文宗(ムンジョン)は李氏朝鮮の第5代国王。
文宗は在機関は2年ほどと短いですが、29年の世子期間と約8年の代理聴政で国政を担いました。長い世子期間に積み上げた実務経験、代理聴政で見せた統治能力は高く若くして亡くなったのが惜しまれる王です。
意外と知られていない文宗の業績や崩御後に王朝へ及んだ影響までを紹介します。
この記事で分かること
- 文宗が「短命の王」だけでは語れない理由(世子29年・代理聴政約8年の重み)
- 世宗を支えた統治の実務と、言官・輪対を通じた開かれた政治姿勢
- 軍制整備や兵器改良、測雨器など学問・技術への関与が示すバランス感覚
- 崩御後に端宗即位へつながり、王族・重臣間の緊張が高まる流れ
朝鮮 文宗 (ムンジョン)の史実
文宗 (ムンジョン)のプロフィール
| 名前 | 李珦(イ・ヒャン) |
| 廟号 | 文宗(ムンジョン、ぶんそう) |
| 清式諡号 | 荘順王 |
| 生年月日 | 1414年11月15日 |
| 没年月日 | 1452年6月1日 |
| 享年 | 38(数え歳) |
| 在位 | 1450〜1452年 |
(年月日は新暦表示)
日本では室町時代。8代将軍 足利義政の時代。
明朝では7代皇帝 景泰帝(代宗)の時代。
文宗の生涯年表
- 1414年:誕生
- 1421年:王世子になる
- 1429年:婚礼
- 1441年:端宗誕生/顕徳王后権氏死去
- 1442年:世宗の病により代理聴政を開始
- 1450年:世宗崩御、即位
- 1452年:崩御
この年表を見ると文宗の生涯は即位後よりも即位前の世子時代が長いことがわかります。
家族
生涯
文宗は 永楽12年10月3日(1414年11月15日)に誕生。
父は忠寧大君(後の世宗)。後に朝鮮王朝の代表的な名君として知られる人物。
母は正室・沈氏(後の昭憲王后)
李珦は長男でした。でもこのときはまだ父は王位後継者ではなくひとりの王族でした。
1418年に父が国王に即位。
長男の李珦(イ・ヒャン)には正統な跡継ぎとしての期待がかかります。
1421年。7歳のとき王世子になりました。
文宗は幼い頃から学問を好み、人柄は優しく寛大だったと伝えられます。世子師の河演らに学び、儒学的な教養だけでなく、実務に必要な判断力も養っていきました。
最初の世子嬪・徽嬪金氏の廃位(呪術事件)
文宗は1429年に婚礼を挙げました。ところが世子嬪の徽嬪金氏は、世子の愛情を得るために呪術を使ったことが発覚し廃位されました。呪ったわけではありませんが宮中で呪術を行うこと自体が問題だったのです。
二番目の世子嬪・純嬪奉氏の廃位
次の世子嬪である純嬪奉氏は暴力的な性格の上に、内人の小双と共寝したり、同性愛的な行いをしていたために廃位されました。
顕徳王后権氏との婚姻と早すぎる死
その後、後宮であった承徽権氏が世子嬪となります。権氏は1441年に文宗の子を出産します。この子が後の端宗です。
しかし権氏は出産のわずか一日後に産後の病で亡くなりました。
世子としての29年・世宗を支えた実務経験
長期の世子時代が持つ意味
文宗は7歳で世子になり36歳で即位するまでおよそ29年間も王世子の座にありました。
父・世宗は糖尿病を患っており体調は万全ではありません。そのため世宗は1436年に政務を当時世子だった李珦に任せようとしましたが、臣下の反対にあって実現しませんでした。
1442年。いよいよ政務をとるのが難しくなった世宗は臣下の反対を押し切って李珦を摂政に任命、代理聴政を行わせました。国の重大事以外は李珦が決定を行うことになります。こうして世宗が亡くなるまでの約8年間は李珦が国政を担当しました。
文宗といえば在位期間が短い印象がありますが、国王時代も含めれば10年近くは実際に国のtッぷとして政治を行っていたことになります。
文官・武官のバランスの取れた登用
文宗は世子時代から文官と武官を偏らせずに用いました。朝鮮王朝では儒学官僚が政治の中心ですが、実際の国家運営では軍事も必要です。
軍の編成や戦い方をまとめた『陣法』を編纂。太宗の時代に作られた兵器「火車」を改良。およそ100本の火薬の力で飛ぶ矢を発射する兵器で、女真族との戦いに威力を発揮しました。
文宗は学問を大事にする一方で軍事もおろそかにはしませんでした。バランス感覚に優れた君主でした。
言官の言論に寛容だった政治姿勢
文宗は臣下の発言に対して寛容でした。朝鮮王朝では三司(司憲府・司諫院・弘文館)が存在して、言官が王や高官の問題点を指摘や弾劾を行う仕組みがありました。
言官は王にとって耳の痛いことも言いますが。文宗は言論を抑え込むより、活発に意見を言わせて民衆の不満や政治の実態を知ろうと努めました。
これは世宗の代から続く議論を大切にする政治を受け継いだものと言えます。
科学技術への関心(測雨器など)
