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万貴妃(明成化帝)悪女伝説まとめ

明 2.2 明の皇后・側室・公主

万貴妃は明朝の9代皇帝・成化帝の側室。

成化帝よりも20歳近く歳上で、皇帝の寵愛を独占した側室と言われます。

万貴妃は非常に嫉妬深く。様々な悪女伝説があります。

他の側室を強制的に堕胎させたり、皇子を暗殺しようとしたり、皇太子を毒殺しようとしたり。したとも言われます。

明朝を代表する悪女と言われる万貴妃ですが。いったいどのようなことをしたのでしょうか?

そして本当なのでしょうか?

悪女として語られる万貴妃の物語はどうなっているのか紹介します。

 

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皇太子時代の朱見深と万貴妃の出会い

万貴妃の本名は万貞児(ばん・ていじ)

万貞児の父・万貴(ばん・き)は地方の役人でした。宣徳年間、万貴は罪を働き順天府に送られます。

万貞児は4歳で宮中に入り孫太后の侍女になりました。万貞児は頭がよく、衣服やアクセサリーの管理を任されました。

成長して仁壽宮の小答応(下級女官)になりました。

正統14年(1449年)。土木の変で正統帝がオイラトの捕虜になり、息子の朱見深(しゅ・けんしん)は2歳で皇太子になりました。

孫皇太后は万貞児を朱見深の保姆(ほぼ=世話係)に任命。万貞児は朱見深の養育を一手に引き受けました。17歳歳上の万貞児はとてもよく気がきいて朱見深が望んでいることがよくわかりました。

しばらくすると朱見深の叔父の景泰帝が即位。朱見深は皇太子のままでした。

景泰3年(1452)。景泰帝は自分の息子・朱見済(しゅ・けんせい)を皇太子にしました。

朱見深は皇太子を廃されて自宅軟禁になりました。

万貞児は朱見深とともに暮らし彼を献身的に支えました。5歳の朱見深は両親と引き離されて軟禁状態になったので万貞児(22歳)が頼りでした。

朱見深は10歳になるまで万貞児と暮らします。

万曆年間の野史「万曆野獲編」によると。
「万氏は豊満な体で艶っぽい。皇帝は見るたびに色気づいて飛んでいく」

清朝時代の野史「罪惟錄」では
万氏は「美しい姿、素晴らしい声、まるで男のよう」

と書かれています。

ちなみに「野史」とは 作り話・うわさ話を集めた歴史書風の本。
 日本でいえば「源義経はジンギスカンになった」「真田幸村は生きていた」みたいな本。

本によっては幽閉期間に万貞児と朱見深は私通したともされます。

景泰8年(1457)。父の天順帝(英宗)が再び即位しました。

朱見深(10歳)も復帰しては開放され、万貞児(27歳)とともに宮殿に戻りました。朱見深は再び皇太子になりました。

天順6年(1462年)。孫太后が死去。

皇太子・朱見深の侍女になる

万貞児は東宮殿の侍女として朱見深に仕えます。
万貞児は32歳でしたが見た目には20代のようでした。朱見深は15歳。二人は密かに関係を持ちました。

ところが朱見深と万貞児の関係を知った天順帝(英宗)は、年上の宮女が若い皇子を誘惑したと怒ります。万貞児は百叩きの刑になりました。

でも朱見深と万貞児の関係は続きます。

天順8年(1464年)。天順帝が死去。朱見深(成化帝)が即位しました。

補足とツッコミ

朱見深と万貞児がいつ男女の関係になったのかはわかりません。万貞児が東宮殿に来てからでしょう。

中国人はエロチックな妄想が好きなので軟禁中に密通したと書いてある本もあります。当時の朱見深はまだ5~10歳です。いくらなんでももり過ぎではないでしょうか。

成化帝の時代

「明史・后伝」によると

成化帝は16歳。35歳になっていた万貞児でしたが皇帝に気に入られていました。

そして皇后呉氏を陥れて廃位させ、宮殿に入りました。

成化帝が外出する時、万貞児は戎服(軍服)を着て成化帝の前を守るように歩きました。

成化2年(1466年)。万貞児は男子を出産。万貞児は「貴妃」になりました。

11月。ところが長男は1歳になる前に亡くなってしまい、成化帝も万貴妃もショックを受けてしまいます。

その後、万貴妃に子はできませんでした。

当時、皇帝には跡継ぎがいなかったので宮中の者たちも心配していました。臣下の李森、魏元、康永韶たちが皇帝に進言しました。でも皇帝は「内のことは朕が決める」と相手にしません。

