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孝恭章皇后 孫氏(孫皇太后)オイラトの捕虜になった朱祁鎮(英宗)の母

明 2.2 明の皇后・側室・公主

 

孫皇后(皇太后)は、明時代の皇后(皇太后)です。

孝恭章皇后(こうきょうしょうこうごう)とよばれます。

3代 永楽帝の時代に 皇孫 朱瞻基(しゅ せんき)の側室になり。
5代 宣徳帝 朱瞻基の側室になりました。宣徳帝の正室が廃されたので孫氏が皇后になります。

息子の朱祁鎮が6代 正統帝になりましたがオイラトとの戦いで敗れ捕虜になります。朱祁鎮は釈放されて一時期幽閉状態にありましたが、もう一度即位8代 宣徳帝になります。

孫氏は 明朝が最も栄えた3代~8代皇帝の時代を見届けた女性です。

中国ドラマ「女医明妃伝~雪の日の誓い~」、「大明皇妃」にも登場します。

史実の孫皇后はどんな人物だったのか紹介します。

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孝恭章皇后 孫氏の史実

いつの時代の人?

生年月日:1399年
没年月日:1462年

姓:孫氏
名:不明
称号:孝恭章皇后(こうきょうしょうこうごう)
父:孫愚
母:董氏
夫:宣徳帝

子供:常徳公主、朱祁鎮(英宗)

彼女は明王朝の第5代皇帝・宣徳帝の側室→正室

第6代正統帝の母親です。

日本では室町時代になります。

役人の娘からお妃候補

鄒平出身(現在の中国・山東省)

父は役人・孫愚。孝恭章皇后は四女でした。幼い頃から美しく、色白で聡明だったと言われます。

1410年。10代のころ。孫氏は太子妃張氏(後の誠孝皇后)の母・彭城妃の推薦で朱高熾しゅ こうし(後の洪熙帝)の屋敷で働き始めます。

太子妃張氏から将来のお妃候補として教育を受けました。朱高熾の息子・朱瞻基しゅ せんき(後の宣徳帝)と知り合い親しくなります。お互いに惹かれ合う関係でした。

孫氏は美人だったので朱瞻基しゅ せんきに見初められたのでしょう。

1417年(永楽15年)。朱瞻基の祖父・永楽帝の決定で朱瞻基は胡善祥こ ぜんしょうと結婚。胡善祥が正室になりました。孫氏は側室になりました。

しかし朱瞻基しゅ せんきは祖父の決めた正室があまり好きになれません。美人の孫氏を寵愛しました。

皇太子嬪になる

1424年(永楽22年)。朱高熾しゅ こうし(洪熙帝)が即位。朱瞻基しゅ せんきが皇太子になりました。

娘の常徳公主が生まれます。

孫氏は皇太子嬪になります。(皇太子妃ではない)

しかし病弱な洪熙帝は即位してわずか1年で死亡。

宣徳帝・朱瞻基の時代

孫貴妃になる

1425年(洪熙元年)。朱瞻基しゅ せんき(宣徳帝)が即位しました。

孫氏は貴妃になります。側室で最高位です。

皇后には胡善祥こ ぜんしょうがなりました。

1428年(宣徳3年)。孫貴妃が息子を出産しました。その男子が朱祁鎮しゅ きちん(後の正統帝・英宗)です。

すると宣徳帝は大喜び。長男の朱祁鎮しゅ きちんを皇太子にしたいと思うようになります。

そこで胡善祥こ ぜんしょうを「病気で男子がない」という理由で廃位させたうえに出家させて道教の司祭(道士)にします。

宣徳帝は孫貴妃を皇后にしました。

父の孫愚は孫忠と名前を変えて「会昌伯」の爵位が与えられました。

皇太后の時代

1435年(宣徳10年)。夫の宣徳帝が死去。息子の朱祁鎮しゅ きちん(正統帝)が即位しました。

孫氏は皇太后になりました。

宣徳帝はわずか8歳の皇帝でしたが、太皇太后の張氏や宣徳帝時代の臣下がいたので政治はうまくいってました。張氏は王振を嫌っていたので何度か王振を叱りつけ、あまり好き勝手なことはさせませんでした。しかし張太皇太后の死後。王振の横暴が目立つようになります。

