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明英宗 朱祁鎮(しゅ・きちん)オイラトの捕虜になった明の皇帝

明皇帝 2.1 明の皇帝・皇子

 

明英宗 朱祁鎮(正統帝/天順帝)は明の第6・8代皇帝。

オイラトと戦って破れ捕虜になりました。釈放されたもののその時には既に弟の朱祁鈺(景泰帝/代宗)が即位していました。国に帰った朱祁鎮は邪魔者扱いされ幽閉状態になります。しかしその後、朱祁鈺が死亡して再び皇帝になりました。

史実の朱祁鎮(正統帝/英宗)はどんな人物だったのか紹介します。

英宗は2回即位しているので正統帝、天順帝ふたつの呼び名があります。

日本では明の皇帝は「正統帝」のように元号で呼びます。
でも朱祁鎮は2回即位しているので正統帝、天順帝の二つの呼び名があります。そのため廟号の「英宗」で呼ぶことも多いです。

廟号は中国・朝鮮など儒教国で使われる呼び名。廟(祖先を祀る宗教施設、仏壇を大きくしたようなもの)に付ける名前。生きてる間は使いません。

 

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英宗/朱祁鎮(しゅ・きちん)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1427年
没年月日:1464年
在位期間
 正統帝:1435年2月~1449年9月
 天順帝:1457年2月~1464年2月

名称:朱祁鎮(しゅ・きちん)
称号:睿帝
廟号:英宗
通称:正統帝・天順帝
父:宣徳帝
母:孝恭章皇后孫氏
正室:孝荘睿皇后銭氏

子供:
成化帝 朱見深、徳荘王 朱見潾など

彼は明の第6・8代皇帝です

日本では室町時代になります。

おいたち

朱祁鎮(しゅ・きちん)は 1427年(宣徳2年)に産まれました。
父は第5代皇帝・宣宗/宣徳帝。
朱祁鎮は長男です。
1428年 2歳のとき皇太子になりました。

正統帝

1435年 父・宣宗が死亡したのでわずか9歳で皇帝になりました。
元号が正統なので正統帝と呼びます。

政治は太皇太后 張氏(祖父の皇后)や父に仕えた重臣・楊士奇たちが行いました。楊士奇は有能な重臣だったのですが1444年に死亡。太皇太后 張氏も死亡したため、宦官の王振が政治を仕切ってしまいました。

中国の王朝は宦官が大きな力を持っています。皇帝や重臣に有能な者がいないと宦官が政治を動かすことがあるのです。王振は蓄財熱心な宦官で、政治家としては無能でした。

朱祁鎮が成人しても王振は政治を動かしていました。

そのため各地で反乱が起きたり、オイラトが万里の長城を越えて侵入してしまいます。オイラトは北方の遊牧民族の集団。日本ではモンゴルの一部のような扱いをうけていますが、モンゴルとは違う集団です。

オイラトの捕虜になる

1449年(正統14年)23歳のとき。王振はオイラト族討伐のため遠征を決定。軍に同行させるため朱祁鎮に親政をもとめました。

正統帝は異母弟の朱祁鈺に首都北京を任せ、50万の大軍で出撃。総司令官は王振です。ところが文官などを入れて数を増やしただけの軍隊でした。

8月。エセンの指揮するオイラト軍は長城を越えて明の守備隊と戦います。明の国境守備隊は敗北。

オイラト軍はさらに前身。明の前線部隊と戦いになります。ここでも明軍は敗退。野営中に敗北の知らせを聞いた王振は撤退を決意。首都・北京に撤退を開始しました。

途中の土木堡(河北省懐来県)に到着。城は遠かったので野営しました。ところが野営中にオイラト軍に囲まれてしまいます。戦いの末、明の兵士の半分が戦死。英宗はオイラト軍に捕まり捕虜になってしまいました。

明軍では内輪もめが起こり王振は護衛将軍の樊忠に殺害されました。

皇帝が捕虜になったのを聞いた朝廷では衝撃が走りましたが、弟の朱祁鎮(景泰帝/代宗)を即位させ、英宗を太上皇帝にすることになりました。

オイラトは英宗を人質にして賠償金を要求していました。しかし代宗は抵抗を続けモンゴルと同盟を結びます。

 

釈放されて国に戻ると幽閉

 

1450年(景泰元年)。明とモンゴルに囲まれて孤立するのを恐れたオイラトは明と和睦。英宗を釈放しました。

明に帰国した英宗でしたが歓迎されません。朱祁鎮(代宗)にとっては邪魔な存在でした。

朱祁鎮(代宗)は英宗を南宮に幽閉しました。さらに英宗は代宗の息子・朱見深を皇太子にする約束を破ってしまいます。

1457年(景泰8年)。代宗が病気になると重臣の石亨と曹吉祥たちが反乱を起こします。代宗派の重臣が粛清され、その年のうちに代宗は死亡しました。

代宗が死亡したので英宗は再び即位しました。

二度目の即位

反乱を起こした石亨と曹吉祥は権力を独占。やりたい放題でした。彼らは「曹石」と呼ばれて人々から恐れられていました。

さすがに朱祁鎮(しゅ・きちん)は彼らを排除しようとします。

1459年(天順3年)。石亨を親族の罪の連帯責任をかぶせて失脚させ牢の中で死亡させました。

1461年(天順5年)。危機感をもった曹吉祥の甥の曹欽が反乱を起こしますが、朱祁鎮(しゅ・きちん)は鎮圧。反乱に失敗した曹欽は自殺。曹吉祥を処刑しました。

1464年(天順8年)。死去。38歳でした。皇帝は子の朱見深(成化帝)が継ぎました。中国の王朝では皇帝が死ぬと生きている側室と侍女を埋葬する習慣(殉葬)がありました。しかし彼は死ぬ前にその習慣を廃止しました。

 

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