万貴妃は成化帝の寵愛を集めますます傲慢になりました。

嫉妬深い万貴妃は宮中で妊娠した者がいると堕胎させました。

柏賢妃は悼恭太子を生みましたが万貴妃に殺されました。

宮中に仕えている者は万貴妃の気に入らないことがあると追放されます。薬を飲んで体を壊した人は無数にいました。

補足とツッコミ

万貞児が軍服を着て皇帝の前を歩いたというのは当時の記録にはありません。後の時代の作り話のようです。遊牧民の国ならわかりませんが。儒教を重んじる明で側室が軍服を着て皇帝の前を歩くのは考えられません。それくらいのことをしたら面白いとは思いますけれど。

「万貴妃が柏賢妃の生んだ悼恭太子を殺した」と書いてあるのは「万曆野獲編」という書物。万貴妃の死後100年以上たってつくられた噂話を集めた本です。

明史にも万貴妃が悼恭太子を暗殺したとは書いてません。万貴妃を嫌いな人はけっこういたのでそういう噂話はあったのでしょう。

手下を使って賄賂を集める

覃勤、汪直、梁芳、韋興たちは万貴妃に媚びて彼女のために働きます。民をゆすって財産を奪い、国庫から金を盗んで万貴妃を喜ばせました。

祭壇を作り奇妙な儀式や技を行い、無駄な浪費をしました。

補足とツッコミ

賄賂をとっていたのはそのとおりでしょう。中国の権力者が賄賂を取らないほうが珍しい。問題はその量です。万貴妃クラスになれば多かったのでしょう。万一族はかなりの財を溜め込んでいたようなので賄賂は多かったようです。

祭壇や儀式は実際に成化帝が凝っていた道教の儀式や房中術のことだと思われます。中国皇帝は道教の儀式や秘薬が好きです。成化帝がしていたのは事実です。大勢の導師や術者を雇ってました。

でも万貴妃がやっていたとか万貴妃がけしかけたかどうかはわかりません。でも皇帝を批判できないので「悪い手下や女」のせいにするのです。

万貴妃の魔の手を逃れた皇太子

あるとき成化帝は書庫で宮女の紀氏に手を出して紀氏が妊娠しました。

万貴妃がそれを知り、紀氏は病気と報告。紀氏は追放されて安楽堂で男子(朱祐樘:弘治帝)を出産しました。

朱祐樘(弘治帝)が生まれた時。頭頂部には毛がなく薬の影響だと言われた。

紀氏は門番の張敏に男子を預けて「溺死させてください」と頼みました。

張敏は驚いて「皇帝には息子がいないのになぜ捨てるのですか?」と聞きました。

廃后呉氏は安楽堂の近くの西宮に住んでいて、その事を知り密かに食べ物を与えていました。朱祐樘は部屋に隠され飴蜜を与えられて育てられました。

成化帝はそのことを知りません。

悼恭太子の死後。跡継ぎがなく宮中の者は心配していました。

成化11年。成化帝は張敏を呼んで「子供がいない」とため息をつきました。

張敏は「死を免れた子供がいます」と報告。

成化帝は喜んで迎えに行かせました。皇子が到着すると成化帝は大喜びで迎えました。

群臣は皆大喜び。紀妃は永壽宮に迎え入れられました。

それを聞いた万貴妃は「私を欺いたな」と日夜怨んで泣きました。

その年の6月。紀妃が突如死亡しました。

万貴妃のせいで死んだとされることもあれば。自殺したと言われることもあります。

皇子を助けた張敏は怖くなり金を飲み込んで自殺しました。

補足とツッコミ

歴史上は紀氏が朱祐樘を生んだ時には柏氏の息子・悼恭太子はまだ生きています。張敏が「皇帝には皇子はいない」というのは嘘です。失礼です。

そのあと。廃后の呉氏が引き取って飴や蜜で赤子を育てたことになってます。「飴で子供を育てるなんて幽霊か」と思います。

呉廃后にそこまでの力があるとは思えません。もし本当に5年間、万貴妃から隠すことに成功したのなら皇太后や皇帝も関わって組織的に行ってるはずです。そうでなければいきなり出てきた皇子を皇帝が我が子として認めるはずがありません。

また、成化11年に張敏が自害したのも間違い。成化14年に張敏が生きていたのは確認されています。張敏は成化21年ごろまで生きたようです。

金を飲んで死ぬの意味

中国の古典文学に出てくる自殺のパターン。

古代中国では「生の金」は有毒と信じられていました。「生の金」とは精錬されていない金の原石で、原石には水銀や鉛も含まれているので有毒。という意味です。

ところがいつの間にか「金」そのものが危険だと思われるようになって、物語の表現として使われました。たまに小説や中国ドラマでも出てきます。テレビドラマで見たらギャグにしか思えません。

