝が自分で政治を行うこと)を行うよう要請しました。

康熙6年(1667年)。ソニンが死去。オボイを止められるものがいなくなりました。

康煕帝は自ら政治を行う権限を得てオボイたちは顧問になりました。でも康煕帝には実際の力はありません。

見の危険を感じたスクサハは隠居を届け出ます。でもオボイは逆に罪をでっちあげてスクサハと家族を処刑しました。

エビルンはオボイのいいなりです。こうしてオボイの独裁体制が完成しました。

結局、オボイは順治帝時代に独裁的な力を持ったドルゴンのようになってしまいました。

オボイの独裁に面白くないのは康熙帝です。

でも政治を行う権利があるといっても康煕帝はオボイの言う通りにするしかありません。康煕帝は頼りになりそうな貴族の少年たちを選び彼らと一日中モンゴル相撲にあけくれました。

オボイは康煕帝が政治に興味がないと思って油断しました。

 

オボイの最期

康熙8年5月(1669年)。康煕帝は理由をつけてオボイの取り巻きたちを各地に派遣、都から遠ざけました。

康煕帝は忠誠を誓う者を首都防衛隊に配置。オボイを宮殿に呼び出しました。オボイはそれまでも何度も宮殿に呼び出しをうけていたので気にせずに宮殿に行きました。

宮殿には康煕帝と10代の若い衛兵がいました。

康熙帝の命令で突然、衛兵達がオボイに襲いかかってきました。油断していたオボイは取り押さえられてしまいます。オボイは30の罪で逮捕されてしまいました。

オボイと一族は死刑に決まりました。

康煕帝はオボイが長い間、清朝に仕えてきたのでオボイだけは終身刑にしました。

でも年内にオボイは獄中死しました。

康熙52年(1713年)。かつての功績でオボイの罪は許されました。

 

オボイとはどんな人

オボイは若い頃は手柄を立てバトゥル(英雄)の称号ももらいました。ホンタイジや順治帝に忠誠を尽しました。そのままで終わっていたら名将・忠臣として名前が残ったかも知れません。ところがオボイは力を持つと変わってしまいました。

オボイは主君ホーゲがドルゴンに殺され、自分自身もドルゴンの独裁に苦しめられました。でも自分が力を持つとドルゴンのようになりました。

自分が苦しめられたから、自分は人を苦しめる人間にはならない。ではなく。
自分が苦しめられたから、自分が力を持てばいい。というのが大陸の考え方。

オボイも力で生きる世界の住人だったということです。

 

テレビドラマのオボイ

皇帝の恋 寂寞の庭に春暮れて 2016年、中国 演:徐少強

於成龍 2017年、中国 演:臧金生

鹿鼎記 2020年、中国 演:劉天佐

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました