孟思誠(メン・サソン)は李氏朝鮮の重臣です。太宗や世宗の時代に活躍しました。
特に世宗時代には要職につき黄喜(ファン・ヒ)とともに世宗を支えました。
世宗と重臣たちが対立した時、孟思誠と黄喜はそれぞれ違った立場から王を支えました。黄喜が正論を主張して厳しい態度をとることが多かったのに対して、孟思誠は温和な態度で周囲を説得することが多かったようです。
その一方で、北への領土拡大については積極的で女真族征服の作戦を考案した人物です。
史実の孟思誠(メン・サソン)どんな人物だったのか紹介します。
孟思誠(メン・サソン)の史実
いつの時代の人?
生年月日:1360年 8月28日
没年月日:1438年 10月22日
名前:孟思誠(メン・サソン)
雅号:古佛
本貫:新昌孟氏
派閥:
父:孟希道
母:洪氏
妻:東州崔氏
子供:孟歸美
彼は高麗末期から朝鮮王朝(李氏朝鮮)4代世宗の時代の人物です。
日本では室町時代の人になります。
高麗時代
1360年。開京(開城)で生まれました。
父の孟希道は高麗の役人でした。
1386年。科挙の文科に合格。
芸文館・春秋館検閲、典儀監丞・起居舎人・右献納を歴任しました。
高麗から朝鮮の時代
1392年。李成桂(イ・ソンゲ)が高麗を滅ぼして朝鮮を建国しました。
孟思誠(メン・サソン)は辞職してストライキを行います。しかし仲間に説得され朝鮮に仕えました。
妻の祖父は高麗の将軍・崔瑩(チェ・ヨン)。孟思誠も崔瑩を見習って人生の師と考えていました。崔瑩は李成桂のクーデターに抵抗して殺害されました。しかし李成桂は孟思誠が有能な人材とみていたので連座させずに採用しました。
太宗時代
1408年。 司憲府の大司憲を務めました。このとき、事件の調査中に趙大林が容疑者になりました。太宗の娘婿でした。孟思誠(メン・サソン)は太宗に報告せず趙大林を拷問しました。すると王族を侮辱したと重臣たちに避難され孟思誠は処刑されそうになりました。しかし領議政の成石璘や黄喜(ファン・ヒ)が庇ったので命は助かりました。
1416年。吏曹参判や礼曹判書になりました。
この年。年老いた父が病気になったので看病のため辞職しようとしましたが却下されます。かわりに薬を支給されました。
1417年。忠清道観察使になりました。
また太宗が讓寧大君から王世子の位を剥奪しようとすると反対しました。
世宗の時代
1418年。世宗が即位しました。工曹判書になりました。
このときも辞職をもとめましたが却下されました。
1419年。吏曹判書と礼文館大提学になりました。
1421年。議政府の賛成使を務めました。
1430年。左議政になりました。
黄喜とともに世宗を支えました。
金宗瑞(キム・ジョンソ)が有能な人物と見抜き、些細なことでも厳しく指導しました。その後、兵曹判書に採用し自分の後継者にしました。
女真征服
世宗の時代は朝鮮の北の国境線が定まった時代です。
世宗の即位後、太宗主導で行った対馬征服が失敗に終わり。世宗のもとで日本との関係改善を行っていたころ。北の国境では女真族の侵入が続いていました。
そこで当時の官僚達は北方の領土を放棄することを提案していました。しかし北の咸鏡道は王朝の創始者・李成桂の出身地です。世宗としては祖先の土地を放棄することはできません。
領議政の黄喜(ファン・ヒ)たちは女真族との戦いに反対。北の領土放棄も仕方ないと考えていました。
しかし左議政だった孟思誠(メン・サソン)は世宗の方針を積極的に支持しました。孟思誠は女真征伐作戦を考案して実行しました。孟思誠が育てた金宗瑞も女真族討伐で活躍した人物の一人です。
しかし女真族の多く住む北の地方は反乱が起こりやすい不安定な土地となります。
国王の仏教信仰に反対
世宗が家族を亡くして仏教を信仰すると厳しく批判しました。
孟思誠(メン・サソン)は儒学者だったので仏教には批判的でした。朝鮮は儒教の国なので国王が仏教を信仰するのは許せなかったのです。世宗が宮殿内に仏堂を作り太宗を供養したときもやめさせようと世宗を説得しました。しかし世宗が説得を効かなかったので儒学生を集めて反対しました。
世宗の時代は朝鮮で仏教弾圧が始まる時代です。孟思誠のような儒学者が政治の世界で活躍する時代になったことも影響しています。
晩年に入り引退。
1438年。温陽の自宅で死亡しました。
また政治家としてだけでなく詩歌や音楽の才能もありました。世宗時代の文化の発展にも貢献しています。
使用人や奴婢には寛大な人物でしたが、地位の高い人には厳しい意見を言う人物でした。
テレビドラマ
根の深い木 SBS 2011年 演:パク・ギュチェ
龍の涙 KBS 1996年 演:イム・ヒョクジュ
大王世宗 KBS 2008年 演:アン・デヨン
チャン・ヨンシル KBS 2016年 演:キム・ビョンギ
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