もうひとつの意味は貴金属ではなく、金物や刃物を飲み込んで死亡することを意味するという説もあります。現実には金属を飲み込んだからといって簡単には死にません。むしろ苦しみが長く続きます。

人が回転して空を飛ぶのと同じ中国あるあるのひとつ。

どちらにしても「金を飲み込んで死ぬ」表現が出てきたら作り話と思ったほうがいいでしょう。

皇太子毒殺失敗で憤死

朱祐樘は皇太子になりました。

周皇太后は仁壽宮で暮らしていました。成化帝の頼みで皇太子も一緒に仁壽宮で暮らし始めました。

あるとき。万貴妃が皇太子にオウムを贈りました。そのオウムは皇太子を侮辱する言葉を言ったので皇太子はオウムを殺しました。

補足とツッコミ

万貴妃がオウムを贈ったのは事実で皇子がオウムを殺したのも事実のようです。でも幼い皇子は鳥が「皇太子千万歳」と喋ったのを聞いて「人の言葉を喋る妖怪」と勘違いして殺しました。侮辱されたからではありません。

皇太子毒殺未遂

あるとき万貴妃が皇太子を食事に誘いました。それを知った周皇太后は「万貴妃が出したものは食べてはいけない」と皇太子に言いました。

皇太子は万貴妃出したスープを見て「食べないのですか?」と聞くと。万貴妃は「お腹いっぱいです」と言いました。皇太子は「毒が入っている」と言いました。

万貴妃の最期

皇太子の毒殺に失敗した万貴妃は怒りで病気になりました。

成化23年。万貴妃は突然死亡。

皇太子の暗殺に失敗して憤死したのだともいいます。

「恭肅端慎榮靖皇貴妃」の諡が与えられ天壽山に葬られました。

弘治帝の即位後。

御史の曹璘は万貴妃の諡号を削除するように要求。

魚臺県の徐頊は紀太后を診察した意志を捕まえて追求してください。万家の者を逮捕してくださいと要求しました。

弘治帝は父に敬意を持っていたので拒否しました。

補足とツッコミ

当時の大臣の証言記録から万貴妃が皇太子・朱祐樘を可愛がって育てていたことがわかっています。その皇太子を暗殺しようとしたとは考えづらいです。朱祐樘の実母・紀妃は病気だったらしいですが。万貴妃に問題があるとしたら皇子を実母から切り離したことでしょう。

万貴妃が皇太子を我が子にしようとするのを、周囲が万貴妃と皇子を引き離そうとしていたのではないでしょうか。

「皇子の暗殺に失敗したらから憤死」というのは意味がわかりません。

万貴妃が死亡した成化23年には、成化帝には10~11人の息子がいました。実子のない万貴妃が皇太子だけ殺しても意味ありませんね。

万貴妃は56~7歳で死亡しました。当時なら病気や寿命で亡くなってもおかしくはありません。

万貴妃の悪女伝説は作り話?

「明史 列傳第一 后妃一​​」などで万貴妃かなりの悪女とされています。

ところが「明史」の万貴妃の内容は明時代末期に 毛奇齡 という宦官が書いた「勝朝彤史拾遺記」という小説とそっくり。しかも毛奇齡は「明史」の編纂にも関わっています。毛奇齡は古い宦官から聞いたらしいですが100年も前のことがどれだけ正確に伝わっているか疑問です。

「明史」は清朝時代に作られた歴史書。歴代中国の歴史書の中では完成度が高です。それでも一部に怪しい部分もあり、万貴妃の部分は信用できないといわれます。

乾隆帝も「万貴妃の記録は 野史(世間の噂話)のようだ信用できない」と言っています。

万貴妃も確かに成化帝より17歳歳上。成化帝が異常に愛した女性なのは間違いないでしょう。嫉妬深かったり賄賂を受け取ったり、一族が出世したり。と模範的で善良な人とはいえませんが。だからといって言い伝え通りの悪人ともいえなさそうです。

世間に広まっている万貴妃のイメージは脚色されすぎているようです。

現在では万貴妃が他の側室を堕胎させた、他の側室を殺害した、皇太子を毒殺しようとした。などの話は信憑性が薄いとされます。

 

古い記録をもとに再現した史実に近い万貴妃の人物像はこちらで紹介しています。

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