文宗は学問を好んだだけでなく、天文学や算術にも関心を示しました。世宗時代には農業に活かすために降った雨の量を測って記録する仕組みが整えられましたが。世子時代の文宗は測雨器の開発運用に関わり、文宗自らアイデアを出したと『世宗実録』に記録されています。
代理聴政で示した統治能力
文宗は若いころから世宗の政治を側で見て学び経験を積み重ね、世宗が病に伏せっても政治を停滞させることなく進めることができました。政務処理能力はすでに国王並みに達していました。
世宗が文宗と世孫(端宗)の将来を案じた理由
しかし文宗には不安がありました。父親に似て病気がちだったのです。
世宗は文宗を信頼していましたが、息子も長生きできないかもしれないと心配していました。そのため世宗が集賢殿の学士たちを呼んで世孫(端宗)の将来を託したと伝わります。
文宗の即位と在位中の功績
即位の流れと明からの冊立
1450年旧暦2月。世宗が死去。文宗が即位しました。文宗はすでに代理聴政をおこなっていたので、政治に停滞はありません。速やかに明の承認を得て正式に国王となりました。
開かれた政治:輪対の拡大
在位中の文宗は輪対ができる官僚の範囲を6品以上に広げました。
輪対とは官僚が王と面談して直接意見を言える制度です。文宗は重臣だけでなく中堅の下クラスまで王に意見を言えるようになりました。こうして情報が重臣のところで止まってしまうのを防ぎ、現場の意見を知るように務めました。
編纂事業と制度整備
文宗は言論の活性化と並行して、記録と制度の整理にも力を入れ、『東国兵鑑』『高麗史』『高麗史節要』などの編纂事業が進められました。
文宗の最後
病弱体質と長年の負担
文宗はもともと病弱だったとされます。世宗もその点は心配していました。
さらに文宗は世子時代から長く実務を担い1442年以降は代理聴政を行い実質国王並みの重責を負っていました。
両親の喪による身体への影響
また父・世宗と母の三年の喪を立て続けに務めたことも健康悪化を早めた理由の一つと言われます。王室の喪礼は形式だけではなく、食事や衣服・普段の暮らし方にも影響しました。政治は行う一方で、日常生活には制限がかかっているのです。
どこまで厳密に行うからその時の政治情勢や王の性格にもよりますが、文宗は特に真面目だっただめに喪礼はおろそかにはできなかったようです。その結果、身体をさらに弱らせた可能性があります。
3年喪があけたころ、文宗は倒れてしまいました。臣下たちは王に休養を勧めましたが、文宗は「君主たるもの休んではいられない」と臣下の意見を却下して政務を続けました。
金宗瑞らに後を託す
しかし文宗の健康が急速に悪化。余命が少ないと悟った文宗は皇保仁(ファンボ・イン)、金宗瑞(キム・ジョンソ)ら宰相たちをよんで遺言を残しました。まだ幼い世子(端宗)を支えるよう頼むという内容でした。
1452年の崩御とその直後の王朝への影響
文宗は1452年旧暦5月、景福宮千秋殿で崩御しました。享年37、即位からわずか2年3か月でした。年齢と在位期間の両方を見ても、王としては非常に早い死といえます。
文宗の崩御によって幼い端宗が即位。皇保仁、金宗瑞ら重臣が政治を主導する体制へ移ります。
しかし重臣たちが中心となって行うことに不満を持ったのが首陽大君たち王族とそのとりまき達でした。文宗の死によって、新たな争いが始まろうとしていました。
陵墓・顕陵(ヒョンルン)と顕徳王后の合葬
文宗の陵墓「顕陵」の場所と概要
文宗の崩御後、遺体は京畿道九里市の東九陵内にある顕陵に埋葬されました。東九陵は朝鮮王陵が集まる重要な陵墓群です。

文宗の墓
顕徳王后権氏の追廃と遺骸の扱い
顕徳王后権氏はもともと昭陵に安葬されていたが、癸酉靖難後の1457年に追廃され、遺骸が海辺に捨てられるという憂き目に遭った。その後、1512年(中宗7年)に顕陵へ合葬された。
文宗より先に亡くなった顕徳王后権氏は、もともと昭陵に安葬されていました。ところが癸酉靖難後の1457年に端宗が廃されると産みの親である顕徳王后権氏も廃され、遺体は海辺に捨てられました。
1512年の復権と合葬
その後、1512年(中宗7年)に顕徳王后権氏は文宗と同じ顕陵へ合葬され。顕徳王后の名誉が回復しました。
そして文宗と顕徳王后は死後しばらく離されていた二人が同じ墓で眠ることになったのです。
まとめ|朝鮮文宗は短命でも準備された統治者だった
朝鮮文宗は在位期間だけを見ると短命の王です。でも実際には約29年間の世子期間があり、8年間は王に匹敵する重責を担ってきました。実質的に10年近く王の役目をしていたことになります。
文宗は言論の活性化、歴史書や兵書の編纂、兵法と国防への理解がありました。世宗の治世の後半は実質文宗が行っていたようなもので。目立つ外征や権力闘争で名を残した王ではありませんが国の制度と運営を整えるのに貢献しました。
一方で、病弱な体質により即位後まもなく崩御したため幼い端宗が即位。その後の混乱を招く原因となりました。若くして亡くなったのが惜しまれる王です。
関連記事

コメント