孫皇太后は王振に対して厳しい態度をとらず、彼らの横暴を許します。

1449年(正統14年)。明とオイラトの戦争が始まりました。この戦争も王振の横暴が問題を大きくしていました。

正統帝・朱祁鎮は50万の軍を率いて出陣しました。ところが土木の変で正統帝がオイラトの捕虜になりました。オイラトは身代金を要求しました。

孫皇太后と錢皇后(正統帝の正室)はすぐに身代金を用意。用意した金と馬をオイラトに送りました。しかしオイラトは正統帝を釈放しませんでした。

8月18日。孫皇太后は郕王・朱祁鈺に監國(皇帝代理)に任命。

8月21日。于謙が兵部尚書になり戦いの準備と防衛を任されました。于謙は南京への遷都に反対。徹底抗戦を主張します。

8月20日。孫皇太后は正統帝・朱祁鎮の息子で2歳の朱見深を皇太子にしました。

9月上旬。重臣たちは孫皇太后と錢皇后に郕王・朱祁鈺を皇帝にするようように要求しました。孫皇太后と錢皇后は仕方なく認めます。

景泰帝・朱祁鈺が即位しました。

孫皇太后は上聖皇太后と呼ばれました。

その後、朱祁鎮は釈放され明に返ってきましたが景泰帝に幽閉されてしまいます。孫皇太后は幽閉された朱祁鎮しゅ きちんが寒さで凍えないように綿の服を何度も送りました。

奪門の変

1456年(景泰7年)景泰帝は病で寝込むようになりました。

石亨は徐有貞・曹吉祥たちと結託、この機会に朱祁鎮を助け出して手柄を立てようと考えました。彼らは仲間を集めて決起します。このとき孫皇太后は彼らに「上皇(英宗)の聖徳は欠けてはいない。天の意志は我らにある」と勅命を与え反乱に正当性を与えました。1457年(景泰8年)1月16日の夜。石亨たちは紫禁城を襲撃、門を占領、幽閉されていた朱祁鎮しゅ きちんが救出されました。

さらに「泰帝派の于謙・王文・太監王誠たちが逮捕、処刑されました。

孫皇太后は朱祁鎮しゅ きちんを再び皇帝に任命。二度目の即位では天順帝と呼ばれます。皇帝の呼び方が2つもあるのは煩わしいので廟号の「英宗」で呼ばれることもあります。

景泰帝は郕王に降格、幽閉されてまもなく死亡しました。

1462年。死去。「孝恭懿憲慈仁荘烈斉天配聖章皇后」の諡(おくりな)が与えられました。

省略して孝恭章皇后と呼ばれます。

史実の孫氏は張太皇太后が嫌った王振を咎めることはなく、朱祁鎮と王振の横暴を許し。息子がオイラトの捕虜になったら言われるがままに身代金を要求。于謙たちの反対にあって徹底抗戦と朱祁鈺の即位を認めました。朱祁鈺が病になると、反朱祁鈺派の重臣を取り込み于謙たちを粛清、息子の朱祁鎮を即位させています。

ドラマに描かれるような立派な皇太后とはいえないようです。

朱祁鎮は孫氏の子ではない?

「明実録・英宗実録」では朱祁鎮の生母は孫氏と書いています。ところが「明史・列傳・后妃」の項目では「孫氏に子はいない。宮女の子を我が子にした。それが英宗(朱祁鎮)である」と書かれています。

元の記録では朱祁鎮の生母は孫氏にしているのに、後に書かれた歴史書では朱祁鎮は孫氏の子ではないと書かれているのです。なぜこの様に書かれているのか諸説ありますが。廃位された胡善祥を哀れに思った人たちがこの様に書いたのだとも言われます。

あるいは。朱瞻基が嫌いな胡善祥を廃位させるため。を溺愛する孫氏と共謀して宮女が生んだを孫氏の子にした。とも考えられますが本当のことはわかりません。

古い方の「明実録」に書いてあるのだから実の子だろう。というのが現在の定説です。

「明史・列傳・后妃」の説を採用したのが「女医明妃伝」。

「明実録」の説を採用したのが「大明皇妃」です。

 

TVドラマ

女医明妃伝 2015年、中国 演:何晴 役名:孫太后
大明皇妃 2019年、中国 演:湯唯 役名:孫若微

 

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