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女医明妃伝ヒロイン允賢のモデルは談允賢と杭皇后

明 4.5 明

中国ドラマ「女医明妃伝」に登場するヒロイン允賢(いんけん)は実在の人物ではありませんが。モデルになった人物がいます。

允賢のモデルになった実在の人物について紹介します。

ドラマのヒロイン杭允賢は中国4大医女の談允賢と景泰帝の妃・杭皇后を足した人物です。

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談允賢

生年:1464年
没年:1554年または1556年。
享年:91または93

名称:談允賢(だん・いんけん)
父:談綱
母:錢氏
夫:楊氏
子:楊濂、3女

談允賢が生きたのは明の時代。
日本では室町時代になります。

1461年。談允賢(だん・いんけん)医師の家系に産まれました。彼女の家系は医術が得意な一族でした。父・談綱は医師でした。兄弟の談麟、談鳳は

允賢も祖父・談復と祖母・茹氏の影響をうけて幼い頃から医術を勉強しました。10代のときにはさまざまな医学書を読んでいました。

允賢の祖母は薬の知識が豊富でした。祖母からは薬の知識や医療の技術を学びました。

明は儒教の考えが広まっていました。儒教社会では女性の地位が低く、女性の医師もほとんどいません。女性でも男性の医師に診てもらうしかありません。でも多くの女性は男性の医師には相談したいとは思いません。病気が悪くなって手遅れになる女性も大勢いました。

そのような世の中で医師になった談允賢(だん・いんけん)のもとには診察してくれという女性がたくさんやってきました。しかも彼女の実力がすぐれていたのでますます評判になりました。

王室の女性も允賢に相談して治療を受けました。

談允賢は楊氏と結婚。結婚直後に病気になり苦しみましたが自分で診断をして薬をテストしました。

1551年。祖父母から伝授された医学知識に自分の経験を加えて「女醫雜言」を書きました。女醫雜言は談允賢が実際に診療した31人の治療実績も書かれた婦人科の専門書です。出産、性病、産後の病気、腹部切開の治療例が載っています。

談允賢は自分自身の健康管理も上手だったのでしょう。90歳を超える長生きでした。

1556年か1554年。94歳か92歳で亡くなりました。

談允賢の活躍で女性が医術を行うことへの理解も進みました。中国医学でも歴史に残る人物です。中国四大医女の一人といわれます。

杭皇后

称号:粛孝皇后
生年:1427年
没年:1456年
享年:30
父:杭昱
夫:景泰帝(朱祁鈺)
子:朱見済(懐献太子)

父の杭昱は庶民。明の時代、正統年間(1436~1449年)に朱祁鈺(後の景泰帝)の屋敷に入り側室になりました。

息子の朱見済を産みます。

英宗(正統帝)がモンゴル(オイラト)に捕らわれて弟の朱祁鈺(景泰帝)が即位しました(土木の乱)。
景泰帝が即位すると杭氏は妃になりました。

1452年(景泰3年)。景泰帝は甥の朱見深(後の成化帝)を皇太子から廃して自分の子・朱見済を皇太子にしました。

その決定に汪皇后が反対すると、景泰帝は激怒して汪皇后を廃して杭氏が皇后になりました。

ところが翌年、朱見済が死亡。

1456年(景泰7年)。杭皇后が死亡しました。

死後。粛孝皇后の諡(いみな)が贈られました。

1457年(景泰8年)。景泰帝が病になると奪門の変が起こりました。
景泰帝は幽閉されて英宗が即位しました。
景泰帝はまもなく病気が悪化して死亡しました。(暗殺されたともいわれます)

英宗は実子の朱見深が廃太子になったのを恨んで杭皇后の墓を破壊。親族も弾圧しました。

杭允賢は架空の人物

談允賢が生きたのは1464~1554年。杭皇后は1427~1456年。

杭皇后の死後に談允賢が産まれています。2人は面識もなくまったく関わることなく亡くなっています。明の時代の女性ということくらいしか共通するものがありません。

杭允賢は談允賢の実績と杭皇后の身分を足したような人物です。ドラマは杭皇后が生きた時代が舞台になっています。

だからストーリは完全に作り話。ドラマ前半は杭允賢の話、ドラマ後半は杭皇后の物語と考えたほうがいいくらいですね。

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